72. 鬼の形相
一瞬、ショウの身体が硬直する。
これが本能的な恐怖というやつか。
勿忘草が、鬼の形相を浮かべていた。
「あぁっ!? バッカおまっ、せっかく……」
周囲を覆っていた“カモ”が解除され、ねずみ男が狼狽する。
「カモるの、昔から得意だったもんね?」
声の抑揚と表情が一致しない勿忘草に、ねずみ男は追いすがるように言葉を紡ぐ。
「警察もAI術士もぞろぞろ押し寄せてくるしよぉ。好きでこんな目に遭ってるわけじゃねぇのよ!
今回ばかりは俺ちゃんも被害者なんだわ!」
「なーにが被害者よ。外にいた関係者全員、ぶちのめしたくせに」
ショウは、パトカーのサイレンが唐突に止まった理由を悟った。
だが、まだ全貌が掴めない。
「状況が見えねえ。説明しろ、勿忘草」
「この人はね、“侵略大災” を引き起こした落画鬼犯罪組織“四十八茶百鼠”の一員。その下っ端なんだよ」
「こいつが……絵憑師、だと?」
ショウの言葉と同時に、虚空に次々と青い槍が描かれ、ねずみ男を囲い込む。
降り注ぐ槍は、指一本すら通さぬほど隙間なく並んだ。
「下っ端ってもね、絶対捕まらないと言われてきた要注意人物よ。あらゆる“カモ”を駆使する厄介者だからね」
勿忘草が言うそばから、ねずみ男の姿が一瞬で無数の鼠に分裂し、四方へと散る。
「このオジサン、“描けるもの”なら、なんでも変化させる。指紋もね。
だから判別するには、声か、組織の者だけが持つ絵筆しかない。
けど、捕まったこともないから声紋も録れなかったし、真面目に捕まえようとした絵師は皆、死んでるしね」
「あんちゃんを除いてな」
ねずみ男は、勿忘草の目の前に再び現れる。
ショウには一瞥もくれない。
「ずっと変だとは思ってた。通りで町絵師が見逃しちゃうわけだ」
勿忘草は険しい表情を浮かべる。
「カラスばかり狙った落画鬼の作者本人なんだよ」
「捕まったはずだろ……?」
「そう、上からの連絡はそれ。ついさっき脱獄したんだって」
勿忘草は、ねずみ男の胸ぐらを掴み、乱暴に引き寄せた。
「世間は、ポルノ・グラフィティに夢中だから、
キミが紛れ込んでいたことも気付かなかったんだろうね。それも狙いのひとつかな?」
胸ぐらを掴まれているというのに、ねずみ男は余裕そうに卑しく笑う。
「正直、私もいまのいままで、君は死んでるって思ってたからね。
気が緩んでたのは否めないけど」
もし勿忘草の言葉が本当なら……。
ねずみ男はわざと捕まっていたことになる。
「なんで捕まった?」
勿忘草の問いに、ねずみ男は肩をすくめた。
「気まぐれの有休消化よ。俺ちゃんのボスは人使い荒くてさ~。
ムショに籠れば、それもなくなるしよぉ。
しかも三食昼寝付きってもんでさ。最高のバカンスだろぉよ」
「違うな」
ショウが否定する。
「恐らく、絵筆を盗まれてる。ポルノ・グラフィティの落書き犯に」
「盗まれてないわ! ちょっと落としちまっただけだ!」
ねずみ男は苛立ち混じりの声を上げる。
「筆を失くしたなんてバレたら、ただの大目玉じゃ済まねぇ。
処分されちまう。
だから準備の時間を稼いで、食いっぱぐれねえように、塀のなかに入ってただけよ」
ねずみ男の首元から、小さな鼠が顔を覗かせる。
勿忘草は合点がいったように頷いた。
「キミの落画鬼と、刑務所を根城にしている鼠で繁殖させたってことかな」
「通りで……」
ショウは、さっきから妙に人を恐れない鼠たちとすれ違っていたことを思い出す。
あの異様な様子は、落画鬼の血が混ざっていたせいか――ようやく合点がいった。
「しっかしよぉ、たった二十日サボるだけで、世の中ってのは随分変わるもんだな」
ねずみ男はショウの戦闘服を見やり、嘆息する。
「もう、速すぎてついていけんわなぁ」
「なら、いっそ止まってみるってのはどう?」
勿忘草の手に力がこもる。ねずみ男の表情に緊張が走った。
絶対に捕まらないと言われた男は、未だ拘束されたまま……。
「それ、ただのコスプレじゃないのかよぉ」
ねずみ男の視線が、鈍く輝く蒼い装甲へと移る。
「当たり前でしょ。
じゃなきゃ、デジタル社会でこんなジャンル違いの格好するわけないじゃない」
鎧は、浮夜絵でできていた。
「この浮夜絵はね、過去の記憶を刻み込んだ水色でできてるんだよ」
――勿忘草色(私を忘れないで)。
真実を決して見逃さない約束の色。
勿忘草は目を細め、静かに続ける。
「キミを捕えるためだけに作られたんだ」
ねずみ男が苦しそうに笑う。
「嬉しいね。俺ちゃん特注ってことかよぉ?」
ショウの眉がわずかに動く。
勿忘草の様子がおかしい。
普段なら軽口を叩くはずだが――
口元はわずかに歪んでいるが、笑っているようには見えなかった。
「お前……何をする気だ?」
「……ごめん。ショウくん。ここは俺に任せてよ」
「まさか、殺す気か?」
ショウの問いに、勿忘草は答えない。
「おい、勿忘草」
その瞬間だった。
突然、地下歩道に響き渡るメロディアスなオルタナ×ポップパンク。
旋律が耳を叩いた刹那、ショウの全身が脈打つ。
内側から熱が押し寄せた。
(……おかしい。力が勝手に、溢れる)
意識に反して、浮夜絵が次々と生まれていく。
リミッターが外れる。
身体中から何かが流れ出していく。
大量出血している感覚と同じだ。
「どうしたの、ショウくん?」
焦る勿忘草の声が、遠くに響く。
足元が揺らぐ。
視界の端が滲む。
導かれるように、一張の弓が浮かび上がった。
その先には、射抜くべき標のように光が揺れている。
ショウの手が、意志とは無関係に動き出す。
◆◆◆
ショウが弓を手にする、ほんの数分前。
百里香たちが閉じ込められている“余白”で、異変が起こった。
悪魔の囁きのように響いていたラッカースプレーの噴射音が、唐突に止む。
来るはずの衝撃は一向に訪れない。
目を瞑ったままの百里香には、何が起きたのかわからない。
だが、さっきまで自分に集中していた悪意が、どこかへ逸れていくのを感じた。
「どういうことなの、阿紫」
壁のディティールを悠々と調整していたはずの狐鼠の声色に、不安の色が滲む。
「いくら世界中にナマ配信されようが、誰も俺たちの邪魔なんてできないはずじゃ……」
片喰の肉体を支配した――落画鬼は、汗と涎を滝のように垂れ流しながら、じっと何かを凝視していた。
肩を上下させ、フーフーと荒い息を吐く。
まるで耐え忍んでいるような動き。
狐鼠が異変を察知し、片喰の視線の先へ目を向けようとした、その時。
「動くな、警察だ!」
響き渡る怒号。
百里香の身体から、張り詰めていた緊張が一気に抜けた。
ゆっくりと瞼を開く。
「尾崎狐……いや」
視界に入ったのは、白髪交じりの警官。
「本名・尾花狐。
器物損壊罪、および“ポルノ・グラフィティ連続通り魔事件”殺人教唆の容疑で、現行犯逮捕する」




