06. 今際の際
なんだか無数のお経が聴こえる。
確認しようとしても、目の前は真っ暗で、体が石みたいに動かない。
胸の奥で、炭酸水をかけられたみたいな衝撃が弾けて、それがずっと収まらない。
お経の声は、だんだん近づいてくる。
――空耳、なのかな。
耳を澄ますと、
「帰ってこい、帰ってこい」
って、誰かが呼んでいるような気がした。
「緑光っ。ああ、しっかりして……!」
母の悲痛な声が、意識の奥底を強く揺さぶる。
同時に、内臓がねじれるような強烈な吐き気。
喉に詰まっていた血を吐き出した瞬間、意識が引き戻された。
――全身を叩きつけるような、激痛。
これだけの痛みを味わうくらいなら、いっそ意識を失ったままのほうがよかったとさえ思う。
もう、すぐにでも死んでしまいそうだった。
お経だと思っていたのは、鼓動の音だった。
死にかけているせいで、やたらと大きく響く心臓の脈動。
そして、夜の静寂をかき消すような、無数のカエルの合唱。
それらが混ざり合い、脳内に重く響いていた。
「お義母さんどうしよう。緑光が……血が止まらないの」
母は震える手で僕の額を押さえ、腕のなかで必死に抱え込んでいた。
だらんと垂れ下がる僕の体を支える母の腕は、ひどく震えている。
「花さん、落ち着きなさいな。救急車は呼んだからね。まずはここを離れるんだよ」
母とは対照的に、祖母は冷静だった。
持っていた手ぬぐいを歯で細く裂き、僕の止血を試みる。
だが、押さえるそばから滲み広がる赤。
手ぬぐいが、染め上がるような速さで血を飲み込んでいく。
多くの修羅場をくぐってきた祖母でさえ、隠しきれない狼狽を見せていた。
そこへ、さらに追い打ちをかけるように――
納屋の扉が激しく揺れる。
いまにも蹴破られそうな衝撃音が響く。
母も祖母も、震える肩を押さえることができなかった。
「でも、潤さんが……」
母の視線が、納屋のなかを示す。
――父が、まだそこにいる。
(ああ、そうだ)
父と一緒に納屋を出ようとしたとき、天井の暗がりから何かが降ってきたんだ。
一瞬の出来事で、ほとんど見えなかった。
けど、それが熊のような巨大な影だったこと。
鋭い爪か牙で、僕の額と父の背中が一気に切り裂かれたことだけは、はっきりとわかった。
もし父が庇ってくれなかったら――
十歳の小柄な体なんて、一撃で木っ端みじんだった。
それほどまでに、人間離れしたスピードとパワーを備えていた。
――もう一度食らったら、最期。
絶対に助からないと、本能がそう訴えていた。
だから、瞬時に「生きること」を諦めてしまったんだ。
でも、そいつは最初の一撃以降、なぜか動かなくなった。
おかげで、父は深手を負いながらも、納屋を脱することができた。
真夏でもひんやりとした北関東の夜風が、その事実を教えてくれる。
そして、そのうち――
僕の心に染みわたる香りがした。
柔らかく、ひどく愛おしい匂い。
鼻にこびりつく血の臭いよりも、ずっとか弱いのに、それを上回る存在感。
母だった。
僕の身体が、父から母へと託されたのだと理解した。
そのとき父は祖母に向かってこう言った気がする。
「母さん、ふたりを頼む」
祖母は、その言葉を聞きながら、じっと納屋の扉を見つめていた。
鍵をかけたのは、父だった。
「息子は大丈夫だ。
まずは緑光と花さん、あんたらの無事が先だよ」
祖母の声には迷いがなかった。
守るべき優先順位を、決して見失わないようにしている。
母は動けない。
「嫌です……。私はあの人を置いていけない……」
ふたりの顔は白磁色に染まり、何かを押し殺したように硬い。
それなのに、僕の頭のなかは靄がかかったように、ふわふわしてる。
自分が自分じゃないみたいだ。
彼女たちの会話も、どこか遠くに聴こえる。
納屋からひっきりなしに響く、不気味な音。
明らかに、人の動きじゃない。
肉を引き千切る音、咆哮。
それらが夜を切り裂くように轟き、この世の終わりを告げる。
でも――
やっぱり、実感が湧かない。
意識がぼんやりと漂うなか、
“もし僕の絵が本物になったら”なんて、いつも通りに妄想してる。
全身を蝕んでいた痛みは、もうない。
代わりに、じわじわと指先から広がる冷たさ。
大量の血を失ったせいで、体の奥まで冷気が染み込んでいく。
少しずつ、少しずつ、死の色に身を委ねはじめていた。
「どこに逃げても、無駄なんだわ。
もう逃げられない……私はまた何も守れない……」
(お母さん……そんなに泣かないで)
もし僕の絵が本物になったら――
お母さんが憧れていた、真っ青な薔薇を描くんだ。
(そしたら、きっと笑顔になれるのに)
「花さん、諦めるんじゃない。
緑光はまだ生きてるんだ。しっかりおし」
納屋の前に置かれた盛り塩が、奇妙なことに、雨もないのに溶けていた。
祖母は、その異変をじっと見つめる。
納屋のなかにいる“何か”の正体を、すでに察しているのだろう。
無理を承知で、僕ら母子を少しでも安全な場所へ引っ張り出そうと、祖母は腰を曲げる。
(お婆ちゃん、いつも腰が痛いって言ってるのに。
無理をしないでほしい)
僕が、どんな痛みも治しちゃう薬を描いて、
お婆ちゃんにプレゼントできたなら……。
(……喜んでくれるかな)
死にかけているときって、不思議だ。
大切な人にしてあげたかったことばかりが浮かぶ。
いまならクロが死んだときのお父さんたちの気持ちが、わかる。
今際の際で、僕は急速に大人になった気がした。
――そして、僕が一番描きたかったのは……。
(お父さん……)
最後の力を振り絞って、ゆっくりと納屋の戸を見た。
(お父さん、どうか死なないでほしい。
僕はもう死んじゃうと思うから。
お父さんだけは――)
残される者の気持ちも、
自分より大切なものを優先する気持ちも、
いまなら心から願える。
(ああ、僕に力があったなら……)
納屋の暴力的な音のなか、一瞬だけ。
チリン、と愛くるしい鈴の音が、聴こえた気がした。
力なんて、もうこれぽっちも残っていないはずなのに、
涙が勝手に浮かぶ。
「これ以上、私から子供を……
家族を奪わないで……」
僕の涙だと思っていたそれは、母のものだった。
ごめんね、お母さん。
毎晩、独りぼっちの寝室で、声を押し殺して泣いていたお母さん。
それを知ってから、僕は誓っていた。
――絶対に、お母さんを泣かせないって。
だけど、結局――
僕は、なにもできなかった。
――いつもそばにいてくれるお父さんを描けたなら……なあ。
そして、僕は大きく息を吐き出すと、
完全に意識を手放した。