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RGB:僕と浮世離れの戯画絵筆 ~緑色のアウトサイダー・アート~  作者: 雪染衛門
第九章 すべての絵師を処せ

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82. 夜明け前

急な落下感に身体がビクリと反応し、僕は飛び起きた。


「うわっ!」


椅子ごとひっくり返りそうになって、慌てて(くう)()く。どうにかバランスをとって持ち(こた)えた。


「あ、危なかった……」


大きな音を立てずに済んだことに安堵(あんど)しながら、そっと耳をそばだてる。

しんとした夜の空気が、家族は皆、眠っていることを教えてくれる。


ふと、机に置かれた透明なキューブ型ガジェットに目をやる。

本物そっくりな金魚や水草が揺らめくなか、午前三時半の数字がひっそり浮かんでいる。ビームスプリッターを使った、疑似アクアリウム時計――


どうやら、真っ白な進路希望表を映したタブレットと睨めっこしてるうちに、寝落ちしてたみたいだ。

相変わらず……何ひとつ書けないまま。


睫毛(まつげ)をなぞると、乾いた感情の名残がそこにあった。

夢の重さが残ったまま、椅子に身体を預けて、ぼんやりと天井を仰ぐ。


「……また、あの夢だ」


(ひたい)に傷ができてから、定期的に見るようになった明晰夢(めいせきむ)

僕ではない誰かの世界が、音もなく崩れ落ちていく。

くり返される終末の情景は、いつも胸に喪失感(そうしつかん)と後悔だけを残して終わる。


(あの時、ああしていれば……こうしていれば)


そんな誰かの強い絶望に、何かできないかと足掻(あが)き続けても、結局は現実に引き戻されてしまう。


だからって、この五年間、僕はただ流されていたわけじゃない。


「夢で一番厄介(やっかい)だった大鎌は、もう避けられる。でも問題は、その後だな――砂の瀑布(サンドフォール)は予想外だった……。どうしよう。そもそも、あの避け方じゃダメなのか……もっと工夫しないと」


僕は気付くと、反省と考察をはじめている。

この夢をハッピーエンドにしてみせたい――まさに執念だった。


――『君は諦めていない』


夕闇のなかで僕を見据えていた、実葛(さねかずら)さんのまなざし――思考の海に沈みかけた心を、まぶたの裏から引き戻した。


あのとき、心の底から揺さぶられた感覚を思い出す。


「……実葛(さねかずら)さん、浮夜絵師(うきよえし)だったんだ」


頭のなかで、どこまでも広がるシティ・ポップの光景――

(もや)が晴れていくようだった。僕は確かに、あの光景のなかで、見失いかけていた自分を見た気がした。


もう一度、あの感覚に近づきたい。

言葉にすれば――


「僕が……。浮夜絵師になっ……」


言いかけたところで、もう痛まないはずの額の傷がくすくす笑った気がした。


――『否定することが君のためになると、本気で信じている者もいる』


僕がいままで出会ってきた、“緑色”を見る視線。

それは、必ずしも色眼鏡(いろめがね)や悪意ばかりじゃなかった。

僕のことを本気で想って、夢から遠ざけようとした人もいたはず――


――『それに耳を(かたむ)けるくらいなら、いっそ無責任に応援する手をとってみるのはどうだい?』


本当に……そんなこと、していいのかな?

僕は、“緑色”なんだ。そんなの、わがままだよ、きっと。

もし僕の願いが叶うことで、誰かを泣かせてしまったら……って――


独りの夜は、耳が痛くなるほど静かで、考えれば考えるほど僕を弱気にさせた。


「やっぱり忘れたほうが、いい……」


そうやって、色づく勇気すら、自分で色褪(いろあ)せさせてしまう――いつからか習性になっていた。

期待するから、絶望する。夢を見るから、挫折する。


ならいっそ、何も求めずにいたほうが楽だ。

()()らしく、控えめに。目立たず、堅実に。

それでいいと、思い込もうとしていた。

自分が思い描く幸せに手を伸ばすことが恐かった。


(かす)んでいく――喜びも、ときめきも。

まぶしさから目をそらして、安心感をまさぐる。


どうやら僕は、()()()()()を頼っているうちに、心の視力まで失ってしまったみたいだ。


そっと額をなぞる。


「この傷は、“絵”だって……?」


何それ。超恐いやつ――


改めて意識した瞬間、背筋がすっと冷えた。机に額を打ち付けるように突っ伏す。


その弾みで、ふと、どこからか軽快なリズムが微かに囁きはじめた。

明晰夢から飛び起きた拍子に、イヤホンが耳から外れていたらしい。

床に転がっていたそれを拾い上げ、そっと耳に押し込む。


闇夜を切り裂くような明るいビート。

その上に重なる唯一無二の歌声は、聴くだけで景色が塗り替わるよう。

世界中を惹きつけるその声が、()せかけていた勇気に色を差す。


動画配信サイトで活動する、いまをときめく歌姫 “Sora -ソラ-”。


顔も出さず、姿も明かさず――

ただ歌声ひとつで、世界中を沸かせる歌い手(シンガー)だ。


新曲を投稿するたびにSNSは騒然とし、MVは数時間で再生回数を塗り替える。

誰もがその名を知り、誰もその素顔を知らない。


MVの世界観もSNSでの立ち居振る舞いも、すべてが現実と虚構の境を曖昧にしていた。

それでも、“声”だけは確かにそこにある。


正体なんて知らなくても、それだけで十分だった。

気づけば僕の心を支えてくれていた。


緑色の現実に、心が折れそうになるたび、Soraの歌に何度も助けられた。


Sora(ソラ)はすごいや……。たったひとりで世界中を笑顔にしてる。歌声だけで世界をひとつにしてる)


今夜は新曲が公開されたらしい。目新しいサムネイルをタップする。


――『でもさ! 絵って見ただけで伝わるし、

言葉通じなくても、世界中の人、笑顔にできんじゃん?』


イントロと同時に歌声が響き、霞みかけていたあの笑顔が、ふいに思い出される。

その歌詞が、どこか東雲(しののめ)さんを彷彿(ほうふつ)とさせるからかもしれない。


「言葉以上に、世界中を笑顔にできる……」


Soraの歌声が、ヴァースを語り出す。


――『マジでなれるっしょ! 織部(おりべ)くん、浮夜絵師!!』


東雲さんの弾けんばかりの声色が、コーラスに乗る。


いくら忘れようとしても、鮮やかな色が心の奥底から湧きあがり、褪せかけた勇気を染め上げる。


(そんなこと言われたって、僕はもう何年もろくに絵を描いてないのに……)


それでも意固地にしがみつこうとする僕を、額の傷がまた笑った。

滑稽(こっけい)だ、と言わんばかりに。


「……ああ、そっか」


僕はいつの間にか、人の優しさに鈍くなっていた。


本当の優しさって、きっと“気付ける心”なんじゃないかって。

でも僕は、ずっと誰かの想いを受け取ったフリばかりしていた。

それは、僕が目標にしてきた“誠実”から、いちばん遠い姿なんじゃないか……?


――『その傷を完治させる方法が、実はひとつだけある』


勇敢な歌声がブリッジを越えた瞬間、脳裏(のうり)に浮かんだのは、“己を見失ってはいけない”という言葉。


あの夕陽の下、燃えるように輝いていた万年筆の(てん)ビスが忘れられない。


――『浮夜絵師になることだ』


心のなかに描き込まれた、実葛さんの朱鷺色(ときいろ)の瞳は、しっかりと僕を見据えていた。

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