35. 半色
半は元々、夜な夜な街中をグラフィティで穢す落書き犯であった。
しかし、それはあくまで世間的な評価である。彼自身は、純粋にグラフィティを芸術として愛していた。
もちろんどう正当化しようと、グラフィティは犯罪行為だ。一線を超えたら最後、もう普通の絵描きじゃ物足りない。イケナイ場所に描きたくてたまらなくなる、疾病のような中毒性に魅了されていたのも事実。
そんな彼を、周囲の大人はこぞって「おかしい」と否定した。何度も補導された。道から外れていると、何度も何度も更生プログラムとやらに参加させられた。
だが彼自身、自分は至って正常であると自覚していたし、無駄な時間を強いては憔悴しきった顔を浮かべる両親を、毎度あくびをしながら眺めていた。
魂の色とやらが指し示す通り、紫色の彼は芸術の才能に恵まれている。なにひとつ道から外れちゃなんかいない。
ただ、その手法が社会からは望まれぬ形というだけで、人間失格の烙印を押されていた。それだけだ。それはあまりにも、大人たちの勝手な都合ではなかろうか?
いつか役に立つかもしれないと漠然と学校を強制され、やりたくもない勉強で、無理やり同級生は敵だなんだと競争にぶち込まれる。あげくその底辺を彷徨うと、たちまち落ちこぼれと格付けされる。
でも彼の親は、まだそっちのほうがマシだと言った。
半は、そんな王道ルートで、親がマシだと宣う無駄な時間を燻ってるくらいなら、いまの自分がやりたいこと、必要だと感じることをしたかったし、それを社会の尺度でどう解釈されようが別にどうでもいいと、彼の反抗心は日に日に強まっていった。
(どうしようもなく不良であった俺と、グラフィティはきっと同じモンを抱える、似た者同士だと信じた)
多くの人間から社会の汚点としか見なされず、嫌悪され、無慈悲に消されてゆくグラフィティ。その儚さのなかにも、強く美しい価値がある気がしてならなかった。社会秩序によって奪われた真の自由がそこにはあった。
うざったい大人に指図されることなく、個性を認め磨き合える自立した世界。
心のなかで常にモヤついていた窮屈、退屈、偏屈をグラフィティと一緒なら吐き出せる。
グラフィティは、誰からも認められなかった少年時代の半自身の心の叫びであり、かといって理解されるための働きかけさえ無意味だと諦観していた彼にとって、唯一の救いであった。
だから夜明けとともに当然のように消されていく相棒を見ると胸が張り裂けそうになる。居場所を奪われる気がした。
――誰もが消すことを躊躇う価値あるものを、このジャンルで表現することは不可能なのか。
半は、グラフィティに対して、いつしかそんな風に考えるようになっていた。
そして、ちょうどその頃。
不死身と称されるグラフィティ・ライター “画狂紳士卍”の存在を知る。
一切、素性を明かさない謎多き人物で、トリックスターとして各地でハプニングを起こし、警察に追われる身でありながら、そのどさくさに紛れて書き残すグラフィティが、芸術として世界を魅了する。発見されるたびに競売にかけられては、目玉が飛び出るほどの高額で取引されているのである。
“人々から描かれることを望まれたグラフィティ”
そんな人気者の背中を、半が目指すのは必然だった。
これが半の路上芸術への目覚めである。
彼は、グラフィティ・ライターのなかでも、さらに完成度の高いグラフィティを追求する“ピーサー”を名乗るようになっていた。
ところがどうだろう。
彼が十代後半に世界を襲った流行り病以降、グラフィティを単なる憂さ晴らしとして描く“ボマー”が増えたのだ。
グラフィティの持つ芸術性や真の自由から目を背け、世の中の不平不満とかいう一時の感情で都合良くグラフィティを利用し、ただ見境なく街を穢す。
“自由”と“自己中”を履き違えた、結局与えられたルールのなかでしか吠えることのできない家畜同然の連中。
半は、ピーサーと対照的なボマーを軽蔑していた。己が情熱を注ぐ路上芸術と一緒くたにされたくはなかった。
しかし、世間一般様の目は、それを区別なんかしちゃくれない。
やがて取締りが強化され、次第に芸術云々どころじゃなくなっていった。
さらに輪を掛けるようにして、半の心の支えだった “画狂紳士卍”が失踪。
そして、パンデミックの混乱を好機と言わんばかりに、ライターたちの間でおかしな塗料が出回りはじめたことで、ますます嫌気がさしたのだ。
◆◆◆
「俺は落画鬼を直で拝んだことねーけど、そいつを生み出すCMYK……違法塗料とやらなら、盗んだ経験がある」
半は手にしていた除去剤を、片手でぽんぽんとくり返し、投げ上げる。遊んでいるかのように見えるが、こうして沈殿する成分を均等に混ぜるのが、彼のお決まりのやり方だ。
「違法塗料はな、色んなモン混ぜて誤魔化してるみてーだが、俺には判っちまう。血のニオイだ。想像を絶する最悪な条件下で搾取したんだろ。酷く腐った……ゲロ吐く臭いがする」
“悍ましい死と呪いの臭いがする”
世間の専門家は違法塗料をそう表現していたが、抽象的すぎて不言も緑青もいまひとつ想像できていなかった。なので、半のシンプルな表現といつになく説得力のある真剣な声色に、ふたりは思わず固唾を飲む。
そんなふたりにすら今後、一生明かすことはない記憶を半は回想する。
いまでも鮮明に思い出される違法塗料・通称CMYKをはじめて手にした橋梁下での出来事。――
(もうどうにでもなっちまえ)
パンデミックの混乱で、すっかり投げやりになっていた当時の半は、今度こそ人生詰むと判っていながらも、蓋を掴む手を緩めることができなかった。そんな追い詰められていた矢先のことだ。同年代くらいの少年ふたりの姿が目に留まる。
グラフィティ除去に勤しむ、忌々しい町絵師どもだった。
除去っても除去っても、その倍以上のスピードで増え続けるのがグラフィティだ。達成感もクソもない、この無駄なボランティアに文句ひとつ言わず、滑稽なほどひたむきに取り組む痩せっぽちと小太り。
そんな対照的なふたりをはじめこそ、鼻で笑っては遠巻きに眺めていたのだが、陽が傾きはじめても、敵の気配に気付かないほどの一心不乱な様子に、ほっとけない危なっかしさを感じるようになる。
半は大きくため息をつくと開けかけていた塗料の蓋を、そっと閉じた。――




