60. 蛙の子
実葛が夕闇迫る空へ描いた世界。それは緑光が向かうべき場所を顕していた。
「行こう、東京へ。浮夜絵師になるために」
これは夢か、現か幻か。――
(……本当に、いいの? 僕は緑色なのに……)
夢を描いてもいいのだろうか……。
緑光を取り囲む賑やかな街並みが、語り掛けるように煌めく。
――“絵は、その描き手のすべてを物語る”
何度も見る夢のなかで、聴こえてきた言葉。
「……僕に、誰かを救える絵を描くことなんてできるのかな」
――“筆の振るい方ひとつで、人の運命を大きく変えていく”
「もし、やり方を間違えたりしたら……」
己の赦し方を知らない緑光。強張る表情に、実葛は問いかける。
「嫌いになったのかい?」
「……え?」
「絵を描くことだよ」
懐かしいやり取り。納屋に満たされた土の香りを思い出し、寂しさが滲む。
ニッコリとまるで少年のように笑っていた父。
ちょっと雑に撫でる温かく大きな手。――
――「好きならそれでいいじゃないか。続けたって」
実葛に父を見る。あの日と同じく、大人の背で臙脂色に変わりゆく入相の空。当時と大きく違うのは、その瞳にひどく臆病に成長した緑色が浮かんでいることだ。
実葛は、泣き腫らした顔が映る自らの瞳をゆっくりと伏せて言った。
「君は本当にネガティブだな」
そう言わせてしまうのも無理はない。
素直な気持ちをいざ口に出してみると、自分でも嫌になるほど後ろ向きな言葉があふれ出す。これはデジタルネイティブ世代だからなんかじゃない。ネットミームで着飾るばかりで、本当の自分と向き合っていなかっただけだ。
自分の言葉、自分らしさを見失っていた。
「僕は、ネガティブが悪いことだとは思っていないんだ。なぜなら、君のそれは未来を想像する賢さと責任感、なにより優しさなのだから」
ネガティブだっていい。
緑光より長い時間を過ごしてきた言葉には、数々の苦難を乗り越えたことでしか得られない柔らかさがある。
「君が、誰かを傷つけたくないと願う思いやりも、恐れも。十分に理解している」
常に貶され、否定され続けてきたせいで、無意識に身構える癖がついた心は、すべてを肯定する言葉も、理解の声もまだ上手に受け取れない。
そんな緑光を、実葛は決して突き放すことはなかった。
「だからと言って、正しさに固執して、己を見失ってはいけない」
合理的な正しさが、自分にとって正しいとは限らないのだと。
「僕の絵を見た君は、どんな顔をしてたと思う?」
緑光は意表を突かれた表情を浮かべるも、すぐに飲み込んでいく。
「かつて、君の絵を見た人はどんな顔してた?」
チラシの裏に描いた絵を見せたときの母は、いつも笑顔だった。どうして忘れてたんだろう……。
「そんな絵を描く君が、誰も救えないわけがない」
絵は念いの結晶だ。その念いはどんな時だって僕を笑顔にしてくれる。だから僕もいつかそんな風になりたい。人を笑顔にする絵を描きたい。
『……“ウキヨヱシ”になりたい』
そう願ってたくさん練習した日々があった。
ふと瞼を閉じれば、その頃の……。瞳を輝かせながら星に願う姿が思い出される。あの頃は眼鏡なんてなくたって、ちゃんと自分の目で見えていた。
「君は諦めていない」
水田に隠れる蛙を啄む水鳥が如く、実葛の声が緑光の心を刺激する。
「諦めていたらね、あんな顔で浮夜絵は見られないんだよ。浮夜絵師を追いかけること自体が苦痛になってしまうだろうからね」
真っ白なタブレット画面に目を落とすたび、手が止まってしまう理由。どうしても書けなかったのは魂の色のせいじゃない。
「君は諦めてないんだよ」
“なりたい自分”に苦しまないように、“なれる自分”を認めるために、魂の色が可視化された社会なのに、僕は……。何度も諦めようとしていたはずなのに……。
「諦めなくていいじゃないか」
実葛の言葉に、涙の奥の大きな瞳が輝きを増していく。
「“蛙の子は蛙”なんて、僕は信じない。魂の色は関係ない。君は君だよ」
緑光の頬をポロリと伝う、清らかな雫。
(……僕は、僕……)
――心に突き刺さり続けていた老婆たちの視線が消えていく。
「まわりはいつだって無責任さ。好き勝手に君の将来を決めつけてくる者もいるだろう。諦めろと否定することが君のためになると本気で信じている者もいる」
実葛は、儚げに微笑むとそっと手を差し出した。
「そんなものに耳を傾けるくらいなら、いっそ無責任に応援する手をとってみるのはどうだい?」
人はどうして、自分に都合の悪いことばかり拾い集めてしまうのだろう。キツい言葉のほうが正しいと思い込んで、大きく受け止めてしまうのだろう。
どうして大切な想いを見失いがちになるんだろう。
「君がどうしたいか。それだけでいいんだよ」
それはいつだって、なによりもすぐそばにあるのに……。
――頭の片隅でずっと鳴り響いていたクラスメイトたちの嘲笑が溶けていく。
「僕が……どうしたいか」
いまにも消え入りそうな緑光の声を支えるように、実葛はしっかりと頷く。
「蛙の子は“変える”」
緑光は、はっと息を呑む。聞き間違いじゃないかと目を見張る。
「君ならきっと“変えられる”」
聞き間違いではないと、燃えるような瞳が物語る。
「蛙の子は……。僕は、変わる……」
差し伸べられた手に向かって、緑光は少しずつゆっくりと手を伸ばす。
「受け売りでもいい。自分の口で言えたなら、それはもう君のものだ」
フッと息を吹きかけた灯りのように、街並みが一瞬で闇に溶ける。空を染め上げる瞑色が、緑光を現実に引き戻す。実葛の手を取ることなくピタリと止まった。
妙に浮き毛がむず痒く感じられる。全身から嫌な汗が吹き出す。緑光はこの感覚を知っている。第六感と呼ばれるものに近いのだろう。
なぜか手を伸ばしてはいけない気がした。
――それが冷静だったのか、臆病なだけなのか。僕にはわからないけれど……。
周囲を警戒してみたものの、相変わらず蛙の歌と水面が拡がっているばかり。これまで夕暮れに溶け込んでいた月がいよいよ照り輝く。緑光に釣られて、月色を見上げる実葛に変わった様子はない。
緊張が走る緑光の身体を揺さぶったのは、スマホのバイブレーション。
「お、お婆ちゃんから……着信が……」
「無理もない。はやく出てあげなさい」
緑光は引っ掛かりを感じつつも、ビデオ通話をタップした。
――こうして僕がもたつく間にも、世界のどこかで助けを求める人がいる。
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