58. 本当の思いやり
「父が絵憑師だというなら、なおさら僕は力を求めちゃいけない」
言葉尻を震わせながら言い切る緑光に、実葛も感情が込み上げる。
「もしや、君は……」
――蛙の子は蛙。
「“絵憑師の子は、絵憑師になる”。君はそんな風に考えているのか……」
実葛の想像以上に、緑光はあらゆるリスクを考えている。これが魂の色がもたらす影響だというのなら、あまりにも酷ではないか。
「たとえ、あの落画鬼が僕の描いたグラフィティじゃなかったとしても。僕が納屋にさえ行かなければあんなことには、ならなかった……」
――「絶対に嘘をついてはいけないよ」
あの時、父との約束を破り自分の気持ちに嘘をつけていたら……。クロが死んでぐちゃぐちゃになった気持ちに堪えて、我慢して……。部屋でいい子に絵日記でも描いていれば……。
「父がいなくなることも、母を……悲しませることもなかった! 僕が悪いんです、ぜんぶ緑色の僕が引き起こしたんだっ……」
時折、ふと考えてしまうんだ。
絶対に嘘をつかない生き方は、本当に正しいのかなって。誰も傷つけない嘘ならついたほうが良い時だってあるんじゃないかって……。
いまにも泣き出しそうな緑光に、実葛は相変わらず儚げに微笑んでは、ゆっくり首を振った。
「君の気持ちを、あの日の純粋な願いを、自ら否定するようなこと言っちゃダメだ」
綾糸のような言葉がひとふきの風に乗って、緑光のほつれた心に触れる。
「緑光くん、僕もね。きっと君と同じことをする。元の日常を取り戻せる可能性が少しでもあるのなら。……褒められた手段じゃなかったとしてもね」
「実葛さん……」
「力が欲しくなるのは当然だ」
実葛はこれまでなにを失い、どんな想いで乗り越えてきたのだろう。そんな風に惹きつけられる優しく強い眼差しだった。
「それだけ君は、どんなに小さな命も軽視したりせず、真剣に向き合った。その証なのだから。むしろ誇るべきだよ」
棘が抜け落ちるような感覚に、思わず息を呑む。自分の意志とは無関係に、潤む睫毛が夕紅を反射するレンズのなかで、艶やかに輝く。
「……恐いんです」
これまでたったひとり、必死に堪えてきたことがまるで嘘のように、あっと弱音があふれ出す。
「僕は……恐いんです。僕の望みが誰かを傷つけてしまうことになったら。僕の願いが誰かの笑顔を奪ってしまったら……」
「わかっているよ」
「だったら……。……だったら……っ」
瞬きを忘れた瞳、震える唇。本音を零すものかと、必死に堪える。
「……どうしてそんな無責任に」
――「織部くんなら絶対なれるって、浮夜絵師!」
少年漫画の主人公みたいに、東雲の笑顔ひとつで突き動かされるほど、僕は強くはなれない……。
身の丈に合わない夢を見れば、それだけ苦難が待っている。僕だけならともかく大切な人を巻き込んでしまったら、取り返しのつかないことだって……。
それなのに、なんでそんなに無責任に……。
「勝手に、軽率に、浮夜絵師だなんて……っ」
気付くと僕は、タガが外れて前のめりになる心を戒めるために、クラスメイトたちの心ない言葉を必死にかき集めている。
「僕より相応しい人間なんてたくさんいる。赤色とか青色とか……緑色の僕じゃなくたって!」
本心に蓋をして紡がれる言葉。発するたびに、僕の心はどんどん冷たく暗い底へと堕ちていく。これが自分の気持ちに嘘をつく感覚……。
僕が僕じゃなくなるみたいだ……。
ひとしきり言葉を放った瞬間。目の醒めるような温もりに包まれ、緑光は瞳を牛乳瓶の底からはみ出んばかりに大きく見開く。
背筋の伸びるような矜持に満ちた大人の香り。――
「君は、そんなことを言う男じゃないよ」
すべてを無視して堕ちるところまで堕ちてしまえば、いっそ楽なのだろう。それでも、引き揚げようとしてくれる人がいることが、どれだけ幸せなことなのか。苦しみの最中ではなかなか気付けないものだ。
(いつの間に僕は……。人の優しさに鈍くなってしまってたんだろう)
クラスメイトたちの「お前のため」と紡がれる言葉が、思いやりに感じられることはあった。でも……。
――本当の思いやりとは、人の想いを無視して魂の色を語ることじゃない。
緑光に対するそれぞれの想いは、それぞれの場所で微かに灯る蛍火のようで。
そっと夜の暗がりに浮かび上がってはやがてひとつの光になって、緑色の孤独を包んでいく。
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