57. 哀しき秀才
「……えはっ、えええっ!? ぼぼぼぼぼぼくがっ!? うきっううきうき浮夜絵師に!?」
緑光の叫びに似たそれは、ゆったりとした水田地帯を突き抜けていく。
察していたとはいえ、奇をてらわずに提案されると、大波に攫われた気分になる。溺れているような緑光に、実葛は微笑みながらも、真剣な眼差しで頷いた。
「そう。ウキウキ浮夜絵師だ。楽しそうだろう?」
再び仰け反る緑光だが、今度は田んぼに突っ込むほどではない。実葛は、彼の挙動が落ち着くのを待って、ゆっくり切り出した。
「浮夜絵師だけが唯一、落画鬼を消す能力を有している。君を傷つけた落画鬼のライターより高い能力を持つ浮夜絵師なら、その傷を完全に消せる」
「浮夜絵師なら……。傷が、消せる……?」
「ああ。君が浮夜絵師になるんだ」
緑光は期待と戸惑いで膨らんだ胸が、一瞬にして萎むのがわかる。
「だったら、この傷は……。僕がわざわざ浮夜絵師にならなくても、現役の浮夜絵師なら誰でも消すことができるはずです」
緑光は傷を確かめるように、額に指を這わせる。開いた唇が僅かに震えていることがわかる。バレないように、声を低くして腹の底から絞り出す。
「僕が描いた落画鬼のせいで、できたものですから……」
絵描きの専門知識などなにひとつない、小五が描いた『何者にも縛られない絵』を超える浮夜絵師などいくらでもいる。
「君も、本当はもうわかっているのだろう?」
それが緑光の本心でないと見抜いているのか、実葛が表情を変えることはない。
「あの落画鬼は自分が描いたものじゃないと」
「現場にいたのは、僕です……。状況的に間違いないんですよ」
「君の意固地は、悪い癖だよ」
実葛の悲しげな表情を見て、握る拳に自然と力が入る。
「だって、僕は……緑色ですから」
緑光の成績は常に学年トップだ。運動部なんてガラじゃないのに陸上部に所属している。これは緑色だと自覚し、強迫観念に囚われた結果の裏返しなのだろう。
魂の色という生まれ持った変えられない現実への対策として、知識や体力で武装する。誰にも頼らずひとりで生きると、緑色特有の臆病さと頑固さが育て上げた“哀しき秀才”なのである。
「君の心はまるで荊棘だ。柔軟性に欠けていては、いつか君に寄り添うすべてを傷付けてしまうよ。なによりその棘が真っ先に突き刺さるのは他でもない、ひとりで抱え込もうと力む緑光くん、君自身だ」
これまでも孤独を決意するたび、棘の路はたまた針の山を踏みしめるような感覚はずっとあった。
「僕は……っ」
――じゃあ、どうすれば……!
油断するとすぐに、心の怪物が牙を剥く。緑光はそれを密かに、必死に抑える。抑えるたびになにかが突き刺さる。実葛の言う通り……棘だらけの怪物だ。
どうすればいいかなんて、本当はわかってるんだ。
「……僕は」
実葛を困らせたくない理性と、感情のままに寄りかかりたい欲求が交錯する。
「“緑光の緑は、ろくでなしのロク”。そう呼ばれてるんですよ」
緑光は実葛から目を背け、心を殺すような声で淡々と続ける。
「なにがきっかけで犯罪者に堕ちるかもわからないキズモノで、ろくでなしの緑色が……浮夜絵師になるなんて。国にとってハイリスクだと思いませんか」
緑光は、道沿いに咲くツタバウンランに目を落としたまま、静かに語る。まさにその花言葉“遠い夢”だと言わんばかりに。
「僕は、ただ生きてるだけで、誰かに否定されるんです」
――クラスメイトたちの嘲笑が聴こえる。
「ただ歩いているだけなのに、知らず知らずのうちに誰かを不安にさせてる」
――近所の老婆たちの視線が突き刺さってくる。
「僕がなにかしただけで。望むだけで……大切な人を泣かせてる」
毎日のようにボロボロの姿で帰るなり、裸足のまま玄関からすっ飛んでくる母。小さく醜い身体を抱きしめている時の母は、息をすることさえ忘れている。
その頃からだ。
――「“無事に帰る”ように。帰ってこれますように」
緑光の持ち物にカエルの刺繍が縫い付けられるようになったのは。
「……それに」
緑光は意を決したように、顔を上げた。
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