82. 夜明け前
急な落下感に身体がビクリと反応し、僕は飛び起きた。
「うわっ!」
椅子ごとひっくり返りそうになって、慌てて空を掻く。どうにかバランスをとって持ち堪えた。
「あ、危なかった……」
大きな音を立てずに済んだことに安堵しながら、そっと耳をそばだてる。
しんとした夜の空気が、家族は皆、眠っていることを教えてくれる。
ふと、机に置かれた透明なキューブ型ガジェットに目をやる。
本物そっくりな金魚や水草が揺らめくなか、午前三時半の数字がひっそり浮かんでいる。ビームスプリッターを使った、疑似アクアリウム時計――
どうやら、真っ白な進路希望表を映したタブレットと睨めっこしてるうちに、寝落ちしてたみたいだ。
相変わらず……何ひとつ書けないまま。
睫毛をなぞると、乾いた感情の名残がそこにあった。
夢の重さが残ったまま、椅子に身体を預けて、ぼんやりと天井を仰ぐ。
「……また、あの夢だ」
額に傷ができてから、定期的に見るようになった明晰夢。
僕ではない誰かの世界が、音もなく崩れ落ちていく。
くり返される終末の情景は、いつも胸に喪失感と後悔だけを残して終わる。
(あの時、ああしていれば……こうしていれば)
そんな誰かの強い絶望に、何かできないかと足掻き続けても、結局は現実に引き戻されてしまう。
だからって、この五年間、僕はただ流されていたわけじゃない。
「夢で一番厄介だった大鎌は、もう避けられる。でも問題は、その後だな――砂の瀑布は予想外だった……。どうしよう。そもそも、あの避け方じゃダメなのか……もっと工夫しないと」
僕は気付くと、反省と考察をはじめている。
この夢をハッピーエンドにしてみせたい――まさに執念だった。
――『君は諦めていない』
夕闇のなかで僕を見据えていた、実葛さんのまなざし――思考の海に沈みかけた心を、まぶたの裏から引き戻した。
あのとき、心の底から揺さぶられた感覚を思い出す。
「……実葛さん、浮夜絵師だったんだ」
頭のなかで、どこまでも広がるシティ・ポップの光景――
靄が晴れていくようだった。僕は確かに、あの光景のなかで、見失いかけていた自分を見た気がした。
もう一度、あの感覚に近づきたい。
言葉にすれば――
「僕が……。浮夜絵師になっ……」
言いかけたところで、もう痛まないはずの額の傷がくすくす笑った気がした。
――『否定することが君のためになると、本気で信じている者もいる』
僕がいままで出会ってきた、“緑色”を見る視線。
それは、必ずしも色眼鏡や悪意ばかりじゃなかった。
僕のことを本気で想って、夢から遠ざけようとした人もいたはず――
――『それに耳を傾けるくらいなら、いっそ無責任に応援する手をとってみるのはどうだい?』
本当に……そんなこと、していいのかな?
僕は、“緑色”なんだ。そんなの、わがままだよ、きっと。
もし僕の願いが叶うことで、誰かを泣かせてしまったら……って――
独りの夜は、耳が痛くなるほど静かで、考えれば考えるほど僕を弱気にさせた。
「やっぱり忘れたほうが、いい……」
そうやって、色づく勇気すら、自分で色褪せさせてしまう――いつからか習性になっていた。
期待するから、絶望する。夢を見るから、挫折する。
ならいっそ、何も求めずにいたほうが楽だ。
緑色らしく、控えめに。目立たず、堅実に。
それでいいと、思い込もうとしていた。
自分が思い描く幸せに手を伸ばすことが恐かった。
霞んでいく――喜びも、ときめきも。
まぶしさから目をそらして、安心感をまさぐる。
どうやら僕は、牛乳瓶の底を頼っているうちに、心の視力まで失ってしまったみたいだ。
そっと額をなぞる。
「この傷は、“絵”だって……?」
何それ。超恐いやつ――
改めて意識した瞬間、背筋がすっと冷えた。机に額を打ち付けるように突っ伏す。
その弾みで、ふと、どこからか軽快なリズムが微かに囁きはじめた。
明晰夢から飛び起きた拍子に、イヤホンが耳から外れていたらしい。
床に転がっていたそれを拾い上げ、そっと耳に押し込む。
闇夜を切り裂くような明るいビート。
その上に重なる唯一無二の歌声は、聴くだけで景色が塗り替わるよう。
世界中を惹きつけるその声が、褪せかけていた勇気に色を差す。
動画配信サイトで活動する、いまをときめく歌姫 “Sora -ソラ-”。
顔も出さず、姿も明かさず――
ただ歌声ひとつで、世界中を沸かせる歌い手だ。
新曲を投稿するたびにSNSは騒然とし、MVは数時間で再生回数を塗り替える。
誰もがその名を知り、誰もその素顔を知らない。
MVの世界観もSNSでの立ち居振る舞いも、すべてが現実と虚構の境を曖昧にしていた。
それでも、“声”だけは確かにそこにある。
正体なんて知らなくても、それだけで十分だった。
気づけば僕の心を支えてくれていた。
緑色の現実に、心が折れそうになるたび、Soraの歌に何度も助けられた。
(Soraはすごいや……。たったひとりで世界中を笑顔にしてる。歌声だけで世界をひとつにしてる)
今夜は新曲が公開されたらしい。目新しいサムネイルをタップする。
――『でもさ! 絵って見ただけで伝わるし、
言葉通じなくても、世界中の人、笑顔にできんじゃん?』
イントロと同時に歌声が響き、霞みかけていたあの笑顔が、ふいに思い出される。
その歌詞が、どこか東雲さんを彷彿とさせるからかもしれない。
「言葉以上に、世界中を笑顔にできる……」
Soraの歌声が、ヴァースを語り出す。
――『マジでなれるっしょ! 織部くん、浮夜絵師!!』
東雲さんの弾けんばかりの声色が、コーラスに乗る。
いくら忘れようとしても、鮮やかな色が心の奥底から湧きあがり、褪せかけた勇気を染め上げる。
(そんなこと言われたって、僕はもう何年もろくに絵を描いてないのに……)
それでも意固地にしがみつこうとする僕を、額の傷がまた笑った。
滑稽だ、と言わんばかりに。
「……ああ、そっか」
僕はいつの間にか、人の優しさに鈍くなっていた。
本当の優しさって、きっと“気付ける心”なんじゃないかって。
でも僕は、ずっと誰かの想いを受け取ったフリばかりしていた。
それは、僕が目標にしてきた“誠実”から、いちばん遠い姿なんじゃないか……?
――『その傷を完治させる方法が、実はひとつだけある』
勇敢な歌声がブリッジを越えた瞬間、脳裏に浮かんだのは、“己を見失ってはいけない”という言葉。
あの夕陽の下、燃えるように輝いていた万年筆の天ビスが忘れられない。
――『浮夜絵師になることだ』
心のなかに描き込まれた、実葛さんの朱鷺色の瞳は、しっかりと僕を見据えていた。




