63. 狐鼠
「もう付いてこないで!!」
百里香は片喰を突き飛ばすと、目についた地下通路に飛び込んだ。すぐさま出迎えるのはカビと真新しい塗料の臭い。息を切らしながら周囲を見渡す。サイケデリックなグラフィティが無秩序に拡がっている。歪みの国に迷い込んだ気がした。
「オネーサン、そんなに慌ててどうしたの? 死にたくなることでもあった?」
地下通路に突如、反響する男の声とスプレー音。百里香は咄嗟にスマホを構える。ひっきりなしに鳴り響くスプレー音を辿ると、ちょうど破壊された照明の真下の壁に、赤色のライトを当てる人影がある。
「じゃなきゃ、夜遅くに出歩いちゃいけないって、子供だって心得ているこのご時世、こんないかにもな場所に来るはずないじゃない」
男は百里香がここに迷い込むことを知っていたかのように、馴れ馴れしく話しかけてくる。確認するまでもないと、振り返ることのない背中越しから伝わる。
それなのに、強い視線を感じるのは男が熱心にライティングするグラフィティのせいだ。まるで百里香をあざ笑うかのような挑発的な視線。艶やかなルージュを引いた唇からは、剥き出しの舌がズルリと垂れ下がっている。
百里香は肌が粟立つのを感じながらも、ライブボタンに触れようとした。
「……なっ!?」
疾走する黄色の雷光に、百里香の身体は一瞬にしてさらわれる。直後、鋭利な風斬り音が百里香の耳を掠める。それだけで、百里香の身体はさらに宙を舞う。
握りしめていたはずのスマホもあっけなく零れていった。
(なにが……起こって……?)
百里香はゆっくり上体を起こす。抉られた地面がすぐ目に飛び込んでくる。
(あのまま立ってたら、私どうなってた……?)
ゾクッと強張る身体。遅れてやっと、あちこちが痛むことを自覚する。だが、血の滲むほどの傷はない。間一髪で庇ってくれた、あの雷光はなんだったのか……。百里香は、近くに横たわるそれを見た。
「かた、ばみ……くん……?」
ボロ雑巾のように擦り切れた全身。震える手で揺すってみると、その首を守るストールが解けていく。片喰に間違いなかった。
はだけたシャツから顕わになる、首筋から右肩にかけて広がる傷。いまできた傷ではない。時を刻んでもなお、彼とともに成長する呪われし古の咎。
百里香は恐るおそる古傷をなぞってみる。……脈は、ある。
(これがさっき話してくれた片喰くんの……。落画鬼に殺されかけた時の傷……)
てっきり百里香を止めるための作り話だと思っていた。もはや疑いようがない。薄ら寂しい照明でより落ちくぼんでいるように見える古傷からは、大きな口の化け物に食い千切られた光景が容易に想像できるほど、その凄惨さを物語っている。
「片喰くん、ねえしっかりして! 片喰くんってばっ」
百里香にはこのまま片喰を背負って逃げる力はない。必死に呼びかけるも、返ってくるのは壁に反響する男の笑い声。
「マジか。あれに反応できるとか、鬼フィジカルかよ」
百里香はすかさず、壁を睨む。赤いスポットライト中央に浮かぶ長身の影。頭はパーカーのフードですっぽり覆い隠しているように見える。
「でもオネーサンのせいで、もしかしてオニーサン……死んじゃった?」
男の物言いに、百里香の苛立ちは恐怖を超えた。
「……Don't blame me(私のせいにするな)」
百里香の視線の先で、たったいま書き殴られた言葉を読み上げる。
――ポルノ・グラフィティ。
遊女風にデザインされたそれは、火照った色に絆され、より妖艶に輝く。
百里香は痛みを堪えながら、スマホの行方を目で追う。首を動かすだけでも一苦労だ。庇われてもなお、この痛み……。見渡す限り続くグラフィティ。
(とてもじゃないけど、涼しい顔で倒せるやつじゃない。これと日々闘ってる浮夜絵師とかどうかしてる。……こんな落書きに命をかけるなんて)
圧倒される百里香を引き戻すかのように鳴るポップアップ音。スマホの位置を把握する。
「……落書き犯、なのね」
百里香の敵意を乗せた声色に、男は手を止める。
「あんたが連続通り魔事件の落書き犯で」
男は、百里香を遮るようにスプレー缶をカシャカシャと振り鳴らし、言った。
「そんな雑魚と一緒にしないでよ。オレは絵憑師になるんだから」
百里香は絵憑師についてあまり詳しくない。浮夜絵師がまだ都市伝説だった頃から、噂を耳にすることはあったものの、当時は「徒に絵憑師の話をすると、その式鬼に連れ去られるよ」とタブー視される風潮があった。
その名を口にするだけで神隠しに遭うと……。
それでも食いつこうものならば、たちまち “オカルトガチ勢”の痛い子として学校生活に支障が出る。くだらない噂話で“特色な橙”のイメージを傷付けたくなかった百里香は深く知ることを避けたのである。
「死ぬために描いた最高傑作が、オレにしるべを与えてくれた。どん底だったオレに、あの方……“夜目が君”が与えてくれた特別な力なんだよ」
男は、ポルノ・グラフィティを愛でるように装飾を足していく。大振りな笄やべっ甲の櫛、蝶や花をあしらった簪だ。
「……夜目が君?」
百里香の問いかけも声も耳に入らないほど、男は壁に釘付けだった。なら、この機を逃すわけにはいかない。百里香は身体を引きずりながら、スマホを目指す。
「そうだ!」
急に声を張り上げる男に、百里香は驚いて尻もちをつく。男はつかつかと百里香に歩み寄ると、そのまま腰を下ろす。
「あの方に忠誠を誓う絵憑師は、名に“鼠”を刻むって! オレもそうしなきゃ」
男はそう言って、通路上にラッカースプレーを吹きかけた。百里香は眉をひそめながら、それを黙読する。
(……狐、鼠……?)
いまにもちょこまかと動き出しそうな文字。男はライティングを終えると、百里香を覗き上げるようにして言った。
「これからは、“四十八茶百鼠”の時代なんだ。オネーサンもちゃんと覚えてよね」
その落ちくぼんだ目、目の下に細かく刻まれた皺。百里香より年上に見えた。
「覚えても意味ないかもしれないけどさ。だってオネーサンは死んじゃうし」
狐鼠の浮かれた声とは打って変わって、少しも笑っていない眼光が、百里香に冷たく突き刺さる。
「オレは狐鼠。あの方に選ばれた特別な色だ」




