04. 御伽噺の空想
父は、一瞬「ぎょっ」とした表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。
「うちの子は天才かな。それとも、あんぱん頭のヒーローアニメでも観すぎちゃったのかな?」
そう言いながらも、どこかことさらに平静を装っているようだった。
「お父さんの目がよくなれば、またたくさん星が見られるでしょ?
僕、ずっと治してあげたいって思ってたんだ……」
「心優しすぎかっ!? その発想はなかった!」
父の平静は、五秒も保たれなかった……。
父が、どれだけブラックな職場で働いているのか、僕にはよくわからない。
でも、なかなか家に帰れないぶん、父のなかで僕はまだ小さな子どものままなんだろう。
だから、僕が父のことを心配してるなんて、ちょっと意外だったみたいだ。
成長してることに気づくたび、父は目玉が飛び出しそうなくらい驚いて、全力でベタ褒めしてくる。
「たくさん練習したんだけど……」
浮かない表情で語る僕を笑わせようと、父は「練習?」と首を傾げながら続ける。
「念のために聞くけど、俺の目をパンで作るなんて言い出したりしないよな?」
僕は真顔で、きっぱりと言った。
「お父さん、パンは食べるものだよ」
ぐうの音も出ない正論に、父は「そうだよな、うん……。食べ物で遊んじゃだめだよな」と頷きつつ、わざとらしく片手で胸を押さえた。
「お父さん、自分が恥ずかしい。情けなさすぎて、死ぬほど心が痛むぞ!」
「えっ!? し、死なないで?」
父がわざと下手くそに演技してみせても、マジレスしてしまう僕を、
父は(この子は、そういう色だったな)と、静かな眼差しで見つめる。
「まったくお前って子は、三百六十度どこから見ても希望の塊でしかないな」
そう言って、僕の頭をくしゃくしゃに撫でる。
そして、ふと手を止め、「でも、子どもがそんなに気を遣うんじゃない」と、優しく本音を吐露する。
「失ったものは、二度と戻らない。
悲しいかな、それを知るからこそ、人は思い出や残されたものを大切にできるんじゃないかって。
……俺は思ってるんだ」
――失ったものは二度と戻らない。
クロの姿が目に浮かぶ。
魂が抜けて、ただの“物”になってしまった姿が。
今日、僕もはじめて、それを理解した。
「ロクが想ってくれるのは、本当に嬉しい。
でも、それで悩んだり苦しまないでほしいかな」
父は、僕を僕以上に気づいてくれていた。
僕が夢を語りながらも、どこか無意識にトーンを落としてしまっていたことを。
ウキヨヱシになれば、父の目もよくしてあげられるって信じてた。
でも……そんなもの、本当にいるのかどうかも、わからなくなっていた。
父の声色は陽だまりのように優しい。
けど、いまの僕には、少し寂しく響く。
そんな僕の気持ちに、父はそっと微笑んだ。
「もちろん世の中は、俺のように思う人ばかりじゃない。
ロクの実現したいことを必要とする人は大勢いるよ」
そう言って、僕の頭をわしわしと豪快に撫でる。
まるで、ネガティブな気持ちを吹き飛ばすみたいに。
力が強すぎて、僕の癖毛はますますボサボサになったけど、それがなんだか心地よかった。
父と滅多に会えないことで、ぽっかりと広がる寂しさも、ぼんやりとした不安も――
こうして撫でられるだけで、刹那にして忘れられた。
――“鬼”とは不思議な存在だ。
誰もが知っているのに、本当に見た人はいない。
僕もまだ見たことがない。
それでも、恐ろしい化け物だということはわかる。
ただ、それは遠い過去の話。
御伽噺の空想だと安心している。
だから、人は同じ過ちをくり返す。
平和が続くと、忘れてしまう。
“鬼”と表現され、何世代にも渡って警告されてきた厄災を。
“鬼”とは迷信ではなく、“知識”なのだということを。
怪物のような唸り声が響いた――僕たちのお腹から。
同時に鳴った音に、思わず顔を見合わせる。
人は単純な生き物だなと思う。
どんなに悲しくても寂しくても、時間が経てば、まるですべてを忘れたように、お腹が空く。
笑いたくなるほど間抜けな音を立てて。
でも、ここで笑ったら、クロとの思い出まで消えてしまいそうで、なんだか怖かった。
だから、はじめは無神経な腹の虫に少し苛立ったけど――
先に笑った煤け顔を見た瞬間、胸を締め付けていた紐が、スッとほどけていくのを感じた。
だから笑った。泣きながら笑った。
父が笑うなら、笑っても大丈夫。
きっと、大切なものを忘れたりなんかしない。
父がいてくれるなら、この悲しみだって乗り越えられる。
僕もいつか、父みたいに、強くて優しい大人になれるかな。
――これが、父と笑い合った最後の日になるなんて。