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RGB:僕と浮世離れの戯画絵筆 ~緑色のアウトサイダー・アート~  作者: 雪染衛門
第八章 赤恥をかくのはごめんだ

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75. 心を描く者

片喰(かたばみ)くん、起きて。お願い……」


百里香(ゆりか)は必死に呼びかける。

片喰の表情は穏やかで、いまにも起き出しそうなほどだが――返事はない。


一方で、猟犬の浮夜絵(うきよえ)たちはちぎっては投げられ、まるで紙片のように散っていく。


(もう……長くは持たない)


「なんで、こんな時に限って……寝たふりじゃないのよ……」


嘘だったらよかったのに。

いつもみたいに、軽口を叩いて私を驚かせてくれたら。


「それでも、黄色(うそつき)なの?」


――『ジブン、先輩を傷付ける嘘はつかないっすよー』


思い浮かぶのは、あの喜色満面(きしょくまんめん)の笑顔。

(せい)(こん)も尽きているはずなのに、嗚咽(おえつ)がこぼれた。


感情の波が、途切れた神経をかすかに揺らす。

涙を拭おうとしたその動きが、痺れた指を走らせ、スマホ画面をかすめた。


ふと視界に入ったコメント欄。

そのなかで、ひときわ百里香の目を引く一文があった。


――あの曲をかけて。貴女を助けてあげる。


伸ばされた手のような言葉。それだけで、百里香はぴんとくる。


「……あの曲」


オルタナティブ・ロックとポップパンクが融合した力強いメロディ。

どんなに落ち込んでも、また明日を踏み出す勇気をくれる、あの曲。


これを流せば、きっとすべてが変わる――そんな予感がした。

力が入らずぶら下がったままの手で、それでもしがみつくようにプレイリストを探る。


血と涙でスマホが反応しない。


「……反応してよ!」


「エネルギー消費が閾値(いきち)を超過。

防衛機能維持のため、低消費モードへ移行します」


無機的なアナウンスが響く。退紅(あらぞめ)が、膝をついた。


蝋燭(ろうそく)がふっと吹き消されるような焦りが、百里香の胸を締め付ける。


「……いや、待って。まだ……待って……!」


感覚の途切れた指先では、どうしても目的の音楽に届かない。

もどかしさに胸が焼けるようだった。


退紅の息が荒くなる。

苦しげに喉を鳴らしながら、それでも落画鬼(らくがき)に抗おうとしていた。

己を鼓舞するように雄叫びをあげると、それを見た狐鼠(きつねねず)がくつくつと愉快そうに喉を鳴らす。


「……やっぱ脳筋じゃない。お粗末だなぁ」


AI術士が、退紅に駆け寄る。

センサーの光が細かく明滅し、退紅の状態を走査していく。

膝をついたままの退紅は、呼吸を荒げ、わずかに(まぶた)を震わせた。


AI術士はその様子を精緻(せいち)に捉え、変わらぬ調子で報告する。


退紅(あらぞめ)巡査部長、落画鬼による精神(メンタルペネ)侵食(トレーション)を確認。

意識の制御率(せいぎょりつ)、低下中。憑依(ひょうい)進行率、推定……48%」


「……っ、意識は……ギリギリ踏みとどまっていると言ったところだ。

もう、平穏はおろか、まともな定年も……望めそうもない……がな」


声がかすれる。それでもわずかな理性を振り絞り、退紅はAI術士に手を伸ばす。

霞む視界のなかでも、その意志は揺るがなかった。


「次の……作戦に、移る。……頼めるか?」


「指示を確認。対応可能」


AI術士の全身の回路に光が走る。

人間でいう血管のように、淡い輝きが流れる。


「対・狐憑(きつねつ)き用特殊()()を生成。

霊的(れいてき)エネルギーの拡散、および神経伝達阻害を目的とした浄化処置(じょうかしょち)を施行――

この弾丸は、浄化対象への強制排除を意図しています」


退紅が白銀に輝く弾丸を受け取る。

すると、わずかに憑依の力が弱まったのか、苦痛の色が薄れた。


「……やはり、効果は……あるか」


静かなやり取りに、百里香の背筋が凍る。


「何をする気……?」


嫌な予感しかしない。


「奴は……狐落としの手段が、有効だ。

ならば……憑依された肉体に、妖狐の苦手な銀を撃ち込めば……少なくとも、完全に乗っ取られる前に……一矢報いるくらいなら、あるいは……」


「……なんでよ」


片喰くんも、この人も……。

なんでそんな簡単に自己犠牲を選べるの?

魂の色(ソウルカラー)だって、私よりずっと優れているのに……。


なのに、()()()()のために、それを棒に振るなんて……。


「さっきみたいに、鼠の天麩羅(てんぷら)でなんとかならないの?」


「落画鬼に、効くのは……本物か、魂の色(ソウルカラー)が宿った……浮夜絵、だけだ……」


「魂が宿った……?」


銀弾(ぎんだん)を手にした退紅は、憑依の進行こそ鈍ったものの、それでも意識は揺らいでいた。

途切れがちな息をつなぎ、かろうじて言葉を絞り出す。


「……人が、“心を込めて描く絵”……それなら……わかる、か」


退紅の隣で、AI術士が無機質に言葉を重ねる。


「私は人工知能。感情や意識は、定義されていません。

私の機能は、情報を処理し、最適な応答を生成すること――

感情とは、数値化も再現もできない、人間だけの不確定要素です」


「何、それ……。さっき、躊躇ったり、()()()()とか感情表現してたじゃない」


「私の応答は、アルゴリズムに基づく計算結果です。

そこに意図や感情は……存在しません」


AI術士のセンサーの光がわずかに乱れる。


「……人の感情は、いつも偽りないのか……」


退紅は、苦しげに息を吐く。


「彼らが疑似感情(ぎじかんじょう)だと言うなら――」


わずかに目を伏せ、手元の銀弾を見つめる。


「……私たちの感情は、常に本物だと言い切れるのか……」


百里香の指が止まる。


自己紹介をするたび、いつも笑いを取っていた。

皆が笑ってるから、自分も笑っていた。


でも――あれは、本当に“心から”笑っていたの?


浮夜絵師(うきよえし)ってなんなの……」


百里香の吐息のような疑問。それを律儀に拾い、答えるAI術士。


「筆を振るう者は、ただの画家。心を描く者だけが、浮夜絵師と定義されます」


淡々と告げきるAI術士。直後――音声に微かなノイズが混じった。


「私は、浮夜絵師にはなれません――なれません」


その声は、まるで感情を持たないはずのAIが、何かを訴えているかのようだった。

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