03. コロッケ
「悲しみは、なくなったりはしないよ」
僕を抱き上げる大きな手に、ほんの少し力が入るのを感じた。
「勘違いさせてしまったな。ごめんな、ロク」
父がいまどんな顔をしているのか知りたくなって、塞いでいた両手をそっと離す。
「大人になると、悲しみが深ければ深いほど、自分よりほかの誰かを考えてしまう。
家族を、優先したくなるんだ」
父の眼鏡のレンズが、臙脂色に染まりゆく夕陽を反射し、瞳のなかに光の輪を描いていた。
その煌めきが、父の眼差しをより深く、より優しく見せる。
なのに、なぜだろう。
父がこのままどこか遠くへ行ってしまいそうな気がして、僕は思わず目を瞬かせた。
僕が両目を塞いでいたせいで、父の左目のまわりは煤けていた。
どこか締まらない――でも、それが父らしくて、少し安心する。
「ロクの悲しみを受け止められる、強い父親でありたいってね」
「じゃあ、お父さんはいま嘘をついてるの?」
大人になるって、大切な人のために、自分に嘘をつくこと……?
「それは違うよ、ロク」
父はゆっくり頭を振り、少し声のトーンを上げて冗談めかした。
「俺は家族を放りっぱなしの“ろくでなし”だが、
自分にできないことを、かわいい息子に要求するほど落ちぶれちゃいないぞ~」
父は照れくさそうに笑いながら、言い足す。
「大人ってのはきっと、見栄っ張りなだけなんだ」
それから、仔猫を拾った大雨の日のことや、
広げた新聞の上にどっかり座り込んで閲読を邪魔するクロの“猫あるある”など、
父が大切にしていた思い出を聞かせてくれた。
「家族を持ってからは、ほとんど一緒にいてやれなかったのが心残りだけどな。
でも、死に目に会えたことがせめてもの救いだったよ」
父はほんのしばらく、物憂げに視線を落とす。
「だから、ロクの目に見えていることだけが、すべてじゃないんだよ。
……お父さんだって、本当はべしょべしょに泣きたいし、すごく寂しいんだ」
「べしょべしょ……?」
父が泣く姿を想像しようとしたけれど、無理だった。
生まれてこの方、一度も見たことがないからだ。
「お母さんや、お婆ちゃんも?」
「ああ、もちろん。お母さんたちも、とても悲しんでいる。
でも、それ以上にロクが心配で、自分のことはそっちのけになってしまっているだけさ」
父は僕の頬を伝う涙を、大きな指でそっと拭い、優しく微笑んだ。
「だからいま、お母さんは夕飯にロクの好物を作っているよ」
「もしかして、コロッケ!?」
さらに深く微笑んだ父の顔を見て、確信した僕は、宙に浮いたままの足をばたつかせた。
「お婆ちゃんも、いつもより多く野菜を穫っちゃったって、笑っていたな」
まったく腰も良くないのに無理をして……と、父は独り言のように呟き、母親を想うように遠くを見つめる。
祖母が炎天下で広すぎる畑に汗を流していたのは、
コロッケの付け合わせの野菜を揃えるためだった。
家族は、自分の気持ちよりも先に、僕の“好き”を集めてくれていた。
そうとも知らず、勝手に外へ飛び出した僕を、呆れもせず探し出してくれた。
家族だから。
親だから。
それが当然だと。
そう思い込んで、意識すらしていなかった。
でも――
その当たり前こそ、どれほど尊く、壊れやすいものなのか。
僕は、少しも想像できていなかった。
「野菜ぜんぶ食べる!」
祖母の優しさを感じ取った僕は、つい意気込んだ。
「本当かい? お父さんですら、ちょっと引いちゃう量だったけど……」
「えっ、そんなに!?」
父の引き笑い気味の顔を見ると、どうやら相当な量を収穫してしまったらしい。
……覚悟しないといけなさそうだ。
「でも僕、お婆ちゃんの野菜、大好きだから……がんばるよ!」
「そうか、好き嫌いしないロクはえらい!
これならお父さんみたいに目が悪くなる心配はなさそうだ」
父の家系は、すこぶる目が悪い眼鏡一族。
だから父は、僕への遺伝を何よりも心配している。
「目が悪くなったら、新しい目を作ればいいんじゃないの?」