29. アニメのせいだっっ!
――また殺されたって。ついに五人目だよwww
“青ウサギの浮夜絵師”動画が拡散されてから、三日が過ぎた早朝の都内。
事件発覚からわずか一時間足らずで、SNS上に垂れ流された感情の見えない一文が“いいね”されまくっている。
夜半過ぎから降りはじめた雨は、朝を迎えてもさんさんと降り続け、時折激しい驟雨となっては一陽来復を闇に葬るかの如く、散り落ちた紅柄色の桜を排水溝めがけて押し流していた。
――殺されすぎで草。さすがに無能すぎんだろ、浮夜絵師。
絶え間なく行き交う通勤電車。その走行音が響くガード下は、何台ものパトカーが停まっており、3Dホログラム技術で張り巡らされたデジタル規制線のなかでは、複数の警察官たちがそれぞれの役割に徹している。
不気味といっては変だが、野次馬はひとりもいない。
オフィス街であることも影響しているが、ここが落画鬼・通称“ポルノ・グラフィティ”が関与した新たな事件現場と知るや否や、通行人は立ちどころにSNSを開く。
そして、書き込んだ「w」の数や、草を生やした文面とは打って変わり、青ざめた表情を強ばらせて俯き、足早に去って行くからだ。
その様は野次馬対策として、規制線に立つ白髪交じりの警官に、よそ見の隙を与えるほどだった。
――ポルノ・グラフィティと目が合ったら、身体を乗っ取られる。
どこの誰かもわからないネットの一文にいま、日本中が恐怖している。
白髪交じりの警官が、ブルーシートの下から覗く青白い手に気付く。
さりげないファッションタトゥーの入った小指。その爪には、新緑を想定した爽やかな春ネイルが施されていて、まだまだ生きる意志に満ちあふれた若い女性だったことが伺える。
ただでさえ、排気ガスで薄汚れたガード下は、太陽がないうえ外灯もことごとく破壊されているためより暗く、見落とされたのだろう。
彼女がこれ以上、傷付くことのないよう丁寧に直してやると、その二度と息を吹き返すことのない背が寄り掛かる壁を見上げた。
排気ガスの汚れに交じって、隅々まで埋め尽くされたタグやホロー、スローアップと呼ばれるグラフィティが広がっている。そのなかでとりわけ主張激しいカラフルなバブルレターを踏みにじる形で、例のグラフィティが上書きされていた。
真っ先に目に飛び込むのは、豊満な胸の艶めかしいセミヌード姿。片手で両目を覆い隠しているため、目から感情は読み取れないものの、もう片手は真っ直ぐ中指を立て、見る者すべてを挑発している。
先月末から相次ぐ連続通り魔殺人事件。犯行現場に必ず残される、この好戦的で卑猥なマスターピースが、“ポルノ・グラフィティ”と呼ばれる所以だ。
現場によって、その構図は様々ではあるが、ひとつだけ共通点がある。
〝Don't blame me(私のせいにするな)〟
オーガズム時の表情から、ズルリと剥き出しになったいかがわしい舌に、書き殴られる強い言葉……。
容疑者と思わしき男に目をやると、生気のない目で、その場から逃げる様子もなくへたり込んでいる。そして、取り囲む警察官たちになにを問われても、まるで聴こえていないかのようで。
ただひたすら「俺のせいじゃない」と、早口でくり返していた。
埒が明かないと警官たちは判断したのだろう。
やがて男は手錠が掛けられ、立つよう促されている。しかし、本人は相変わらず、うわの空で座り込んだままだ。女性警官が、男を立たせようとさらに近づいた時だった。
男が突如、彼女の首筋に噛みついたのだ。その場にいた警官たちが一斉に身構える。
女性警官は必死に引き剝がそうと技を仕掛けるが、男は中肉中背というありふれた体型でありながら、びくともしない。
ただ、それもたった数秒間の出来事で、男はすぐに他の警官たちによって引き離されたのだが、その異常な怪力を体感した彼女だけは、時が長く感じられるほど恐怖し、職務そっちのけで固まってしまう。
引き離されても尚、男の口からあふれる空腹の獣さながらの重く粘ついた唾液は、女性警官の首筋に強く残った歯型と、古い吊り橋のようにだらりと繋がったままであったから、より不快感を搔き立てられた。
「ヤれって言われたんだっ!」
男は普段、滅多に大声を上げる人物ではないのだろう。周囲に取り押さえられながらも、張り上げる声は何度も上擦っている。
「……だから俺じゃない。アイツがやったんだ。ぜんぶ……」
警官三人がかりで押さえつけているにも拘わらず、男は信じられないほどの強い力で、徐々に押し返しはじめた。それにいち早く気付いた女性警官も気を取り直し、加勢する。
それでも駄目だった。
男は警官四人を振り払っては、ありえないことに手錠を引き千切ったのだ。
白髪交じりの警官をはじめ、それぞれの持ち場で警戒態勢を取っていた警官たちも、(なにが起こっているのかわからない)と警棒を取り出す者もあれば、(いや手錠引き千切るとか、物理的に無理だろ怪物かよ)と、いよいよ拳銃のホルスターに手を掛ける者まで現れる。
解き放たれた男は、猫のやんのかステップ如く背中を持ち上げ、片足をまるで尾を振るようにバタつかせている。その様は、本当に同じ人間なのかと誰もが混乱するほどであった。
やがて男は天を仰ぎ、最後の力を振り絞る勢いで言い放つ。
「動絵のせいだっっ!」
もはや遠吠えにも似たそれを出し切った瞬間の男の目は、恍惚と背徳の混然した異様な輝きを放っていた。




