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RGB:僕と浮世離れの戯画絵筆 ~緑色のアウトサイダー・アート~  作者: 雪染衛門
第八章 赤恥をかくのはごめんだ

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74. 遅延 -ディレイ-

「大丈夫ですか」


AI術士が落画鬼(らくがき)と交戦するなか、退紅(あらぞめ)百里香(ゆりか)の元へと駆け寄った。


「警視庁の退紅(あらぞめ)です。安心してください。ここから、必ず脱出しましょう」


「脱出って言ったって……」


百里香の表情には、明らかな絶望が(にじ)んでいる。


「できるわけがない」と言わんばかりの視線。

退紅は、勇気づけるように力強く頷いた。


「立てるかな?」


百里香が躊躇(ためら)う間にも、猟犬(りょうけん)たちが次々と悲鳴を上げている。


絵憑師(えつけし)ではないとは聞いていたが……数の暴力で太刀打ちできる相手ではないか」


退紅は、戦況を見渡しながら低く呟く。

視線を鋭く向け、「#d69090」と口走った。AI術士の機体に光が走る。

恐らく()()()なのだろう。


「はい、退紅(あらぞめ)巡査部長」


「何分持つ?」


猟犬がどんどん減っていく。


浮夜絵(うきよえ)生成持続可能時間は、あと九分です」


「九分か……くっ」


退紅が苦しげに胸を抑える。体内摂取した浮夜絵の効果が薄れつつあった。

AI術士は即座にそれを感知し、冷静に戦闘スタイルの変更を提案する。


多色摺り(オーバードロー)を採用すれば、より強力な浮夜絵が生成可能です。許可しますか?」


退紅の肉体のタイムリミットが迫る。

AI術士の声には、迷いの色は一切なかった。


「それは君にとって捨て身の最終手段だ。許可はできない」


「私に自己保存の優先権はありません。人命の保護が第一です」


退紅は、小さく息を吐く。


「……私は君のことも大切に想っているんだがな」


AI術士の無機的な光が、わずかに遅延(ディレイ)する。

百里香には、一瞬の“間”が生まれたように見えた。


「問題ありません、退紅(あらぞめ)巡査部長。感謝を表明します。

しかし、私は警察業務の補助を目的とした存在です。

AIは再構築可能ですが、人命は不可逆です。

ゆえに、最適解は私の行動にあります」


完璧な回答。だが、AI術士はわかっていない。


たとえ身体が再構築できたとしても、共に過ごした日々や、

職務の合間に交わした他愛ない会話まで戻ってくるわけではない。

AIにとっては雑念でも、人間にとっては――それが、かけがえのない時間なのだ。


妻に先立たれ、一人娘に愛想を尽かされ――

仕事一筋で生きてきた男にとって、()()はただの機械ではなかった。


「やはり彼か」


退紅は、片喰(かたばみ)を見やる。

いくらAI術士が捨て身の浮夜絵を描いたとて、どれほどの意味があるのか――

長年の直感が告げていた。

この場の希望は、浮夜絵師(うきよえし)である彼しかいない、と。


「再び彼に憑依(ひょうい)されては意味がない。彼の意識が戻るまで、場を繋ぐ必要がある」


退紅は片喰の口元をこじ開け、五倍子鉄漿色(ふしかねいろ)――黒い水を無理やり流し込んだ。

片喰が激しく咳き込む。


「な、何を……」


百里香は思わず身を乗り出した。

何をしたの――? 言葉にならない問いが喉元でつかえる。


「これは浮夜絵で生成した()()()だ。飲めば、キズモノでも憑依されなくなる」


退紅は淡々と説明する。


「ただし、制限時間つきだ。人体に害を及ぼすので頻繁には使えないが、効力は確認済みだ」


「確認済みって……まさか」


百里香が言葉を詰まらせる。退紅は、頬をなぞった。


「この傷も、かつて落画鬼から受けた傷だ」


その手を、ゆっくりと百里香の肩に置く。


「私も対象者(キズモノ)でね」


百里香は退紅の視線を正面から受け止めきれず、目を逸らした。

退紅が、静かに言葉を継ぐ。


「苦しいのはわかっている。だが、いまは君の力が必要だ。

彼に、呼びかけ続けてくれないだろうか」


百里香は動かない。


「生きてたって、もう……」


スマホの画面に目を落とす。

絶えず流れ続ける活字の群れ。


嘲笑、罵倒、同情――

どれも胸を締めつけるものばかり。


百里香の肩が、わずかに落ちる。


次の瞬間、退紅はその両肩をしっかりと掴んだ。

そして、真っ直ぐに彼女の目を見据える。


「君の未来を、落画鬼ごときに奪わせはしない」


目の前の警察官は、保護すべき市民を決して見捨てようとはしない。


言葉が、百里香の胸に響く。

熱く、じわりと。

彼の瞳には、強い意思があった。


百里香は、ごくりと息を呑む。

彼女の瞳に生まれた小さな変化を捉えると、退紅はゆっくりと顔をあげた。


「ここが正念場だ」


その声に、力強さが帯びる。

静かに息を整え、視線を片喰へ移す。


「彼が目覚めるまで、持久戦といこう」

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