38. 不言色
「その仮説が正しければ、私たちが必死にこなしてきた除去作業は、なんの意味も成さなかったばかりか、事件の誘い水になってしまっただけと言うことに」
緑青は自らの発言に、はっとした表情を浮かべ額に汗を滲ませる。
「もしや、このグラフィティ修復も新たな罠なのでは……」
落書き犯によるグラフィティ修復は、ただでさえ人手の足りない町絵師たちをクモの巣にかかった蝶の如く日暮れまで繋ぎ止め、次の獲物を容易く得ようという罠の可能性も考えられた。
「どういう魂胆があんにせよ、レベチでイカれてやがる」
反吐が出るとでも言いたげに、半は吐き捨てる。
すると、いままで大人しかった不言が青ざめた表情で、さらに目を見開いた。
「……絵憑師、じゃないか……?」
“具現化された災害”と称しても過言ではない、未知なる凶悪さを秘めた落画鬼。
それを従わせる高度な技術を持つ存在が“絵憑師”と呼ばれる。いわずもがな、公安警察が血眼になって探す第一級の特殊犯罪者たちである。
不言の一言を皮切りに、三人のなかにある事件当時の解像度が一気に上がる。まだ憶測の域を出たわけではないが、これまでどの町絵師よりも長く、グラフィティと真剣に向き合ってきた面々だ。
もはや『一般通過掃除屋が異世界行ったら、いきなり魔王城の目の前だった件』レベルの世界へ、片足を突っ込んでいることは明白だった。
「つーわけだ、イワ。安心しろとはとても言えねーわ。俺ら町絵師ごときには手に負えねーヤべー絵憑師とメンチ切ってんのかも。知らんけど」
遠ざかっていくブルーシートに向かって再度、静かに手を合わせる緑青の目には、すでに覚悟の色が浮かんでいた。
「もし絵憑師の仕業なら、異能を持つ落画鬼を従えていると言われても腑に落ちます。彼らの手にかかれば、他人を悪堕ちさせることなど造作もないでしょうし」
緑青は冷や汗でズレた眼鏡を正しながら、真剣な表情で投げかける。
「……絵憑師が表立つことは、すなわち再び災厄が訪れることを意味するのではないでしょうか……。十八年前のように」
“十八年前”と言えば、その時生きていた者なら誰もが“侵略大災”を想起する。それが絵憑師たちの仕業だと知ったいまなら、あの時のようにまたなにか大きな事件を引き起こすのではないかと。
不言は、会話が途切れると静かに、グラフィティから完全に背を向ける。
「不言さん……?」
その様子にいち早く気付いたのは、緑青だった。不言はそのまま語り出す。
「俺は十八年前……八歳の時だ。浮夜絵師に命を助けてもらった。普通、彼らと関わったら、その記憶は消しゴムマジックするみたいにあっさり消されて、別の記憶を描き換えられるはずだけど、俺は少しも弄られることなく、残ってる」
不言はいまにも泣き出しそうな目で、自分の震える掌を見つめる。
「それは俺に、“浮夜絵師になれ”ってメッセージだと勝手に思い込んだ。だから俺は、自分は特別な存在なんだって、少しも疑わずに努力してきた」
そして躊躇うように一瞬、間を置いてから、ついにその震える言葉を紡ぐ。
「……けど。俺には才能がなかった」
ふたりは、不言の独白に似たそれに、ただただ静かに耳を傾けるほかなかった。
なぜなら、目の前で声を震わす友が、かつて目をキラキラと輝かせながら夢を追っていた姿をずっと見守ってきたからだ。
いまどれだけの思いで言葉を紡いでいるのか、理解している。
簡単に慰められるほど、彼の夢は軽くない。
「俺が記憶を消されなかったのは単に、社会になんも影響ないから放置されただけだと、ようやく悟った。……それに気付きもせず、いままで生きてきた自分が恥ずかしかった」
自分の夢が叶うと信じて疑わなかった高校時代。正義感ぶって、近所の外壁に落書きしようとした無邪気なちびっこを注意しては「絵を嫌いにならないで。絵は必ず君の力になってくれるのだから」とクサい言葉で慰めたこともある。
ちょっと思い出すだけでも黒歴史まみれだ。自分を消しゴムマジックしたくなる。
不言は、そんな痛々しい過去の記憶に目を眇めながらも、声を絞り出す。
「だからって、いきなり違う道を選択することは俺にはできなかった。認められなかった。認めたくなかった。認めたら、どうしてもいままでの自分が無意味になる気がして、怖かったんだ」
時折、声を詰まらせながら、これまで胸の内に秘めていた孤独を吐露し続けた。
「たとえ浮夜絵師になれなくても、その努力した経験と残された記憶を活かして、少しでも世の中の役に立ちたかった。だから町絵師にしがみついてきたけど……。潮時なのかもしれない」
「不言さん、貴方の努力は決して……」
「活かせなかったんだっ!」
不言のこれまでの努力をいちばん長く、そばで支えてきた緑青は堪らず声をかけるのだが、それを拒むように大声を上げる不言。
「俺の判断ミスで、……死んじまったんだよ、人がっ!!」
正直、自身も想定外の大声を契機に、涙が堰を切ったようにあふれ出す。
「緑青、ごめん。坊さんになっても戻ってきてくれたのに。また三人で活動できるって、俺も嬉しかったんだけどな」
不言は、慰めの言葉は要らないといった様子で、物言いたげな緑青を遮る。
「ガキの頃は、大人になったら必ず皆、立派になれると信じてた。いやいまも、そうならなくちゃ自分には生きてる価値ないって、心のどっかで思い続けてる」
不言は、心に溜まった儘ならないものを吐き出すように、深くため息をつく。
そして。
「もうすぐ三十も近いってのに、そんなガキのまんまな俺の心をいい加減、わからせなきゃ。じゃないと苦しくて苦しくて、明日を見るのが怖くなる」
半は、静かに聞き入っている。
もし、過日の浮夜絵師が、不言の“悟った”とかいう理由で、彼の記憶を消さなかったのだとしたら、それこそ判断ミスである。半は少なくとも、不言の影響を受けて、いまこの場所に立っているからだ。
ただ、それを本人に伝えることはしない。なにをどう伝えたところで、いまの不言には響かない。いたずらに傷つけ合うだけの未来が目に見えている。
それができるほど、彼らはもう子どもではなかった。
「ただただ、生きるだけ、歳を食っていくだけの特別でもなんでもなかった自分。それを受け入れようってだけで、ギリギリなんだ。そんな時に無償で命を懸けられるほど、俺はお人好しじゃない」
不言は決意を固めたかのように壁を見上げると、舐めた態度で見下す裸婦のマスターピースを睨む。
「これ以上、自分の無能さを突き付けられるのはごめんだ。限界なんだよ」




