07. 家族を襲った極悪人
消毒剤の強い匂いが鼻をくすぐる。
それで、僕はこの見慣れない天井が病室のものだと自覚した。
あれから一週間、意識が戻らなかったらしい。
聞いた途端、七日も絵日記をサボったと、地味にショックを受けた。
もちろん、それどころじゃないんだけど。
ああ、僕って、自分の命よりも絵を描くことが好きなんだな。
改めて、そう気付かされる。
「お、父……さ、は……?」
久しぶりに発する声は、ほとんどかすれていて、自分でも驚くほど弱々しかった。
でも、誰よりも何よりも、いますぐ確かめたかったことだった。
僕に付きっきりだったらしい母は、僕の目覚めに心底安堵した。
でも、父のことを気にする僕の声を聞くと、嗚咽を漏らしながら泣きはじめる。
――駄目だったのか……。
事件当時のことを聞けたのは、それから数日後のことだ。
僕ら家族を守るため、“何か”が留まる納屋に閉じ籠った父。
外からでも死闘がうかがえる凄まじい音は、救急車やパトカーのサイレンが響く頃には、ピタリと止んでいたそうだ。
祖母は警察と共に、恐る恐る納屋のなかへ入った。
最初に目に飛び込んできたのは、ずたずたに引き裂かれた和紙が、そこかしこに散乱した光景。
和紙には何かの絵が描かれているようだったが、目の悪い祖母にはよく見えない。
だから、腰が痛いと言って警官たちを先に行かせ、その隙に数枚を拾い上げた。
バラバラになったパズルのピースのようで、何が描かれていたかもわからない。
それなのに――
祖母は和紙を手にした瞬間、幼い頃の父の顔を思い出し、
和紙一枚、一枚に猫が描かれていたと直感的に理解したそうだ。
「大きな鼠でもいたんですかね」
警官のひとりが、一点を凝視したまま、ぼそりと呟く。
「馬鹿者。こんな豚ほどある鼠がいるか」
別の警官は、そう叱責したきり、立ちすくんでいる。
異臭とともに、視界に広がるのは、大きな焦げ跡。
だが、それはただの焦げ跡ではなく、明らかに――
巨大な鼠の屍骸を模っている。
警官たちが前へ進もうとしないなか、祖母は焦りを押し殺し、一歩踏み出した。
その瞬間、足元からべちゃりと音がする。
焦げ跡かと思っていたものは、
“色があるようで色のない、少し色のある名状し難い不気味な液体”だったという。
あれだけの騒ぎだったのに、動物など外部からの侵入形跡はなかった。
――つまり、絵が動き出したってこと?
もし父が和紙から非実在のネコたちを召喚し、
巨大な化け鼠を退治したのだとしたら――
僕の知っている昔話そのものじゃないか。
そして、鬼が……
落画鬼が……
まさか本当に……?
「実在してる……?」
その後の鑑識捜査でも、肝心の父の血液ひとつ見つからなかったという。
(僕よりたくさんの血を流していたはずなのに……
いったい、どういうこと?)
化け鼠に喰われた形跡もないまま、父は行方不明になった。
僕の体調を考慮して、説明は大まかだったこともあり、状況はよくわからない。
でも、父が生きているなら――
そう安堵したのも、ほんの束の間。
母が語ろうとしない“父の話”を、静かに教えてくれたのは祖母だった。
最終的に、納屋の天井を突き破り、脱出を図った父は――
“家族を襲った極悪人”として、指名手配されているのだと。
いやいや、訳がわからない。
そんなことってある?
思い当たる節があるとすれば……
“僕”じゃないのか?
――僕の絵が本物になったらいいのに。
落書きが鬼になるのなら、
その落画鬼を生み出したのは間違いなく僕だ。
僕が納屋に描いたクロの落書きが、鬼になったんだ。
なぜ化け鼠に変化したのかはわからない。
でも、絶対僕のせいだ。
壁に落書きするなって、言いつけを守らなかったせいで、
お父さんは……。
病室が個室なのをいいことに、僕はとことん自分を責めた。
あの日と同じ、夕暮れが僕を照らすたびに。
もう時季じゃないのに、ひぐらしの独唱が、孤独を煽るように響いてくる。
責めても責めても、責め抜いても足りない。
最初は声を殺して泣いていた。
でも、次第に気が触れたように、大声で泣いてみせたりもした。
それでも、誰も父を許してくれなかった。
なのに、僕を責める人は誰もいなかった――
一生残ると告げられた額のひっかき傷だけが、僕の罪を認めるように、
縦に三本。
ズキズキと疼き、罰のように僕を責め続けていた。
それからしばらくして、警視庁の実葛という刑事が、
僕へ事情聴取するため、わざわざ東京からやってきた。
東京の刑事さんなら、きっとわかってくれる。
そう思い、僕は対面するや否や、真っ先に白状した。
僕が犯罪者なんだ。
だから、もう父を咎めないでほしい。
「僕の落書きのせいなんだ」
必死に訴える当時の僕の形相は、
とても子どもとは思えないものだったらしい。
このままでは、僕の心がどこか遠く、
良からぬ場所へ離れてしまう――
そう感じ取った実葛刑事は、僕の小さな身体を抱きしめてくれた。
父を思い出す温かさ。
でも、父じゃなかった。
その違いに、また涙があふれる。
父じゃなければ、このぽっかり空いた穴は埋められない。
ぼんやりとした不安も、あの雑に撫でる大きな手じゃなきゃ、拭えない。
実葛刑事は、僕の気が済むまで泣かせてくれたあと、静かに告げた。
――僕の落書きなんて、最初からなかった。
多くの謎と深い傷を残したまま、
あれから五年の歳月が過ぎた。
今日もまた、もうすぐ夜がくる。