56. 傷を完治させる方法
口元を両手で押さえたまま、深い思考の海に沈む緑光。微かに覗く不気味に見開かれた目は、緑色特有なのだろうか。実葛はそっと肩に手を置く。
「良くないことを考えているね」
「……ちょっと嫌なこと、想像しちゃって……」
おずおずと上目遣いに、実葛の顔色を伺う緑光の言葉は尻すぼみになっていく。そんな自信なさげな少年を、大人は優しく拾い上げる。
「聞かせてくれるかい?」
緑光は一拍置くと、躊躇いがちに口を開いた。
「ポルノ・グラフィティが映った動画をSNSで拡散されたら。僕みたいな傷のある人がそれを見て、身体を乗っ取られたりしないのかなって……」
デジタルネイティブ世代の子どもらしい純粋な疑問に、実葛は意表を突かれる。
「驚いた。そんなことまで考えていたのか」
「もし、そんなことができる落画鬼が今後増えていくなら、僕がいくら田舎に引き籠もって、どんなに気を付けて生活しても、意味がないんじゃないかって……」
アナログがどんどん廃れていくなか、スマホはそう簡単に手放せない。
緑光はゆっくり視線を巡らせ、水面に映る自分の姿に目を止める。
「このままじゃ、僕はいずれ人を……」
水面から向けられる視線が歪んだ瞬間。毎晩のように寝室でひとり、密かに肩を震わせ嗚咽を我慢しながら過ごす母の背中が浮かぶ。目を瞑れば、落画鬼に襲われ死にかけた自分の頬にこぼれ落ちた涙の感触が、いまでも鮮明に蘇ってくる。
思い起こされるのは、いつだって泣いてばかりいる母だ。
(僕はこれ以上、お母さんを泣かせちゃいけない……)
これ以上、家族を傷付けたくない。誰かを失いたくない。人から笑顔を奪うことをしたくない。
「……僕は誰も傷つけたくない」
これからどう努力すれば、人を傷つけずに生活ができるのか。出家して俗世を断つしか方法はないのか。とはいえ、今どきのお寺だって、ロボットに掃除を任せる時代だ。緑光がデジタルから逃れられる居場所はもうないようにも思われる。
「自分より他人の心配か。なかなかできないことだ、立派なことだよ」
過去の経験か、はたまた魂の色がそうさせるのか。他人のことばかり考える緑光を実葛は純粋に褒めるのだが、緑光は戸惑いを滲ませるばかり。
「大丈夫。落画鬼は違法塗料なくして生まれないアナログな存在だ。スマホ画面から飛び出すなんてことはまず起こらないさ」
「気にしすぎだよ」と、実葛は肩に置いていた手にそっと力を入れる。だが、緑光の勘にも似た不安は晴れることはない。
――人間が想像できることは、人間が必ず実現できる。
緑光の脳裏に浮かぶ、ジュール・ヴェルヌの言葉。
現にくり返し見る明晰夢で、画面越しに絵を呼び出そうと真面目に祈る自分の姿を見た。もちろん夢と現実を区別できないわけじゃない。
でも、あの夢が予知夢だったら……。
(もし、夢の僕が絵憑師だったとしたら……)
ポルノ・グラフィティは異能をとても限定的に使っている。なによりいままで集めてきた絵憑師の情報とも違ってみえる。この落画鬼のライターはたぶん絵憑師じゃない。だからこそ、想像してしまう。
もし、この落画鬼が絵憑師の手に渡ったりしたら、どうなるんだろう。
(僕はこのままでいいのだろうか……いまの僕にできることはないのだろうか)
実葛の片手ですっぽりと覆われてしまうほどの小さな右肩。その緊張が解れていないことに、実葛は気付く。
(この子は、なにかとネガティヴだが逃げたいわけでない。常に可能性を模索して、自分ができるベストな動きを見出そうとしている)
思いつめた表情を浮かべつつも、緑光の目から光が消えていないことを知った実葛は、ついに口火を切る。
――いま思えば、この一言を伝えるために僕に会いに来たのだろう。
「僕は、君があの一件以来、絵描きをやめてしまっていることを知っている。その想いを重々承知の上で、あえて言わせてもらう」
この五年間、緑光に寄り添い続けた実葛の言葉は、決して軽いものではない。
「その傷を完治させる方法が、実はひとつだけある」
顔を上げる緑光の瞳が夕陽を反射し、きらりと輝いた。まだ実葛が本題を述べていないのに、身体中の細胞がまるで喜色を浮かべるようにざわめき立つ。
緑光の本能はもうわかっていた。
「浮夜絵師になることだ」
実葛がそう告げることを。――




