34. ペイント・フューム
“ポルノ・グラフィティ”
目隠しのポーズをしているにも拘わらず、緑青を見下しているような威圧感すら感じられる。
これが公共の場に描かれたものでなかったら、卑猥と一言で括るのは惜しいほど甘美的で、多くの男性に一夜の夢を魅せるであろう、妖艶さに満ちあふれたアートである。
「このグラフィティを見ると身体を乗っ取られ、女性を襲ってしまうという噂。半信半疑でしたが、先ほどの容疑者の様子から、確かに納得するものがありました。しかし……」
緑青はその気弱そうな面持ちとは違って、グラフィティをもっと良く見ようと懐から丸眼鏡を取り出す。元は臆病者の緑色であったが、僧になるための修行が彼を成長させたのだろう。
「それでもまだ不確かな情報です。実際、事件前後にポルノ・グラフィティを目撃しても、なにも起こらなかった通行人だっていたようですし」
「きっと乗っ取られる側に、なにか共通点があるんだ」
絶望の声を上げながら、不言は膝から崩れ落ちるようにその場にうずくまる。
「共通点、そうですね……。いまのところ捕まった容疑者は、年齢も職業も魂の色すらもバラバラだそうで……」
「知ってるよ。共通点がわからないから自衛しようがない。だから、恐いんじゃないか」と不言は、緑青が言い終わらぬうちに、そのエプロンの裾を掴む。
「緑青、そのグラフィティを見るのやめなよ。取り憑かれるかもしれない」
不言はグラフィティを少しも視界に入れたくない様子で、忠告する。
「俺ら、いままでさんざん除去ってきたけど、身体乗っ取られた試しないじゃん。いまさらビビってもしょうがなくね」と半は、俯いたままの不言を覗き込みながら話しかける。
「ちな、俺はさっきからずっとガン見してるけど、なんともねーし。だから平気じゃね、知らんけど」
現場に残されているグラフィティの無害さを伝え、不言の恐怖を和らげようとするが、やはり彼の無責任な口癖が、すべての気遣いを台無しにしていた。
「そもそもさ、なんで消したはずのグラフィティが復活してるんだ……?」
不言の恐怖に満ちた声に、半と緑青は顔を見合わせる。
昨日の除去作業で、このあたり一帯のグラフィティのうち、少なくとも十メートル範囲は、確かに三人で除去したというのだ。
「俺が抜けたあとも、残ったふたりが作業していたはずだから、もっと除去は進んでいたはず。なのに、なんで……」と不言が言い切る前に、半は「ホラーかよ」とぼそりツッコむ。
「なんで、ぜんぶ元通りになってるんだ? 俺は、そこにビビってるんだよ」
「ポルノ・グラフィティはともかく、昨日除去したグラフィティまですべて元通りになっているということですか? いったいなんのために……」
緑青はさっぱりわからないといった様子で、本当にそうなのか「不言さんちゃんと見て確かめてください」と、己のエプロンを掴む腕を引き揚げようとする。
「無茶言うな。嫌だよ、俺には無理だ。この絵はきっと呪われてる!!」
不言はまるで我が儘な子供のように、緑青を突っぱねては「ポルノ・グラフィティが、消えたグラフィティたちを蘇らせたんだ」とすっかり怯えきっている。
その様子を見て、半は大きくため息をついた。面倒事には深く関わりたがらない質の彼が、意を決する際の癖である。
「そもそもこのドスケベ女は見たとこ、市販のラッカーでボムった、ただのグラフィティじゃん。落画鬼になるなんてことねーんじゃね、知らんけど」
「それ、どっちよ。さすがに腹立つな」
いまの不言は、普段なら聞き流す半の口癖でさえも、気に障るほど苛ついていた。半はそれを眉ひとつ動かさず受け流すと、持っていた除去剤に目を落としながら話を進める。
「俺はお前らより、汚え世界に明るいかんな。判んだよ。嫌ってほど嗅いできたし……有害物質のニオイは」




