68. 人を呪わば穴二つ
(……嘘でしょ)
色んな感情が一気に押し寄せる一方で、割れる音までそのまんまなのかとやけに冷静な自分もいる。砕け散った鏡はもちろん元に戻る様子もなく、ただただ百里香に現実を突き付けた。
「……片喰、くん……」
目の前で四つん這いになっているそれを、かつての名で呼ぶのは気が引ける。片喰が片喰でなくなってしまったのは一目瞭然だった。
(ぜんぜん弱ってない。……いや)
片喰に言われた通りにはできなかった。とは言え、まったく外したわけではないらしく、燻る肩を毛づくろいするように顎で擦っている。後ろ足が痛むのか時折バランスを崩している。
(片喰くんが弱らせてくれてたから、私はまだ無事なのかも……でも……)
地面に散った欠片の数だけ、青ざめた百里香が一斉に見つめ返してくる。
(本気で……これで終わり……?)
本物の鏡そっくりとはいえ、浮夜絵なのだ。拾い集めればもしかしたら元に戻るのではと、伸ばす指にコンパスが当たる。
「まだ助かると思ってる? やっぱ能天気なんじゃないの?」
狐鼠がゆっくり百里香に近づいていく。
「“人を呪わば穴二つ”って言うじゃない。いい加減、諦めなよ」
そう言ってほくそ笑む狐鼠を、百里香は拒絶するように睨み上げる。
「私は、あんたの悪事を暴く、ために……」
「オネーサン、自分の行いを正義かなんかと勘違いしてる?」
狐鼠は瞳をギラつかせながら、百里香を見下ろす。
「考えなしに飛び込んできただけだろ、たかだか瞬間風速レベルの名声欲しさに、さ!」
その足が、百里香の手ごと散らばった鏡を踏みつける。悲痛な叫びが地下通路を貫く。
「犯罪者のせいにすれば、オネーサンはなにをしたっていいと思ってる?」
狐鼠が踏みしめるたび、鏡の破片が呻きに似た鈍い音を立て粉々になっていく。その間に挟まれた百里香の手。引き抜くこともできず、ひたすら歯を食いしばる。
「正義と承認欲求を履き違えるなよ、クソ女」
狐鼠の口から冷たく言い放たれた言葉、より一層の力が込められる足。激痛に耐えきれなくなった百里香は、絞り出すように訴えた。
「……痛い、無理。無理無理……やめて、もう無理」
「姑息だよ。反論できない存在をやり玉に挙げて保険をきかせながら、自分は好き放題やりたい放題だ!」
狐鼠は声を荒げながら、百里香を蹴り飛ばした。その弾みでスマホが勝手にライブ配信を再開する。
「そうやってオレは、オレの絵は……!」
突然の静寂に包まれる。時が止まってしまったのではないかと、百里香は思わず狐鼠を見る。
「無実の罪を着せられたんだ」
途端、吐き出すように語る狐鼠。刹那的ではあったが、どこか遠くを見つめる彼の表情から狂気が消える。悲しく、苦しく、孤独で……不思議と同情すら覚える。
「絵のせいにすれば、そりゃ楽だよなあ。絵は口なんて利けねえからなあぁ」
そう続ける狐鼠の目は血走り、笑みは口が裂けてしまいそうなほど歪んでいる。
「ゲームにアニメに……漫画に! 洗脳されたとでも適当に嘯けば! 精神に異常ありと判断されれば! 減刑されるヌルゲーな世の中だからなああぁ!?」
百里香の心にずっしりとくる言葉の重み。狐鼠本来の顔つきをここまで変えた壮絶さが理解できた気がした。
「なにかのせいにしておけば、責任から逃れられると思ってる。放棄しても許されると思ってるんだ、そうだろ?」
狐鼠の恨みつらみが紡がれるたび、コメントが潮に揺られる様々な海藻のように一斉に流れていく。
「さんざん依存して、思考も判断もぶん投げておいて、まずくなったらすべて押し付ける。自らを省みようともしない」
(……依存)
共に放り出されたコンパスが百里香の目に留まる。無事だ。頑丈だと認識していても、手を犠牲にしてでも守りたかった。守ったところで、片喰は……。こみ上げる喪失感。藁にも縋る思いで片喰との記憶を辿ると、再び突き刺さる彼の言葉。
――「行動基準が“お母さん”になってることに」
ずっと、母と同じにならないことにこだわってきた。母が好きなものを嫌いになり、嫌いなものを好きになった。
母にスカートが似合うねと褒められた翌日からパンツ一択になる。母が難色を示すことほど積極的にチャレンジし、母が「やっぱり青色には敵わないわね」と笑って諦めてきたことも達成してみせた。
百里香にとって青色は憧れであり、いつか越えるべき目標だ。そのはずだった。
(それでも、私は日に日に母さんと同じになっていく……)
御三家色との実力差を見せつけられるたび「やっぱり敵わないなあ」と媚びへつらうフリでヘラヘラ笑い、その場を誤魔化すしかない自分。青色と比較されるプレッシャーに疲れ果てたとき、無意識に手にしているのはキャラメルマキアート。
(母さんのせい……にして、私は自分と向き合っていない……?)
――そもそも私、どうしてこんなに母さんが嫌いなんだっけ……?
百里香のスマホ画面を流れていく大量のコメント。狐鼠の演説も虚しく「絵のせいだ」といった趣旨の感情は収まらない。
「“絵のせいだ、絵のせいだ”。そうやってオレらのせいにするのは勝手だけどさ」
狐鼠は百里香とそのスマホに顔を近づけると、腹に力を込めた低い声で囁いた。
「でも誰のせいにしようが結局、決めてんのはお前らだろ?」
背筋も凍るほどの憎悪によって、現実に引き戻される百里香。堰を切ったように激痛が走る。細かいことを考える余裕はない。無我夢中でスマホに向かった。
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