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RGB:僕と浮世離れの戯画絵筆 ~緑色のアウトサイダー・アート~  作者: 雪染衛門
第八章 赤恥をかくのはごめんだ

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81. 鴨川鼠

鼠の奔流が轟々(ごうごう)と鳴り響き、地下通路の天井をも(おびや)かす。

地面が生き物のように脈打ち、空間を圧迫していく。

百里香(ゆりか)はAI術士の腕のなかで、その光景を呆然と見つめていた――だが。


「あっ、だめっ!!」


喜々とした、金属を擦るような鳴き声。

百里香の視線が、抱えていた片喰(かたばみ)とともに引っ張られる。

気を失ったままの彼に群がる、無数の鼠。

ストールに歯を立てる鼠に、百里香はスマホを咄嗟(とっさ)に投げつけた。

鈍い音が響いた途端、鼠たちは一斉に散っていく。


百里香は、動く手で、片喰を抱え直すように手繰(たぐ)り寄せる。

そのまま、退紅(あらぞめ)のほうへと目を向けた。


壁を背に、もう二度と動くことのないその姿を、鼠の波が覆い隠していく。

袖、肩、そして頬の古傷が――

彼の矜持(きょうじ)も、生きた証も、何もかもが鼠色に呑まれていく。


「……ひどい……もう、骨すら残らないじゃない」


嘆きが百里香の口をついて漏れた。


唐突に、火花が散る。

鼠が配線を(かじ)ったのだろう、断線音が弾ける。

照明が落ち、世界は闇に沈んだ。


悲しむ暇すら与えられない。


空気が、喉の奥で止まった。

暗闇が、鼠たちの(うごめ)く気配をいっそう濃くする。


背筋が粟立(あわだ)つ。肺にきゅっと縮む感覚が走った、その直後――


AI術士の回路に、そっと光が走る。

自分の色(オレンジ)――ほっと温かい気持ちになれる、好きな色だ。

ただ、いまはその優しさが、胸に(うず)く。


百里香は、小さく呟いた。


「……私を助けたって、なんの得にもならない」


AI術士がこのまま職務を全うすれば、間違いなく処分される。

退紅が命を懸けて託した「生き延びろ」という願いも、ここで終わる。


「あんたが守ろうとしてる人間に、あんたを犠牲にする価値なんてないわ」


――自業自得。

――他人に迷惑かけずに死ねよ、承認欲求モンスターw


画面越しに浴びた罵声が、脳裏にこびりついて離れない。

まるで、寄せては返す海に揺蕩(たゆた)うクラゲのように。

際限なくネットの波を彷徨(さまよ)い続けるだろう。乾くことない、傷となって。


それでも、百里香はまだ “自分には意味がある”と信じたかった。

だが、その想いすら、橙色の光が否定する――


片喰は、身を(てい)して庇ってくれた。

退紅が、命を賭して守ってくれた。

そしてAI術士は、いまもなお、百里香に光を灯し続けてくれている。


彼らは、こんなにも美しい。

守るべきもののために躊躇(ちゅうちょ)なく行動し、信念を貫いた姿が、あまりにも眩しく映る。


それに比べて、自分は――


「さようなら」――AIに本来ならば、ありえない言葉を口にさせたのも、

その鋼鉄の頬を撫でた退紅の涙も、

()()が処分される未来も……。


すべて、自分が原因だ。

私が“青色”に囚われなければ――


「……さっさと逃げるべきよ」


「あなたが推奨する“逃走行動”は、生存維持を目的とした選択ですか。それとも、罪悪感に起因する回避行動ですか?」


百里香の身体を支え続けるAI術士。その橙色の光は、揺るぎなく灯っている。

生きているのか、死んでいるのかもわからない機械。

それでも、これほどまでに純粋な輝きを宿せるなんて――


そんな光に照らし出される私は、どうしようもなく価値のない存在に思えて仕方ない。


この橙色が永遠に失われるくらいなら、私が消えてしまったほうがいい――

そう、一瞬でも脳裏をよぎったことが、ひどく虚しく、情けなかった。


「……お嬢さん」


思わぬ方向から声がした。恐るおそる振り返る。

鼠の奔流のただなかにありながら、影はぬらりと揺らぎ――ゆっくりと、せり上がってきた。


「さぞ――お困りでしょう」


包み込むような、慈悲深い声色が、(かえ)って不気味だった。

百里香の身体がビクリと震え、傷口が(きし)む。


薄闇に浮かぶのは、公家荒(くげあれ)めいた隈取(くまどり)模様――奇妙な(めん)の唇には、細筆が一筋、飾り細工のように組み込まれている。

その尾骨(びこつ)には、小さな鈴が結わえられ、男の顔が揺れるたび、(りん)と澄んだ音を響かせた。


灰と白の狭間にあるような色のローブを(まと)った男。

押し寄せる鼠の波間をものともせず、異様なほど滑らかに、音もなく百里香の前へとにじり寄る。


拙僧(せっそう)が、貴女をかくまって差し上げましょう。無論、そのAI術士(からくり)とともに」


「……なんですって?」


「貴女は、導かれるのです。“夜目(よめ)(きみ)”に」


「……夜目が君、って……」


先刻、狐鼠(きつねねず)が口走っていた名だった。

AI術士の全身が警告色に強く脈打つ。


「識別完了。対象:落画鬼(らくがき)犯罪組織“四十八茶(しじゅうはっちゃ)百鼠(ひゃくねず)”所属、カラーコード『鴨川鼠(かもがわねず)』」


「おや、拙僧の色名(カラーコード)までお見通しとは。技術の進歩で、()()()()()ですねえ」


ローブの男――鴨川鼠が軽く首を(かし)げる。

その動きに合わせ、細筆の鈴が音を転がす。


「危険度:リスク最上位。

対処戦術――“オーバードロー”推奨。システム・リソース超過、許容。

即時排除を開始」


許可制だったはずの捨て身の技を、独断で発動する――それだけでも、この男の危険性は明らかだった。


鴨川鼠の手が、音もなく迫る。

百里香は思わず身構えた。


「ずいぶんとお転婆(てんば)さんなんですね」


優しい声音に、百里香は一瞬身を強張(こわば)らせる――が、伸ばされた手は、彼女に触れることはなかった。


機体と肉体――すれ違うように、伸ばされた二本の腕。

攻撃と救済と、まるで正反対の意志が交差していた。


「紛れもなく、赤色の意志を受け継いでいる証拠です」


攻撃ははじまらない。鴨川鼠は、そっと、AI術士のこめかみに触れる。


「もう、悲しみから目を背けなくていいのですよ。()()()は、ご立派でした」


AI術士の光が、一瞬だけ赤く脈打つ。

しかし、抵抗するような揺らぎはすぐに消えた。

まるで糸が切れたかのように、機械仕掛けの身体が静まり返る。


「な、何をしたの……?」


百里香が震える声で問いかけた。


「プログラムが、彼女の意志の妨げになっているのです。さぞお辛かったことでしょう。なので、少しだけ楽にしてあげたのですよ」


鴨川鼠は、少しの悪意もなく、あたかも慈悲深い行為のように語る。

気を許せば、そのまま受け入れてしまいそうになる。


「でも、それって……」


「貴女も、そう望んでいたはずです」


百里香が我に返りかけた瞬間、善意がその心を鷲掴(わしづか)みにした。


AI術士の機体が、わずかに沈む。

何かを求めるように、宙に浮いたままだった手が、ゆっくり降ろされる。

目に宿る無機的な光を落とし、静かに呟いた。


「……ごめんなさい」


呑まれていった退紅の場所を、ただ一点、見つめたまま。


この謝罪にはどんな意味が込められているのか――

人と同じ解釈をしていいものなのか、百里香にはわからない。


これは、救済なのか、洗脳ではないのか――


百里香の動揺と不信感を見透かすように、鴨川鼠が口を開いた。


「……()()が憎いでしょう?」


“青色”――百里香は息を呑んだ。


「もっと、橙色(あなた)らしく輝きたいでしょう?」


(……私、らしく……?)


妙な方向から風が吹き、百里香の顔を撫でる。


鼠の奔流がざわめき、波紋を描いた。

その中心に立つ鴨川鼠の足元から、鼠たちが砂の瀑布(サンドフォール)のようにサラサラと音を立て崩れ出す。


床が、静かに崩れはじめていた。


「拙僧は、貴女の努力が正当に報われる世を願っているのです」


百里香は、真っ黒な大穴を覗き込む。

どこへ繋がっているのかもわからない。


足が(すく)む。


「さあ、堕ちて。闇は恐怖を与えるだけではないのですよ。すべての生命を、()()()()()()でもあるのです」


ローブの男は、すっと手を差し出した。


「“色に囚われない世界”を目指しましょう、ともに」


世界が、百里香に優しくなってくれたなら、どんなに良いだろう。


百里香の胸に、()のない世界が広がる。


伸ばした手が、暗闇に呑まれる。

真っ暗な大穴へと吸い込まれていく。


―― Can make you a killing(あなたに大儲けさせることができますよ)


(ささや)きのような言葉が、耳の奥に染み込んでいく。

その闇は、思いのほか優しく、夢のように甘美だった。

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