50. 眼鏡男子
暮れ泥む頃になると、落画鬼の出現に備えて巡回パトカーの数が増える。
ただ、都会と違って田舎では、その警戒もどこか緩い。
このド田舎では、犯罪そのものが少ない。今夜も何事もなく巡回を終えるだろう。
実際、緑光の通う中学校の校門前では、すでに一台のパトカーが所在なげに佇み、帰宅途中の生徒たちの視線を集めていた。
とはいえ、落画鬼が広く知られるようになってからというもの、部活動は朝練のみ。
日中は短縮授業、自宅学習はタブレット主体――夕方まで残る生徒はごくわずかだ。
「落画鬼が出たのかな」
生徒たちは緊張気味にひそひそ囁きながら、空気の色を震わせている。
緑光も、長引いた進路相談の成果がないまま、いまだ驚きの白さを放つ進路希望調査票に視線を落としていた。
だが、校門前の違和感に気づくと、自然と歩調も速くなる。
ちょうど、パンダ模様の車体の後部座席が開き、スーツ姿の男が手を振った。
その場の視線が、一斉に緑光へ注がれる。
思わず眼鏡を二度掛け直した。
人目を避けるため、わざとダサい眼鏡を掛けてはいるが、視力の低下は父の心配どおり現実になった。
厚みを増したレンズが、それを雄弁に語る。
間違いない。見覚えのある人物だ。
(確かに、近いうちに会う約束はしてたけど……なんでパトカー?)
いつもは自分の車で来るのに――
緑光は戸惑いを隠せず、苦笑いを浮かべながら頬を掻いた。すると。
「やっぱり緑色、だから……?」
誰かの無遠慮な囁きに、緑光は条件反射で声を張り上げる。
「そ、そんなんじゃないからっ!」
そのまま、さわやかな笑顔の待つパトカーへと、小走りで向かった。
「実葛さん!」
「やあ緑光くん。この時間のグラウンドは、ずいぶん広く感じるね」
閑散とした校庭を、どこか寂しげに見つめる実葛。
目の下には、濃い隈ができていた。
「部活を頑張る君の姿を、いつか見られたらと思っているんだがね」
落画鬼の影が、それを許さない――
儚げな微笑みの奥に、疲労がにじむ。
それでもスーツをきっちりと着こなした姿からは、背筋が伸びるような警察官としての矜持と、大人の清潔な香りが感じられた。
「今日はどうして、パトカーで……?」
緑光は、周囲の目を気にしながらそっと耳打ちする。
「ああ、すまない。少々目立ってしまったかな」
実葛は申し訳なさそうに目を細め、続けた。
「ここ数日、職場に缶詰めでね。寝不足続きで自分の車も出せないから、
地域課のパトロールに便乗させてもらったんだよ」
「ズラさん、高くつくっすよー」
運転席から、巡査が手をひらひらさせながら茶々を入れる。
「……ズラ」
緑光の視線が、控えめに実葛の頭頂部へ向かった。
「そんなことないからね?」
三十代も後半ともなれば、髪の話題は実に繊細らしい。
実葛は光の速さで自分の頭を両手で押さえ、疑惑の眼差しを遮断する。
「洗柿くん、その呼び方はふたりきりの時だけにしようか」
何がツボに入ったのか、洗柿は大爆笑。
実葛がげっそりとした笑みの奥で、本気で嫌がっているのを察した緑光は、スマホの会話履歴を掲げる。
「お、お話ってなんですかっ!?」
緑光の咄嗟の機転に、実葛も我に返る。
咳払いひとつ、姿勢を正してから言った。
「久しぶりに時間が取れてね。君とふたりきりで話したくなったんだ」
「この人、寝不足で使いものにならないから、追い出されたんですよ」
ワライダケでも食ったかのように笑い続ける洗柿を横目に、実葛は肩をすくめた。
ふと、緑光の背負う橙色のリュックに指が触れる。
(……相変わらず、亀のようだ)
事件のショックからだろう、緑光の成長は同年代より明らかに遅れている。
だが、時は残酷で、少年のペースに合わせることはない。
背負うものばかり増える日々――その象徴のように、リュックは年々膨らんでいく。
重たい甲羅を背負う亀の姿が、そこに重なった。
ふと目に入ったカエルの刺繍。手製だろうか。
息子の“帰り”を願う母の想いが、そこに縫い付けられていた。
どんなに“緑色”が蔑まれようと、ただ我が子として愛す人がいる――そんな証のように。
数秒、視線を落とした実葛は、そのまま静かに言った。
「もうこんな時間だ。ひとりで帰るのは危ない。話しながら家まで送ろう」
緑光は、静かに頷いた。
「ひと通り巡回したら、また迎えに来るんでー」
さっきまでのバカ笑いはどこへやら。
洗柿はエンジンをかけ、拡声器を手に取る。
「おめらもはーうぢさけぇれ。鬼めが出っから~」
電気自動車やバイオ燃料車の時代に逆行するガソリン車が、排気をまき散らしながら走り去る。
そのテールランプを、実葛は黙って見送った。
緑光はそっと一歩近づくと、躊躇いがちに口を開く。
「……あの」
“警視庁”という肩書きで、地方に馴染むのは難しい。
その気苦労から解放されたのか、髪の件か――おそらく両方。
「“君たちもすぐに家に帰りな。鬼が出るから”って意味で……」
緑光は、それが通じているとわかっていながら、あえて“通訳”のふりをして言葉を添える。
疲れの色が隠せない実葛に、緑光なりのささやかな気遣いだった。
「ああ、親切にありがとう。大丈夫。配属されてかれこれ五年だからね」
実葛は、緑光の父の失踪を受けて、この町へ出向してきた。
「最近の方言翻訳AIはすごいんだ。もう少しはやく欲しかったよ」
いまでは、年寄りレベルの強い訛りでなければ、聞き取れるようになった……らしい。
その笑みに、緑光はほんの少し、心を緩めた。




