15. 勿忘草色
勿忘草という姓、元・浮夜絵師で三十代前半であること以外、この男のことは何も知らない。
ショウが自ら質問していくタイプではないこともあるが、知り合って約五年、いまだ下の名前すらわからない。
毎晩、顔を合わせる度に矢継ぎ早に自分語りをはじめるが、蓋を開けてみると、情報量の割に“勿忘草”すら、偽名なんじゃないかと疑えるほど、肝心な素性は何ひとつ語られていない。
「でもねショウくん。落画鬼はちゃんと消さないと」
得体の知れない男だが、ひとつだけ確かなことがある。
さあ、お手並み拝見だ。
「……またすぐに復活しちゃうんだから。ここが一番、重要なポイントなのよ!」
男の声色は相変わらず親しみやすく響くが、さっきまでの冗談ばかりの態度は一変した。
凍てつく殺気を背中越しに感じ、ショウの身体は必然的に強張る。
(やっぱり、こいつは食えない)
いつだったか、男は「とっくの昔に筆はへし折った(引退した)」と勝手に語っていた。
しかし、彼がいかに強者であったかは、ショウの目が捉える間もなくすっかり綺麗になった路地が物語っている。
「それに下手に残しておくと、ショウくんの大嫌いなAI術士どもに横取りされちゃうよー」
もはや何事もなかったかのように、悪戯っぽく笑う怪人のような変容。
ショウは振り返らない。いや、正確には、振り返れない。
動揺を隠しきれないからだ。
この男には、どれだけ腹の内を隠しても無駄だろう。
それでも、力を剥奪されていないのは――
奴が、あるいはその背後にある“委員会”が、こちらの力を利用したいからだ。
なら、こっちも――行けるところまで行く。
ショウが真剣な眼差しを湛える一方、勿忘草は……。
「はー仕事した。私すごい。めっちゃえらい。
まさにオトナの鑑。そして顔もイイ!」
ショウの活躍に比べれば、別に大したことはしていない。
なのに、これでもかと自らを大絶賛している。
ショウは、呆れたように大きくため息をついた。
「やめてよ~。その『何言ってんだコイツ』みたいなクソデカため息ー!」
勿忘草は沈黙が嫌いなタイプなのか、ショウの挙動ひとつ見逃さない。
そして、即座に言い訳する。
「いやほら、この歳になるとさ、誰も褒めてくれないの。だからね、自分で自分を褒めてあげないとね!」
「あんたは、もっと怒られたほうがいい」
ショウの言葉に、上機嫌だった表情は一変。
「えっなんで!?」と、雷に打たれたように固まる。
ショウはその答えを置き去りにして歩き出す。
「ちょっと待って! もう遅いし、家まで送るよー!」
勿忘草は、渡された羽根を一瞥し、たちまち頬を緩ませる。
すぐに、遠ざかろうとするショウを追いかけた。
「必要ない」
ショウは冷たく言い放ち、元のサイズに戻っていたGペンを腰のホルスターから取り出す。
少し離れた場所で待機する、片翼の戦乙女に鋭いペン先を向けた。迷いはない。
いつの間にか、彼女の肉体も成人女性ほどの大きさになっていた。
割れた仮面の隙間からは、少女漫画の繊細な筆致で描かれた気高さと儚さが滲む。
その美貌には、どこか憂いが漂っていた。
“英雄画”という名を冠していながら、作者を守りきれなかったからだ。
ショウの命こそ奪われなかったが、本来、浮夜絵の失敗は、浮夜絵師の死に繋がる。
魅力のない絵が破り捨てられるように、役に立たない浮夜絵も、日の目を見ることなく処分されるのが道理だ。
憂き世を纏ったその絵は、静かに膝をつき頭を垂れる。
まるで処刑を待つ囚人のように、唇を噛んだ。
ショウは、流麗な手さばきで筆を揮う。
かの葛飾北斎も愛した深い青色が、星の紛れの宵にアラベスクを描いたと思いきや――アラベスクが光にほどけ、夜風に舞いながら片翼が甦る。
勿忘草の瞳に、その眩しすぎる青春の光が揺らめく。
「絵に情をかけすぎるのは、精神衛生上よろしくないと思うけど、ねえ?」
誰にともなく呟く。
ショウは、勢いのまま天に向かってGペンを突き刺した。
すると、破壊されたビルの壁が、砕け散ったガラスのように宙に舞う。
歪んだ空間が波紋のように震え、砕けた破片が逆再生されるかのように吸い寄せられていく。
折り畳まれるように捻れ、組み上がる構造体――やがて、すべてが寸分違わぬ本来の姿へと戻った。
「さすが、世界に影響を与えた天才漫画家の息子だよね」
泣く子も黙る美しい所作に、ふざけた調子の勿忘草すら感慨深げに眺め、賞賛の口笛を吹く。
「は? なんやマジで? ワシ許されてんや?(※勿忘草変換)」と、ぽかんと口を開けたままの浮夜絵。そんな彼女に、ショウは静かに手を伸ばす。
ペン先が仮面の欠けた部分をそっとなぞる。
まるで薄化粧を施すように、滑らかな線を引いていく。
途切れていた輪郭が静かに繋がり、浮夜絵は元の完璧な美しさを取り戻した。
仕上げを終えると、ショウは視線だけを流し、勿忘草を捉える。
「俺の浮夜絵に、変なキャラづけはやめろ」――そう言い返したい衝動を飲み込み、低く呟く。
「……俺は。そんなんじゃない」
ショウは相変わらず背を向けたままだったが、声には僅かに苛立ちと悲しみが滲んでいた。
勿忘草は、その表情を確かめようと声をかけかける。
だが、ショウのほうが一瞬早かった。浮夜絵に掴まり、言い放つ。
「言うまでもないが、ビルはあくまで応急処置だ。ちゃんと直すよう、上に伝えろ」
そして、颯と夜空に飛び込んだ。