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RGB:僕と浮世離れの戯画絵筆 ~緑色のアウトサイダー・アート~  作者: 雪染衛門
第八章 赤恥をかくのはごめんだ

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77. 面目一新

「……そんな大切なこと」


百里香(ゆりか)は、最後に捉えた退紅(あらぞめ)の言葉を反芻(はんすう)し、唇を噛んだ。


「自分の口から言うべきよ……」


振り絞るような声は、爆音にかき消されたまま。胸の奥で何かが千切れ、指先から力が抜けていく。血と火薬の臭いに絡みつく旋律(せんりつ)が、脳を鈍らせる。


気が狂いそうだった。


耳を塞ぎ、すべてを拒絶しようとした――その時。


「っぶねー。イマドキのAIって、こんなん作れんのかよ」


不意に落ちた声とともに、銀弾が床を転がり、百里香の視界に飛び込んできた。

理解が追いつくより早く、胸が熱くなる。顔を上げる前から、わかってしまう。

その熱に耐えきれず、全身が震えた。


ゆっくりと視線を上げる。

一端に、厳かな金具を備えた五色(ごしき)(いと)が――目にも止まらぬ速さでより合わさり、ひとつとなって、すぐさま退紅の肉体を縛り上げる。

赤黒い(うな)り声が、地下の壁を震わせた。


「……生きてる?」


百里香の視線が捉えたのは、食い込む銀弾が痛々しいコンパスの脚。その芯先から、地下の闇を払うほどの金色の軌跡(きせき)が描かれ、やがて環を形作る。

光の輪は滑るように伸び、縄のもう一端へと収まった。


「よく覚えとけっす、なんとか型人工知能(じんこうちのう)!」


疲労を滲ませながらも、威勢よく放たれた声と同時に、コンパスの針先がAI術士へ突き出される。


浮夜絵師(うきよえし)名乗んなら、ここはフルシカトで助けるところっすよ」


その声に、百里香の胸が再び強く揺れる。

対照的にAI術士は――稼働を止めたかのように動かず、無機質な視線だけがその一点に固定されていた。


退紅の命が守られたことに安堵するのも束の間――憑依に吞み込まれた肉体は、警察官としての理性も矜持もかなぐり捨て、次々と五色の糸を食い千切る獣と化す。


片喰(かたばみ)くんっ!」


百里香の悲鳴に似た声が通路に反響する。

残る黄色の糸だけが、退紅の暴れるたびに軋み、ピンと張った音を立てた。

切れる、という予感だけが胸を締めつける。呼吸が浅くなる。


「――“不動の金縛(かなしば)り”」


片喰は顔を歪ませながらも、祈るように(ねん)じきった。


たちまち、黄色の糸が閃光を放ち、退紅の全身が(ゆみ)なりに仰け反る。

苦鳴が地下通路を裂く。血走った瞳が裏返り、爪が壁を抉った。


百里香は固唾(かたず)を呑み、息を止めたまま――ただ見守ることしかできない。


落画鬼(らくがき)だけをしばく術なんで……安心して」


弱々しい笑みが、百里香の胸に温もりを残す。


「ただ、これも長くはもたないっす。はやく追い出してあげましょ」


片喰(かたばみ)、くん……」


思わずこぼれた声に、視界が曇った。

涙とも疲労ともつかない霞が、世界を(おお)っていく。


「そこのAIも。ぶっ壊れてないなら、手伝って!」


片喰の声に応じ、AI術士が光を明滅させる。無機質な肢体で退紅の腰に手を回し、しがみつくように押さえ込んだ。その感情は、誰にもわからない――


「……カッコイイね、(たぬき)のオニーサン」


狐鼠(きつねねず)が、ぼそりと呟く。

手錠に繋がれた腕をできる限り伸ばし、何かを求めるように宙を掻いた。


「いいなあ。オレのことは誰も助けてくれなかったのに……」


伸ばされた手は、ただ空を切る。震える声色が、泣いているのかと錯覚(さっかく)させた。


「バカだなあ……」


それはすぐに(わら)いへ変わる。

寂しさを孕んだ、虚しい嗤い――低い天井にぶつかり、砕けて消えていく。


「ほんっと、真面目なヤツほどバカだなあああ! 傑作だよ、これは!」


喉の奥から湧き上がるような、侮蔑と愉悦が入り混じった声。

どこか自嘲(じちょう)にも聴こえる。


「どいつもこいつも、寄って集って……その能天気なバカ女になんの価値があるってんだっ!」


狐鼠の視線が、百里香を射貫く。

片喰の名をくり返すことで薄らいでいた後悔と罪悪感が、再び疼き出し、容赦なく抉り返された。


「……ペンは」


百里香の耳が、わずかに震える。眉をひそめ、耳を澄ませた。


「剣よりも――」


絶望を誘う邪悪な笑い声と音楽の波間に、かすかな響きが忍び込む。


「――強し」


詠唱にも似た言葉と同時に、地下通路中の空気を震わす強い雷が奔る。黄色の閃光が闇を裂き、狐鼠の嘲笑(ちょうしょう)と百里香の胸の奥で渦巻く罪悪感を一瞬で断ち切った。


「っぱ、先輩は、()()()()っすね」


狐鼠の視線が外れ、張り詰めていた胸の重さが(ほど)ける。呼吸が、戻る。


それは、薄暗い職場で何度も励ましてくれた口癖――()()()()()の私を、唯一「ユリカ」と呼び続けてくれた人の……。


涙でにじむ視界の中、黄色の光が満ちていく。

そこに立つ彼は、いつも通り白い歯を見せて笑っていた。


「……片喰(かたばみ)くん」


片喰は頬を引き締め、狐鼠を見据えた。


「ウチの先輩は、“能天気”なんかじゃないっす」


光が怒りと呼応するように弾ける。顔は血の気を失い、肌の色は黄色の輝きに呑まれそうなほどだ。それでも――瞳だけは、燃えるような意思を宿していた。


「じゃなきゃ、他人の物なんて必死に守れないっすから」


掲げられるコンパス。

その輝きが視界に差し込んだ瞬間、百里香は思わず、自分の手を見下ろした。

割れた爪、青黒く腫れ上がった手のひら。もう感覚なんてない。


でも、この痛みが、誰かを守れた証だと思えた。片喰がそう言ってくれたことで、初めて――


「……“能天()な橙色”って、あんたのことじゃないっすか?」


片喰の一言に、狐鼠の口元が引きつる。開きかけた唇からは、声ひとつ出てこなかった。手錠が鳴るほど拳に力がこもり、爪が食い込む痛みすら意に介さない。


片喰は、ひとつ深い息を吐き、迷いなくコンパスを走らせた。


浮夜絵師の技――その軌跡は、舞のように優雅でありながら、爆音のメロディに煽られた荒々しさも孕んでいる。


風を切る音とともに、幾重にも重なった弧が描かれ、やがて無数の鏡が一斉に生まれた。


「だ、大丈夫?」


百里香が、不安を吐き出す。圧倒的な光景よりも、心配のほうが先に立った。


英雄画(ヒーローイメージ)”は、浮夜絵師にとっての象徴であり、最大火力に近い武器(ビジュアル)だと百里香は理解している。そんなものを量産すれば、本人が無事で済むはずがない。

その懸念を裏付けるように、片喰の表情にはどこか捨て身の色に染まって見えた。


「モームリって感じだったはずなんすけど、なんかテンション、アガってきたっす。リミッター外れたっつーか――」


軽口を叩きながらも、片喰のコンパスは退紅を中心に円軌道を描く。

その軌跡に合わせ、鏡が次々と滑っていく。


「先輩がいてくれてるからっすかね」


平然と言ってのける片喰を、百里香は鼻で笑ったつもりが――

なぜか涙があふれてしまった。

こういう口達者な男が、世の女を泣かせるのだ。つくづく女の敵のような男だ。


やがて、金縛りの効力が薄れたのか、退紅が咆哮を上げる。


赤黒く濁った瞳は血走り、涎を垂らしながら、残る黄色の糸を引き千切っていく。


彼を押さえるAI術士は――月白色(げっぱくいろ)の人工皮膜がこめかみから裂け、その奥で天壇青(てんだんせい)の火花が弾ける。

まるで泣いているように揺らぐ白銀の瞳にすら、容赦なく爪を立てていく。


もはや警察官・退紅のそれではなかった。


――“赤恥(あかはじ)”が、無惨に晒されていく。


この姿を、誰よりも許せないのは彼自身だろう。


(命は助けられても、その尊厳までは救えない――)


片喰は、静かに息を詰め、瞼の裏に力を込めた。


轟いていた爆音が、ふっと途切れる。


「……ちょうどいいや」


ぽそりと呟くと、片喰は音もなく瞳を見開いた。


「全方位ヤケクソドンパチって感じで」


静かな不敵さを宿した笑みが口元に浮かんだ瞬間――スマホから、耳を裂くような音がうねり、コンパスの円軌道に沿って並んだ鏡面(きょうめん)から、閃光が一気に奔った。


乱反射する光が空間を塗り替え、通路全体を漂白(ひょうはく)していく。


地下通路の外壁が、かさぶたのように()がれ落ちる。


光に曝された落画鬼が、退紅の肉体から断末魔(だんまつま)じみた不協和音(ふきょうわおん)を響かせながら引き剥がされる。むき出しになったその姿は、あまりに無防備だった――


「先輩……ユリカ先輩。あの、ジブン……」


片喰の足取りがふらりと揺れ、視界が(かす)む。


「クソがっ!」


狐鼠は激情のままに、赤いライトを振りかぶる。手錠に阻まれようと構わない。

その瞳に映る標的は、ただひとり。


片喰(かたばみ)くんっ!」


百里香の声が()ける。

手を伸ばそうとしたが、力が抜けた体は言うことをきかず、わずかに震えるだけだった。焦燥(しょうそう)とともに、目に映るすべての時がゆっくり流れていく。


「……ジブンは、面目一新(めんもくいっしん)……できたっすかね?」


片喰は静かに、けれどどこか誇らしげに笑った。コンパスを握った手で親指を立て、焦点の定まらない瞳のまま、誰にともなく言葉を託す。


「……あとは任せるっすよ、期待の超新星(スーパーノヴァ)


崩れ落ちる片喰の影――その影を切り裂く跳躍。


鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)のウサギを模した隠密行動戦闘服(ステルス・ギア)が、青白い残光を纏いながら、宙を裂いた。

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