19. やっぱり緑色の人って
開けた窓から、もう散ったはずの桜の花びらが風に舞い込む。
そして、緑光とタブレットの間に落ちた瞬間、彼の集中力は完全に切れた。
人生の方向性を決める大事な局面。
それでも、クラスの会話が気になって仕方ない。
それもこれも、彼が浮夜絵師に人一倍、強い憧れを抱いているからだ。
タブレットの花びらを掃いながらも、クラスに響く浮夜絵師への称賛の声を聞くたび、ひとり大きく頷いている。首がもげそうなほど勢いよく。
漫画でしか見たことがない、牛乳瓶の底みたいな眼鏡が、いまにも吹っ飛んでしまいそうだ。
誰が見ても挙動不審だが、クラスメイトはそんな地味な少年を、教室の隅の埃よりも気にかけていない。
ふいに、誰かの不安げな声。
「この動画、ずっとアップされたままで大丈夫なのかな……?」
緑光の動きと、沸き立つクラスが、一瞬で静寂に包まれる。
「絵憑師とかに、青ウサギが身バレしたらヤバくない?」
“絵憑師”とは、浮夜絵師と対極にある存在で、
明確な意志のもと落画鬼を使役し、社会を乱すことを目的とした凶悪な落書き犯のことを指す。
それは、描く場所を傷つけるだけでなく、見る者すべてに悪意を刻み込み、絶望を植え付ける。
世界を破壊せんとする絵憑師に対し――
夜空をカンバスにし、描く場所を傷つけることなく、見る者に夢や希望を与える浮夜絵師は、似て非なる者。
その差こそが、善と悪の境目であった。
「解像度良くないから、顔バレの心配はなさそうだけど……。でも、画風で特定されちゃったりしないのかな……?」
浮夜絵師はその能力ゆえ、悪しき者たちに命を狙われることも少なくない。
神絵師ほどの知名度と実力があれば、素顔を明かすことで犯罪の抑止力になる場合もある。
実際、公開している猛者もいる。
しかし、基本的に素顔を晒す浮夜絵師はいない。
懸念の声は瞬く間に広がり、不安が周囲に伝染する。
やがて、感情的な声が飛び交いはじめた。
「……画風、確かに」
たったひとりを除いて――
ガタッと椅子から立ち上がる音を皮切りに、それは動き出した。
「筆圧の強弱と、線の伸びやかさに若干、区別しにくい微妙な違いはあるけど……いや、でも!
“青ウサギの浮夜絵師”を継承してるだけはあるよ」
クラスに蔓延する感情論をぶった切ったのは、“画風”という単語だった。
その琴線に触れてしまった牛乳瓶の底は、早口で読経するように淡々と分析をはじめる。
伝説の青ウサギと若き青ウサギを比較し、驚くほどの一致にひとり満足げに頷く。
そして急に何を思い出したのか、はっとした表情で
「『平家物語』にも書いてあった!」と、さらに勢いづく。
「落画鬼を倒した弓は、あの撮影環境でも音が拾えたくらい高い弦音だったから……たぶん、むかし黒雲に変化した妖怪を射落とした雷上動だと思うんだ。
やっぱり、相当な絵心と画力がなければ、あんな美しい音まで忠実に再現できないんじゃないかな……!
むしろ、それを再現できたこと自体がすごいのかも……ああ、心が躍るよ。
だって、『源平盛衰記』や『前太平記』でしか想像できなかった伝説の弓の音を、実際に聴けるんだよ!? 本当、すごいや!」
教室の窓際で、悶々としていたはずの地味な眼鏡が、突然クラスの中心に現れたものだから、
皆ぎょっとした表情を浮かべたまま固まってしまう。
当の本人は、そんな一同などまったく意に介さず、誰の反応も待つ様子もなく、
牛乳瓶の底みたいなレンズを輝かせ、夢中で語り続けている。
「それに、あの“英雄画”。まるで本物の戦乙女を間近で見た人にしか描けないような解像度……いや、目撃してるとしか思えない!
配色もその神秘を助長する、冷たい空の色と神聖さを引き出す絶妙な匙加減」
「織部……? ひーろーいめーじってなに」
「それでいて、水彩画のようなみずみずしさや柔らかい雰囲気をそのままに、
揺るぎない意志の強さが紡がれたあの独特な少女漫画のタッチは、
かの御空藍を彷彿とさせる画風だったし、あそこまで再現度が高いのは、
御空先生のファンだからって理由じゃ片づけられない」
「おーい、聞いてっかー? ロクでなしのロクみつくーん?」
ものすごい集中力を見せつけるいまの緑光には、どう呼びかけても無駄だ。
彼の持つタブレット画面に映し出されているのは、美しいイラストの数々。
それらは、史上最強と謳われた伝説の浮夜絵師、“青ウサギ”の手によるもの。
彼女は漫画家としても一世を風靡し、『マンガを読むと馬鹿になる』という古い意識を覆した人物でもある。
その遺作が、いまここに残されていた。
緑光はタブレットに視線を落としたまま、もはや周囲に伝える気すらなく、
高速でマニアックな長文を垂れ流し続ける。誰も付いていけないほどに。
「一朝一夕でオマージュできるような画風じゃないことを踏まえると、
もしかしたら御空先生の親族なんじゃないかな。
彼女はアシスタントをとらなかったし。
でも……待てよ?
先生の息子さんは確か“絵心が死んでいてまったく絵を描かない”って、
むかしのインタビュー記事にあった……はず……」
緑光はタブレット端末を両腕と胸との間に挟むと、
英国の名探偵のように口元の前で両手の指先をつき合わせる。
完全に思考の海にダイブしている。
考えに没頭しすぎて、体勢を固めたままピクリとも動かない。
御空藍の画風は、多くの絵師、そして浮夜絵師たちに影響を与えた。
皆こぞって彼女に憧れ、模写したほどだ。
しかし、どれだけトレース能力が高くとも、それは似ても似つかない。
御空藍にしか表現できない、唯一無二の世界だった。
だが、ここにきて、まるで彼女の生き写しのような画風を持つ浮夜絵師が現れたのだ。
それだけで――国家機密になり得る存在である。
(なんで公安は動画を削除しようとすらしなかったんだ?
一般的なデジタルタトゥーと違って、その気になればネットの無間地獄から完全に消すこともできるはずなのに。
絶対バレない自信でもあるのか? それとも、ほかに何か狙いが……)
怒涛の論説をはじめたかと思えば、突如、静止する緑光。
彼の真剣な眼差しに、クラスメイトたちは呆気にとられたまま――
やがて、徐々に正気を取り戻していく。
「……やっぱり緑色の人って、診断通り“不気味”だよね」




