39. 青色
「あーらら、あの人も町絵師辞めちゃうってよ。残念」
五件目の“ポルノ・グラフィティ連続通り魔殺人事件”現場から少し離れた場所で、その様子を観察する男女がいる。うち、モロー反射する新生児さながら両手を大きく広げ、驚く仕草を見せるのは、元・浮夜絵師の勿忘草。
彼は、読唇術でも習得しているのか。町絵師三人組の声も届かない場所にいるというのに、やり取りを正確に把握しては、いちいち飛んだり跳ねたりしている。
今日は、黒光りするローブの代わりに黒い雨合羽を全身に纏い、相変わらずその全貌を明らかにしない出で立ちである。
「あの三人組、けっこう見かける町絵師さんたちだったのに。本当に残念だなあ。そう思わない?」
そして、存在するだけで騒がしい勿忘草とは対照的に、その傍らで静かに佇む少女にしきりに話しかけていた。
「特にいまリタイア宣言した子なんて、前から知ってるような親近感があるんだよねえ……。あれ、ひょっとして昔、どこかで会ってたかも?」
「うーむ」と唸りながら、腕を組み小首を傾げてみせるが、隣からはビニール傘が奏でる雨音以外、なんの反応も返ってこない。
勿忘草もその扱われ方には慣れているようで、少女の反応を待つこともなく、特に言葉を交わした記憶もない三人へ、謎の執着を見せていた。
「この妙な寂しさはなんだろ。推してたバンドが、音楽性の違いで突然解散宣言した時と、同じ気持ちかなあ」
自分で発した言葉にしみじみと頷いていたかと思いきや、今度はハッと気付いたように、人差し指を立てる。
「あ、音楽性の違いって、実はバンド解散にありがちな常套句らしいんだよね。私、それ聞いた時びっくりしちゃってさー。ねえ知ってた? ショ……じゃなかった。アオちゃん?」
アオと呼ばれた少女は、隣の男がどんなに騒がしくても、自分の名前すら間違えられそうになっても、どこ吹く風といった様子で、ガード下の壁に描かれたポルノ・グラフィティを見据えている。
「そう言えば、アオちゃん。学校の支度大丈夫? 遅刻したりしない?」
これは彼女が反応するまで、なにがなんでも話しかけ続ける構えだ。
アオは観念したようにため息をひとつつく。視線はガード下のまま、口を開いた。
「いま何時だと思ってる。校門すらまだ開いてない」
アオは、セーラー服の襟を軽くつまんで、支度はすでに済んでいるとアピールする。その拍子に、ビニール傘を伝った雨粒が彼女の手の甲に落ちたが、その玉のような肌が瞬く間に弾く様を見て、勿忘草は人知れずほくそ笑む。
彼女を“青ウサギの浮夜絵師”と呼び間違えそうになるのも無理はない。ショウをそのままそっくり性転換させたかと思うほど、見目麗しい美少女だからである。
「それにしてもなかなか鋭いよねえ、特にあのイケメン町絵師さん。ポルノ・グラフィティがフェイントだって見抜いちゃったよー」
勿忘草は、一切、目を合わせようとしない冷めた美少女を特に気にすることなく、半を顎で指す。
「ただのグラフィティに身体を乗っ取られたら、それこそホラーだよね。ネットの噂がマジだったらどうしようって、私も超恐かったんだ」
恐怖に震えるような仕草を見せるが、その声色は打って変わって、まるで遠足前日の子供そのもの。浮かれている。
そんな勿忘草の白々しい態度に、アオは無表情のまま口を開く。
「よく言う。少しも信じてなかったくせに」
そして、少し考えるように間を置いてから、またぽつりと言い放った。
「あんたは過去、それ以上のことしてきたんだろ」
急に雨脚が強まる。それを良いことに、勿忘草はさらに声のトーンをあげ、盛大にネタバレをかます。
「絵で人の心を動かせるように、私たちに掛かれば、浮夜絵で思うがまま、人の身体を動かすことは朝飯前だもの!」
アオの珍しいカマかけに、なにを思ったか。わざと、彼女もまた浮夜絵師であることを匂わす言い回しをしては、調子付く。
「そもそも想像できることなら、大抵のことはなんでもできちゃうのが浮夜絵師さ、ドヤァ」
両手を腰に当て、ムカつくほど得意げな顔でふんぞり返っている。その三十代には見えない若々しい素肌に、強めの雨粒がバシバシ当たっていてもお構いなしだ。
これまで勿忘草の挙動に、微塵も興味を示さなかったアオも、ようやく目の端で捉えるのだが、相変わらず眉ひとつ動かさない。
基本的に正体を隠す浮夜絵師にとって、公共の面前で暴露するのはいかがなものかとは思うが、この勿忘草という男は、まったく厭らしいことに、あたかも大声を上げるように振る舞いつつも、雨音にかき消される声量に調整しているのである。
ゆえにアオ以外には、聞き取られることはない。雨脚が弱まるまでは、ずっとこの調子だろう。
「でも、浮夜絵を他人に憑依させるとか、燃費悪くてめちゃくちゃ非効率だし」
案の定、鬱陶しいほど身振り手振りを交えながら、そんなまわりくどい手順を踏むくらいなら、浮夜絵を直接使役してやりたいようにすると言い放つ。
(勿忘草、さっき朝飯前って言ったよな)と、アオの心に浮かぶも、基本的にノリと勢いだけで話すこの男に、真面目に突っ込むだけ損だということも心得ている。
とにかく沈黙を嫌うこの男は、そのためなら浮夜絵師に関する情報漏洩すらも厭わない(褒められたことではないが)。
「だいたい浮夜絵師界では、人体を乗っ取る行為は倫理観的に禁じ手だし、基本的にそれやったら、即クビだからね」と、手で首を切る仕草まで見せる。
「あ、浮夜絵師自身が描いた浮夜絵を“セルフ憑依”させるのは、おっけーなんだけど。ね、アオちゃん?」
「……」
勿忘草はアオの正面を遮って、わざとらしく目配せする。そして、アオが伏し目がちになるのを見届けると、本題に戻った。
「浮夜絵師と違って、倫理ガン無視! 絵描きでできることならなんだってする。人の心が無いのが絵憑師! これがあいつらのやり方さ!」
絵憑師について、戦々恐々と語っていた町絵師三人組とは違い、いつものふざけた調子で「外道畜生こんちくしょーよ。やだなー怖いな~」と、ボロクソかつ雑に説明する。
「ただ、町絵師くんたちが言うように、今回の黒幕が絵憑師だったとして。んーちょっと引っかかってるんだよねー」
勿忘草には、とても信じがたいことにこんなふざけた体でも、絵憑師相手に第一線で戦った過去がある。
実際に対峙した絵憑師たちと今回は明らかにノリが違うと、またごちゃごちゃ余計な説明をはじめようとするのだが、その前にアオが一言でまとめる。
「明らかに、“証拠”を残しすぎてる」
「そうそう。そうなのよー」
そろそろ警察の現場検証が終わるのだろう。勿忘草は、デジタル規制線の幅をリモコン調節する白髪交じりの警官を目で追いつつ、相槌を打つ。
その胸に、少しの違和感を宿しながら。




