37. 悪魔合体
「もし、落書き犯がチキった違法塗料の使い方すんなら、真っ昼間からボムって、さっさとバックレるしかねーが」
半は、頭上を行き交う電車の走行音が小さくなるのを待って、断言する。
「この大都会、一般人にエンカウントしねーで、ピース書くとか無理じゃん。知らんけど」
ピースとはマスターピースの略である。マスターピースとは“最終形態”とも言われ、非常にデザイン性が高いグラフィティを指す。
緑青も、同時に吹き込んだ雨風と電車の通過風で飛ばされそうになったハンチング帽を直しながら、同調する。
「不可能ですよ。そうでなくとも取り締まりが強化されている今日びに、昼間から落画鬼に変化するレベルのグラフィティを書くなんて……」
「で、連中が考えたのが落画鬼をパーツ毎に、別の場所に描くスタイルだ」
「レイヤー分けのようなイメージでしょうか?」
レイヤーとは、このデジタル社会では言うまでもないが、グラフィック・ソフトで使われる機能のことで文字通り、“積み重ね”を意味する。顔、身体、装飾、背景などを別のパーツとして描き分けておき、それらを重ねることでやがて一枚のイラストに仕上がる。
「そ。そうすりゃ落画鬼はまず人を襲うより先に、バラバラに泣き別れになった自分探しはじめるらしいんだわ。それがアオハルかどうか、知らんけど」
レイヤーと同じく、落画鬼の各パーツをそれぞれ離れた別の場所に日数を掛けて書いていく。こうして、落書き犯は逃げる時間を稼ぐ。
先日、青ウサギの浮夜絵師が討伐した落画鬼もパーツ毎に分かれていて、半はそのグラフィティ除去を任されたひとりだった。
厭らしいことに、この落画鬼はパーツがそれぞれ別の生き物として書かれていたので、完成イメージが想像し難くその上、カモという周囲に溶け込むように書く、まさにカモフラージュ様式までとられていた。
餅は餅屋ではないが、元落書き犯だった半はともかく、ほかの町絵師たちはとうとう見つけ出すことができなかったのである。そうでなくても、町絵師の大多数は、ポルノ・グラフィティに割かれている状況なのだ。見つけ出せなかった町絵師たちを責めるのは、お門違いである。
半が胴体パーツにあたるグラフィティを除去していたことで、その落画鬼はなぜか本物の烏で欠けた胴を補おうとしたので、幸いにも人間への被害はなかった。
しかし、半にとって落書き犯から足を洗って以来、中途半端だったとはいえ、はじめて完成を許してしまった落画鬼だった。
(あれはひでぇ悪魔合体だったな)と人知れず顔を歪めながら、缶を飲み干す。
「ただ、落画鬼は未知だ。いままでがそうだっただけで、これからもそうとは限らんし」
「絵心のある町絵師ですら、見過ごしてしまうグラフィティも増えて……。つまり、落書き犯たちの手口も巧妙になってきたということですし、その落画鬼もまた、知恵をつけはじめている可能性も拭えません」
「つーわけで、どんなに手間暇かけてもワンチャン死ぬかもしれねーし、いつどこで誰を襲うかもわかんねー落画鬼が迫りくるなか、どこぞの馬の骨か知れん輩のグラフィティを、ご丁寧に修復したあげく」
半は缶をぐしゃりと握り潰しては、言葉を続ける。
「こっちがおっ立つくらい、どエロいrkgkオーバーする余裕ぶっこきよう」
他人のグラフィティに被せる“上書き”行為は、以前よりハイクオリティでなくてはならないというのが、落書き犯たちの暗黙のルールだ。
無論、ポルノ・グラフィティのクオリティは言うまでもない。同時に、それだけ完成に時間がかかっていることを意味する。
「ざっと見た感じ、夜通しボムってたとしか思えねーわ、知らんけど」
半はブラシの石突を、有象無象と化してしまったグラフィティひとつひとつに向けては、なぞるように数えていく。
「自分は襲われないと、わかっている人間でなければ出せないクオリティですね」
緑青も眼鏡を正しながら、改めてグラフィティ全体を見渡した。
やがて、ブラシの石突はポルノ・グラフィティのだらしなく出した舌を差す。
「つまり、このドスケベ女をボムった落書き犯は、どっかから従えてきた落画鬼で、除去ってる最中のふたりを襲ったんじゃね」
想像を避けていた状況と、いよいよ向き合わねばならない。緑青は、堪らず声を上げる。
「そんな……。筆舌に尽くしがたいとはまさにこのこと。あまりにも、あまりにも常軌を逸しています。いったいどんな精神状態で、そんな惨たらしいことが……いやまさか」
「そのまさかじゃね。落書き犯は、落画鬼に憑依された野郎が女をヤッてるそばで、悠長にボムってやがった」
苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる半。その横で、ブルーシートが粛々と回収されていく。
「ネットの憶測じゃ、あたかも現場にボムってあったドスケベ女を見て、体に異常をきたす流れになってたが、今回はどう考えてもそうじゃなくね。町絵師ふたりがぴんぴんしてる横で、ボムるなんてありえんし。だいたい違法塗料のニオイもしねーし」
半は「一度、嗅いだらそう簡単に忘れらんねーよ」と、違法塗料のニオイは絶対に間違えることはないと言い切った。
「……では。このグラフィティは、ただのマーキングと言うことですか……?」
緑青は、怒りに声を震わせながら卑猥なグラフィティをじっと睨んでいる。
以前、半が「グラフィティ・ライターはどいつもこいつも縄張りを主張したがる犬みたいな連中」と言っていたことを思い出していたのだ。
「そういうことなんじゃね。こいつは “俺参上”アピールがてらの、しょーもないフェイントなんだろうよ」
いまにも動き出しそうなほど、躍動感あふれるマスターピースである。世間が本物の落画鬼だと勘違いするのも無理はない。
「つーわけで、人様の身体を乗っ取る落画鬼は、ほかにいる」




