59. 察しのいい子は
実葛は疑問に思うことがある。
(魂の可視化は人類にとって、本当に成功だったのか)
己は望まずとも“勝ち組色”などと勝手に持てはやされる“御三家色”の一角だったがゆえに、魂の色が暮らしの障壁になることはなかった。だが、その影でこうした涙が流れている現状を認識した瞬間、胸が痛むのである。
無論、世の中には自分の力で決断できない人間が圧倒的に多いことも理解している。神にすがり、法に判断を委ね、金を貯えることに安心感を覚える。
人は手放しの自由のなかでは、生きていけない。
魂の可視化によって、人類はさらに効率良く生きられるようになった。日本の社会問題とされてきた自殺率も年々、右肩下がりである。
魂の色とは言うなれば、“現実の具体化”だ。
本来、現実とは夢よりも想像がつかないものであった。現実がよく見えるようになったいま、夢や理想を追い求める者は圧倒的に減った。未来に願いを込め星の光を見上げるより、現前の事実を求めスマホの光を見下ろす。
それが、“平和と公正の色相環”に生きる我々だ。
この現象はいずれ人類の停滞に繋がるのではないかと、実葛は危機感を覚えるのである。停滞とはすなわち退化であると考えているからだ。
見えないからこそ人は無限の可能性を追求し、かけがえのない失敗をくり返す。そのなかで進化し続ける生き物ではなかったのか。――
実葛は片腕のなかにある緑光に、そっと問う。
「ほかに誰か相応しい人間がいたとして。他人任せで、君は納得できるのかい?」
はい……嘘が喉元でつっかえる。容易いはずのたった二文字の肯定が出ない。代わりに答えるのは、ずっと抑え込んできた言い尽くせないほどの想い。あふれるまま流れるまま、実葛の肩を濡らす。
あの日、僕は気持ちに嘘をつけなかったから、家族を傷つけたじゃないか。世の中にとって正しいことよりも、僕のしたいことをしたから、家族はバラバラになったじゃないか。また同じことをくり返すかもしれないのに。
それなのに、僕は……。
――浮夜絵師になりたい。
この一言を、僕の心は一貫して叫び続けている。聞こえないフリをしてきた。向き合うことすら許されないと思い込んでいたから。それは本当に呪いにかけられているかのようで。嘘も本音も言えない狭間を、僕はずっと彷徨って生きてきた。
「自分に嘘をついてまでなにかを成したところで、誰も幸せにはならない。君が君自身を大切にできてはじめて、他人に分け与えられるものだよ」
緑光の心を見透かすような実葛の言葉。思わず唾を飲み込む。喉に硬いものが当たる。胸ポケットになにか忍ばせているのだろうか……。
「それに……」
実葛が一拍の間を置く間も、夕闇が刻々と迫っている。胸がざわつく。
「あの日、君は気付いたはずだ」
緑光は、弾かれたように一歩下がる。違和感に従った目線は、胸ポケットから燦然と輝く黄金色の天ビスを捉えていた。胸のざわめきが大きくなっていく。
これは、暗くなる前に帰らなければという焦りのせいじゃない。
「浮夜絵の能力があることを」
実葛は確信めいた顔つきで、緑光を見据えている。緑光は二の句が継げない。
事件の日、納屋の前にいたあの時……。意識が朦朧とするなかで聴いた鈴の音。紛れもなく、クロが身に着けていた鈴だった。
「君は絵が描けないんじゃない。描かないんだ。あれ以来、絵を描くと浮き出してしまうと理解したからだろう?」
緑光は言葉を失ったまま、広げた手のひらに視線を落とす。
「いままでずっと、隠していたね」
「……隠してたわけじゃ、ないんです……」
憐れむ目に反論するように、緑光はぎゅっと手のひらを握った。
「わからないんです。あれは僕の幻聴だったかもしれないし。それに、やっぱり落画鬼かもしれなくて……」
「浮夜絵だよ」
断言する実葛にも、緑光は力なく笑うばかり。
「……実葛さんには、わかるんですね」
緑光は胸ポケットを一瞥すると、確かめるように実葛を見つめる。
「わかるよ」
逸らすことのない実葛の眼差しに、否定の色はない。刑事という立場的に、踏み込むのはまずかったか。こういう時、察しがいいのは困るだろうか……。
「察しのいい子は……?」
緑光が言いかけたその時、実葛は胸ポケットの中身を取り出す。真鍮軸の万年筆のように見える。それにさり気なく口づけすると、夕空を裂くように投げた。
眼鏡越しから、さらに目を凝らしているうちに、たちまち冷たく湿った空気がコンクリートの匂いに遮断される。
急な空気の変化。緑光は慌てて周囲を見渡した。
殺風景な水田一帯に映るパステルカラーがネオンに変化し、一斉にせり上がる。
アメコミ映画のワンシーンのような高層ビルに、背の高いヤシの木。無数の人工的な光によって、微睡みから起こされた空。
それは幾星霜の夢が創造した都会の景色。いまは失われたラッシュアワーを軽快に運ぶ、どこかレトロな和製ポップスのメロディが聴こえてくるようだ。
(これが実葛さんの画風。洗練されたシティ・ポップの世界……)
いつぶりだろう。
こんなに自然と笑みがこぼれたのは。大好きな絵に、心躍らせたのは……。
頭のなかをずっとふわふわと漂っていた靄が薄れていくのがわかる。自分を取り戻していくような冴えわたる感覚。
空を仰ぐ緑光の瞳に、実葛も釣られて口角を緩ませる。そして片手でさり気なくスーツの下衿を広げながら、緑光の言いかけていた問いに答えた。
「嫌いじゃないよ」
宙を舞っていた万年筆が、開かれた内ポケットにすっぽりと収まっていく。




