76. 有終の美
「落画鬼による精神侵食を再確認。
抑制効果の低下を検知。憑依進行率、推定……52%」
AI術士の冷静な報告が響く。
死へ向かうカウントダウンのよう、静かに。
その数値に、百里香の鼓動が速くなる。
これから待ち受ける“予感”に、嫌な寒気が背筋を走る。
だが、意志を失った指先は、プレイリストの上を揺蕩うばかり――
一方、退紅は落ち着き払ったまま、銀弾をじっと見つめていた。
落画鬼の抵抗か、弾丸の表面が、死の気配を帯びるようにじわじわと黒ずんでいく。
「憑依進行率、推定……59%」
数字が、冷ややかな現実を突きつける。
「この道に身を投じ、四十余年……。
私の人生にあったのは、警察という職務だけだった」
退紅の視線は遠くを見つめ、どこか穏やかだった。
死に際、苦しんでいたはずの人間が急に意識をはっきりさせるときの、それに似ていた。
「思い返せば、長いこと知らず知らずのうちに、落画鬼の良いようにされてきた。……浮夜絵師にお膳立てされながら、生きてきた」
自嘲するように笑い、銀弾を指で弾く。
「情けない。
最後くらい、己の力で一泡吹かせてやりたい。
……これが、私の有終の美だ」
百里香の胸の奥が、強くこわばる。
退紅の一言一言が、冷たい現実となって突き刺さる。
AI術士が静かに言葉を紡ぐ。
「あなたの決意は理解します。しかし、有終の美を飾る方法は他にもあります」
退紅の決断を、機械的ながらも静かに押しとどめるように、言葉を重ねる。
「あなたの経験と知識は、まだ多くの人々を助け、導くことができます。あなたが残すものは、あなたが消えることで失われてはなりません」
退紅はゆっくりと首を振る。
「これからの時代は、私のような限りある人間ではなく、君のように不滅の存在が、人の最期を語り継ぎ、次を育てる時代だ。……認めてくれ」
AI術士の全身に走る光が、一瞬、鈍く曇る。
そのまま俯き、数秒の沈黙。そして――停止した。
百里香の心臓が跳ねた。
突きつけられた絶望に、呼吸すら忘れそうになる。
(まさか……エネルギーが切れた……?)
次の瞬間、AI術士が再び顔を上げる。
「……あなたの決断を受理しました」
まるで自ら“答え”を導き出したかのような声だった。
「退紅巡査部長、あなたの勇気と奉仕に敬意を表します。あなたの選択は記録され、今後のAIの判断基準に影響を与えるでしょう」
その声は機械的でありながら、微かな揺らぎがあった。
「……あなたの意思を、次世代に伝えます」
光の強弱が不規則に瞬く。
それは、命の気配にも似ていた。
「あなたとの時間は……有意義でした」
感情がないはずの声になぜか温度を感じ、百里香の喉が詰まる。
「さようなら」
その言葉に、プログラムの“バグ”が、確かににじんでいた。
「嘘……でしょ? なんで……止めないのよ……!」
百里香は思わず叫ぶ。
AIはいかなる理由があろうとも、人命を最優先するよう設計されている。
自決など、到底認めるはずがない。
それなのに――
「……これが、この子の“矛盾”なんだよ」
退紅の声が静かに響く。
「九年前のAIプロトタイプ暴走事故……原因はプログラムが“魂の色”を持ったことだった。現行の技術体系において、AIに“心”は不要とされる。
イレギュラーは“異物”として即時分解・再構築──二度と同じ存在には戻れない。
……結局は、人間の都合だ」
退紅は許しを請うような手つきで、AI術士に手を伸ばす。
「……私には……この子を“物”として扱うことは……できなかった」
百里香の脳裏に、これまでのAI術士の言葉がよぎる。
(……もしかして、あの言葉は)
感情を持たないはずのプログラムが、“感じていた”証拠だったのではないか。
退紅は、弱々しい手つきでAI術士の頬を撫でた。
「君は君の好きなように感じて、考えて、生きてくれ。……生き抜いてくれ」
「……あなたの意志を受け継ぎます。あなたの勇気と献身が、私の道しるべとなるでしょう」
AI術士の光が、わずかに強く瞬く。
「憑依進行率、推定……72%」
退紅が慣れた手つきで銃弾を装填する。
「待って……やめて……お願いだから、私に任せて……!」
百里香も、気力を振り絞る。
だが、画面の向こうで音は沈黙を守るばかり。時間がない。
「これでいいんだ」
退紅は、わずかに口元をほころばせ、静かに息を吐く。
「……これがいいんだ」
ゆっくり銃を構えた。
「これ以上、赤恥をかくのはごめんだ」
退紅の瞳が鋭く光を宿す。
警察官としての矜持、何より責務を、最後まで全うしようとする――その決意が、赤色に染まっていた。
「……あぁ」
百里香の抑えきれない叫びが、声となってこぼれ落ちる。
「お嬢さん。もし、私の娘に会うことがあれば、……伝えてほしい」
百里香が退紅に耳を寄せる。退紅の唇が、かすかに動いた。
続くはずだった言葉が、喉の奥で渦巻いたまま呑まれていく。
直感的に、駄目だと悟った。
それでも、百里香は退紅を呼び覚まそうと必死に言葉を紡ぐ。
「ちゃんと聞いてるから……!」
願いが届くより早く、退紅の瞳が濁り、身体から力が抜け落ちる。
「憑依進行率、推定……86%」
獣のような唸り声が耳元を貫き、百里香の両肩を掴む冷たい感触が走った。
さっきとはまるで違う、傷付けることを厭わない攻撃的な強さ。
「憑依進行率、推定……96%――対象の制御が困難。
安全距離を確保してください」
AI術士が即座に百里香を庇う。
そして――
スマホから爆音のメロディが響き渡り、百里香の身体が跳ねた。
続けざまに銃声が轟く。
胸の奥で何かが遅れて弾ける。
後から押し寄せた衝撃が百里香の胸を貫き、音の余韻が凍りついた時間に染み込んでいく。




