54. 落画鬼の落書き
(そんなまさか。なんだよそれ。だって、確かに死ぬほど痛かったんだ)
さすがは現役刑事なのか。小柄な緑光など一瞬のうちに、片手で軽々と引っ張り上げられる。その瞬間が、いまの緑光にはとても長く感じられた。
「ありがとう、ございます……」
息を切らしながら声を絞り出すも、なにから話したら良いかわからず言い淀む。
この傷は本物じゃないというのか。いままでずっと絵に翻弄されてきた……?
次第に息も整い落ち着きを取り戻すと、今度は様々な感情と疑問が波のように押し寄せ、自然と声が出る。
「血もたくさん出たし、死にかけたんですよ?」
緑光は再び額の傷をなぞりながら、そのまま前髪ごとぐしゃりと握る。
「病院でだって、普通に傷として扱われて……」
「無理ないさ」
実葛は真剣な表情を崩さぬまま、緑光と向き合う。
「紛れもなく本物の傷だからね。ただ、“絵でできている傷”と言うだけで」
腕利きの医者すら欺く。それが落画鬼の恐ろしさなのだと実葛は静かに語った。
「つまり……僕の傷は、落画鬼に落書きされたってことですか?」
思い出さないよう努めてきた事件の記憶が唐突に蘇る。落画鬼が降ってきた生温い風。歯が浮くような身を切り裂く音、庇ってくれた父の潮と鋼の匂い。――
全身から冷や汗が吹き出し、思わずその場に立ち尽くしてしまう。
「そう言うことだよ。落画鬼が当時、君に描いた落書きなんだ。そして君の身体はそれを“引っかかれて傷付いた”という真実として受け止めた。だからただの絵であっても血は流れるし、痛み苦しむ。放っておけば当然、死ぬ」
「だったら……!」
緑光は実葛をまっすぐ見上げる。その強がった笑顔が不安の色に染まったままであることが、自分でもよくわかる。不自然すぎて滑稽に見えたかもしれない。
それでも実葛はいつだって柔和に目を細め、どんな緑光をも受け止めてくれる。
「最初からぜんぶ絵だって認識すれば、実際には傷付かないってことですか?」
優しい眼差しから、少しでも救済や希望めいた言葉を得ようと、緑光はあれやこれや思考し、質問を投げかける。
「いまからでも、絵だと自覚すれば、この傷も消えるんじゃ……」
ろくなセットもできず、伸び放題の前髪から見え隠れする、痛々しい三本傷。
傷を作って以来、頭のなかはずっと靄がかったままではっきりしない。なにか大切なものをどこかに置き忘れてしまっているような、ぼんやりとした不安が常に付きまとっている。油断すると、くり返し見る夢のなかにいる心地さえしてきて、自分が自分じゃない感覚になる。
なにより辛いのは傷が残り続けることで、家族の傷も癒えないことだ。額を露わにするたび、母は「ごめんね」と涙を浮かべ、祖母は「可哀想に」と傷をさすりはじめる。誰もがあの日に戻ってしまう。
だから隠してきた。ただでさえコンプレックスである癖毛も、“鬱蒼とした森”となぞらえ揶揄されるくらいには、ボサボサのまま。
もし、医者に一生残ると言われたこの醜い三本傷を消すことができたら、緑光自身も自覚する変な髪型とも、やっと決別できると期待したのだが……。
「そんな簡単な話でもない」
見事なまでに期待を打ち砕く言葉に、緑光は口ごもる。
「逆に聞くが、“言葉”であればどんなにキツくても、君は傷付かないのかい?」
実葛の言葉が銃弾のように、緑光の頭を突き抜けた。
(……傷付かないわけがない)
“緑色”であるがゆえに日々、心無い言葉を浴びせられ続け、感覚が麻痺してしまっているがそれはもう傷付く隙間もないほど、緑光の心がすでに傷だらけで痛みに鈍ってしまっているからだ。
(傷付けられて、平気なことなんてない。慣れることなんてない。ただ毎日、昨日までの傷と比べてマシだったところを探しながら、今日の痛みをごまかしごまかし生きてるだけだ)
なにも感じなくなったような……まるで強くなったみたいな冷たい錯覚に身を委ねながら……。
一度、投げられた言葉は他人に触れた瞬間から、取り消すことはできない。鋭利な言葉によって傷ついた心は、そう簡単には癒えやしない。肉体の外傷と違い、目には見えない傷であるから、どれだけ傷付いているのか、そして果たして癒えているのか。自分ですら判断は難しい。
そうやって、人の心を知らず知らずのうちに深く蝕んでいくのが“言葉”である。
落画鬼も言葉に近い存在なのだろう。いや言葉より質が悪い。
言葉以上に具体的でわかりやすい“絵”であるがゆえ、より鮮明にそして必要以上に多くの人や物を傷付けるのだから。
「警察の立場としては、オカルトな明言はしたくないのだけれどね。絵が動くこの時代じゃ、無理に避ける必要もないだろう」
実葛の真剣な声色に、緑光は思わず息を呑む。
「呪いなんだよ」
殴られたような強烈な目眩が緑光を襲う。込み上げる吐き気に似た絶望を嚥下しながら前かがみになる。
「……呪い」
復唱するとより実感が湧く言葉の桎梏。レンズ越しに見開かれたままの目は、前髪のうねりでできた影のなかで、ゾクリとするほど不気味に光る。
固唾を呑んで見守っていた実葛も、そっと身を寄せ労わるように続ける。
「絵空事が事実になって、受け手の心身を蝕んでいく呪いなんだ」
――現実と絵の境界が薄れていく呪い。
「グラフィティとは、人や物を傷付け、穢す絵……いわば破壊行為の象徴だ。その象徴を具現化した存在が落画鬼。触れるものすべてを物理的に破壊するグラフィティの化身なんだよ」
己の欲求が満たされれば、ほかはどうでもいい。そんな身勝手な絵心から生まれた純粋悪は、物を壊すことも、命を奪うことさえも一切、躊躇うことはない。
「そして、落画鬼のパフォーマンスによって付けられた傷は、例えその正体が絵であったとしても本物になる」
どんなに絵だとしても、受け手が傷付いたならそれは本物になる。傷付けられたという記憶が残る以上、なかったことにすることはできない。
「無論、普通の傷でない以上、どんなに優れた医療技術でも、完全に消すことは残念ながらできない」
「そんな……」
(………じゃあ、やっぱり。この傷は一生消えないんだ)
改めて突き付けられた現実に、目の前が真っ暗になった。――
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