20. 絵描ける人マジ尊い
――緑色の人間。
その言葉が、鋭利な銛のように、思考の深海へ沈んでいた緑光の心を突き刺し、現実へと引き揚げる。
「あっ、きゅっ急にごめん。ついうっかり……出しゃばっちゃって」
苦し紛れに笑顔を作るが、クラス中の冷たい視線が、どう取り繕っても“時すでに遅し”と物語っていた。
(……あぁ。なんで僕は、好きなことになると周りが見えなくなっちゃうんだろう!)
背筋に冷や汗が滲む。
胸の奥が暗く疼き、思わずそれを抑えるように前かがみになる。
そんな緑光を見て、男子生徒たちはいよいよ調子づく。
「緑光、おまえ、マジ絵に描いたようなオタクだよな!」
男子生徒の中心にいた桃山が、緑光が抱え込んでいたタブレット端末を強引に掴み取る。
抵抗する間もなく、腕のなかから無理やり引き剥がされ――
それでも、緑光の指先は最後まで縋るように端末を追いかける。
しかし、その想いも虚しく、指の隙間からゆっくりと滑り、零れていった。
(……こうじゃなかった)
画面には、色彩豊かなイラストに宿る平和、二度と完結しない物語。
光の加減で、一瞬きらりと画面が揺らぎ――そのまま、遠ざかっていく。
(少なくとも、御空藍が生きていた時代は……)
御空藍の作品の前では、世界はひとつだった。
彼女が物語を描けば、人々は諍いを忘れ、夢中になった。
その前では、いじめっ子もいじめられっ子も関係なくなり、
誰もが共に涙し、夢を語り合う。
老若男女、国籍を問わず、立場を超えて“好き”を分かち合えた。
そして、“青ウサギの浮夜絵師”として、彼女が星空に“あい”を描けば、
彷徨う夜さえも、安らかな眠りへと導かれる。
御空藍は、安寧の世を維持する要だった。
そんな世界も、彼女の死とともに終焉を迎える。
本屋に足しげく通う楽しみも、雑誌の発売日を指折り数えて待つもどかしさも、
印刷の匂いに満たされながらページをめくる喜びも……。
彼女の死と入れ替わるように、世界を覆った感染症のパンデミック。
それによって急速に進んだデジタル化に呑まれ、
紙の文化とともに、あらゆるものが忘却の彼方へと消え去った。
たとえ、御空藍がいなくなっても、彼女の作品に込められた想いは、人々のなかに生き続けているはずだった。
遺した願いを、誰もが受け継いでいるはずだった。
そう――信じていた。
なのに……。
「返してよ!」
緑光は両手を精一杯伸ばすが、届かない。
桃山は端末を掲げたまま、余裕の表情で進路希望調査票の画面を晒す。
クラスメイトたちは画面を覗き見て、案の定といった様子で笑う。
「なーんも書けてねーじゃん」
「まあ、書けたところでって感じもするけどなあ?」
嘲るような声が飛ぶ。
桃山が薄く笑いながら付け加える。
「そう。どんなに成績優秀だろうが、知識蓄えようが関係ない。
希望なんて何ひとつ叶うわけない。だって緑光は――」
その言葉が、最後まで言い切られることはなかった。
空気を裂くような気配とともに、鋭い動きが割って入る。
一瞬のうちに、緑光がいくら手を伸ばしても取り返せなかった端末が、あっさりと奪い取られた。
桃山は鳩尾を押さえ、その場に崩れ落ちる。
緑光の牛乳瓶の底に、ひとりの女子生徒が鋭く閃いた。
「中三にもなってこんなことしてんの、マジで終わってんだけど?
内申死ぬの、わかってる?」
女子生徒は冷ややかに桃山を見下ろし、
次いで動揺する緑光に端末を差し出す。
まるで生まれたての小鹿を労わるような眼差しで。
「織部くん、高速詠唱おつ~! マジで知識王すぎ!
日常会話で『源平盛衰記』とか『前太平記』とか出ることある!?
フツーにウケるんだけど~!」
オタク特有の早口を“高速詠唱”と称する彼女は、
「『平家物語』とかさ、あたし祇園精舎と諸行無常しか記憶ないんだけど。マジで」
と、軽いノリで笑う。
清純派ヒロインとはほど遠い口調だが、
裏表のない満面の笑みで、牛乳瓶の底をまっすぐ見つめている。
まるで後光が差しているかのように、明るく眩しい存在。
思春期ど真ん中の緑光は、その光に目を奪われ、視線が泳ぎまくる。
「それにあたし、動絵とかガチでわかんないしさ!」
現代はテレビアニメだけでなく、イラスト全般を“動絵”と呼ぶほど、絵が動くことが当たり前の時代。
漫画のコマも雑誌の口絵もすべてアニメーションし、
静止画はもはや時代遅れとされていた。
高級品となった“紙”に絵を描く行為も、歴史を学ぶ名目で、美術の授業中に一、二回あるかどうか。
静止画はほぼ絶滅し、唯一の例外は公共の壁に描かれる違法なグラフィティだけ。
そのせいで、“動かない絵=後ろ暗い連中が描くもの”という偏見が強まっていた。
それにしても、自分の好きなジャンルを「全然わかんない」とスッパリ言い切られると、ズシンと響くものがある。まるで全身を袈裟斬りにされた気分だ。
緑光は力なく笑いながら視線を落とす。
しかし。
「でもさ! 絵って見ただけで伝わるし、
言葉通じなくても、世界中の人、笑顔にできんじゃん?」
頭での理解よりも先に、心に熱いものが込み上げる。
緑光は、その熱に弾かれるように顔を上げた。
期待と不安の入り混じった瞳を、彼女はこぼれんばかりの笑顔で受け止める。
「だから、絵描ける人マジ尊い! フツーに推せるわー!!」




