51. “世界の敵”
「五年か……もうそんなに経つか」
実葛さんが、遠くを見るように呟いた。
時の流れは早いものだと、しみじみと噛みしめるように。
――あれから、五年。
それなのに、昨日のことのように蘇る記憶。
僕のせいで、父は行方不明になった。
あの日、あの夕暮れ時――起きたあの事件以来、僕はずっと、自分を責め続けている。
そんな僕を、家族も、医者も、警察も、皆そろって「あなたのせいじゃない」「君は悪くないよ」と優しく否定した。
僕が納屋の壁に描いた証拠も、父と一緒に消えてしまったんだから、当然だ。
あの場にいた大人たちは、わかっていた。
僕たちを襲った大鼠の正体は落画鬼だと。
まだ子どもだった僕だけは違った。
夜は出歩かず、早寝早起き。
素直に大人の言いつけを守ってきた僕には、落画鬼はおとぎ話のようにどこか漠然としていて、いつか浮夜絵師になったら退治する遠い存在だと思っていた。
まさか、こんなにも早く現実が追い付くなんて。
想像すらできなかった。
絵を描くのが大好きな僕が怖がってやめてしまわないように、母が徹底して落画鬼の噂話を避けてくれていた影響も大きかった。
当時はまだ都市伝説だった落画鬼を、なぜ母が信じていたのかはわからない。
目を離せばすぐ家中はもちろん、近所の壁にまで落書きしようとするやんちゃな僕を守るために、父の実家がある地方へ引っ越す決断をしたのは確かだ。
田舎では、落画鬼の存在は数ある迷信のひとつとして埋もれてしまう。
人口も少なくて、縁遠いはずだった。
それでも、魔の手は防げなかった。
仕方のないことだった。
落画鬼は、いつだって僕らの身近にあるものなのだから。
……それを思い知らされたのが、あの日。
警察の捜査報告書には、こう記されていた。
父が納屋に隠していた落画鬼が、僕の“負の感情”に反応して暴走した――と。
そして父は、“絵憑師”の疑いをかけられ、いまも指名手配されている。
絵憑師がどんな存在なのか。
これまで、そしていまも世界にどんな悪影響を及ぼしているか。僕は知っている。
だからこそ、父が疑われている事実が、胸を締めつける。
事件後も定期的に訪ねてくれる実葛さんが、どれだけ僕を救っているかは計り知れない。
父を追う立場でありながら、僕に寄り添い続けてくれる――そのおかげで、なんとか普通の生活を送ることができている。
だけど――
心の奥底では、あの事件が自分のせいで起こったんだと、いまもなお言い聞かせ続けてる。
僕があのとき、壁に落書きなんてしなければ。
家族を深く傷つけずに済んだはずだ――家族をバラバラにしてしまったのは、僕のせいだ。
おかしな話だけど、自分のせいだと思っていたほうが、まだ心を保てる。
もしこの気持ちを手放してしまったら――
父を“世界の敵”だと認めるくらいなら、僕が悪者になったほうがいい。
いまの僕を突き動かせるのは、百の慰めよりたったひとつの事実だけだ。
だけど、その事実を知る力は、普通の中学生である僕にはない。
僕の時間は、あの日から“昨日のまま”止まっている――
実葛さんと並んで、のどかな通学路を歩いていると、ひときわ大きな話し声が響いてきた。
「あっこ歩ってんのは、潤げの倅と……誰だっぺ?」
「あえづは東京がら来だ、刑事さんだっぺよ」
声のほうへ目を向けると、車道のど真ん中で立ち話する村の人が見えた。
畑仕事の帰りみたいだ。元々とりとめのない世間話をしていたのか、僕たちに気付くと、すぐに空気が変わる。
「けえさづがしみじみしねえがら、潤もまーだ捕まんね。倅もよぐよぐ監視されてんだっぺ」
父が捕まらないせいで、僕まで警察に監視されていると、お婆さんたちは勝手に勘違いしている。
(……そんなじゃないのに)
ふと実葛さんを見ると、翻訳AIの起動を迷っていた。
訛り強めの方言は、実葛さんは聞き取れていないはず……。でも、お婆さんたちの視線や声のトーンで、あまりよくないことを言われていると察したみたいだ。
実葛さんは、苦笑いを浮かべた。
「これがネットより速いとさえ言われる田舎の情報網か」とでも言いたげだった。
極秘だった父の捜査も、公になる前からすでに村中に広まっていたほどだ。
実葛さんも、それをようやく肌で感じているようだった。
「んだなぐとも、あの倅は緑色だっぺ? ましょーなわげあんめ」
「ろくでもねえきかんぼ潤の倅だもの。いづ悪さすっかわがっだもんだね」
車なんて滅多に通らない静かな村だから、声がよく通る。
お婆さんたちには悪気はない。ひそひそ話のつもりなんだろうけど、ふたりとも耳が遠いのか、声が大きすぎて、自然のサラウンド効果で丸聞こえだ。
「こんばんは!」
僕はすれ違いざま、あえて元気よく挨拶をした。
すべてに誠実でいたかったし、何より実葛さんがアプリを起動する前に、お婆さんたちの話題を少しでも逸らしたかった。
そんな場を繕う僕の笑顔は、やっぱり引きつってたみたいで――
実葛さんは見逃さなかった。
スマホをすぐにしまい、周囲を見回している。
お婆さんたちの視線は、なおも背中を突き刺すようだった。
どうやらリュックに縫い付けられた刺繍が目に留まったらしく、すぐにカエルを話題にする。
「けーるっこはけーるっちゃ、言うがんなあ」
「……蛙の子は、蛙……」
思わず小さく呟いてしまう。すぐに下唇を噛みしめる。
気づけばリュックの紐を握る手にぐっと力がこもっていた。
近所の噂話はいつも、僕の知らない父の一面が垣間見える。
聞きたくなんかないんだ。
僕は自分が知ってる父以外、信じたくない。
あんな風に笑うお父さんが、そんな人なわけがないじゃないか……。
だけど、僕にはその気持ちを伝えることができない。
(だって僕は、緑色だから……)
――指名手配犯の息子で、しかも“緑色”。
声を上げればきっと、近所の人たちを怖がらせてしまう。もし異議を唱えでもすれば、母や祖母のご近所付き合いにまで支障が出るかもしれない。
父がいないいま、家族を守れるのは僕しかいない。
黙って耐えるのが、いちばん良いはずだと、自分にずっと言い聞かせてきた。
(……蛙の子は蛙)
言葉が、離れない。
記憶のなかの父は、いつだって少年のように無邪気に笑っている。
守り続けた父の言葉。父のような強く優しい大人になりたいと願った気持ち。
(僕はぜんぶ間違ってる……?)
足元から、じわじわと得体の知れない感情が這いのぼってくる。
ほの暗く、禍々しい色を帯びた――
そのときだった。
僕の肩に、不意にずっしりとした温もりが伝わってきた。
瞬きすら忘れてしまっていたことに気付く。弾かれるように顔を上げる。
実葛さんが、水田地帯へと続く小道を指しながら、穏やかに微笑んでいた。
「道、変えようか」
僕を染めかけていた暗い感情が、うっすらとにじんだ涙とともに引いていくのがわかる。
残った涙を振り払うようにぎゅっと目を瞑ると、実葛さんをまっすぐに見上げた。
「はいっ!」




