10. ヒーローイメージ
“職場の地縛霊”こと社畜女は、スマホ越しに戦乙女の姿を凝視する。
「あれが浮夜絵師の……。青ウサギさんの、“英雄画”」
仕事柄、webデザインに明るい彼女は、思わずその専門用語を口走っていた。
(聞いたことがあるわ。浮夜絵師にも、それぞれ独自のスタイルと技法を持つ“英雄画風”があるって……)
人伝いに聞いた話を思い返しながら、少女漫画のような幻想美を纏うそれをスマホで追い続ける。
(……そのなかでも、“英雄画”は、浮夜絵師たちが落画鬼と戦う際に掲げる象徴的な武器だって)
一般的には、それらをまとめて“浮夜絵”と呼ぶため、マニア以外には耳慣れない単語だ。
社畜女も、浮夜絵師に詳しいわけではない。
ただ、webデザインを学びはじめた頃、“ヒーロー” という言葉を見つけたときの高揚感はいまでも忘れられない。
そんな魅力を感じた言葉が、浮夜絵師の世界にもあると知ったとき、不思議な親近感を覚えた。
だからこそ、ぼんやり聞いていたはずの話が、妙に印象に残っている。
社畜女は、はじめて見る“英雄画”に目を輝かせた。
その間も、青ウサギは落下し続ける。
勝利を確信した落画鬼の巨大な口が、ついにその小さな蒼光を飲み込まんとしていた。
無意識にニヤついていた社畜女も、さすがに不安を覚え、青ウサギと戦乙女を交互に見やる。
(助けないの……?)
戦乙女は猛スピードで青ウサギの後を追うが、タッチの差で落画鬼に喰われるほうが早い。
だが、青ウサギはまったく動じる気配がない。
「いや、間に合わない……!」
社畜女がぎゅっと目を瞑る。その刹那――
金属音が闇夜を裂いた。
思いがけない音に、女はすぐさま目を開けたのだが、すでに状況は一変。
落画鬼の牙は空を噛み、一閃の光とともに粉々に砕け散っていた。
戦乙女の槍が、浮夜絵師の存在を顧みることなく、巨大な口を断ち割っていたのである。
青ウサギは落画鬼の口に収まる寸前、飛び退く、と。
その行動を見越した一撃が、迷いなく振り抜かれていた。
信頼がなければ、この連携は成立しない。
飛び退いた青ウサギは、空中で流れるような月面宙返りを繰り出す。
旋回しながら身を翻し、自分よりひと回りもふた回りも大きな戦乙女の片手へと滑り込んだ。
青ウサギの無事を確認し、社畜女は大きく息を吐く。
まるで示し合わせたかのように、戦乙女も胸を撫で下ろした。
戦乙女は、青ウサギの温もりを確かめるように、その身を優しく抱え直す。
だが、すぐに鋭い視線を落画鬼へと向け、異変に気づいた。
「なにあれ。雲みたいになってる!」
社畜女は、スマホの画面をピンチアウトして拡大する。
黒い雲へと変貌した落画鬼が、画面のなかで不気味に揺らめいた。
これまで喰らったカラスの骨や羽根を幾重にも纏い、強固な壁を築いている。
その堅牢さは、月の光に煌めく鋭い切っ先を、容易く跳ね返す。
跳ね返された衝撃で、戦乙女は大きく後方へ押しやられた。
次の瞬間、ガトリング砲のような勢いで烏羽が飛び出し、青ウサギたちを正確に狙い撃つ。
近づいても鉄壁、離れても猛撃と難儀である。
「こわっ。あれ、兵器だわ……」
社畜女が息を呑む間に、無数の火花が散る。
戦乙女の槍が閃き、襲いくる烏羽を次々と弾き返す。
飛翔する刃のような羽根が、火花を散らしながら宙を舞った。
当たれば、ひとたまりもないだろう。
(いったい、どうしたらただのカラスの羽根があんなことになるわけ?)
これならまだ、地道に黒雲をつついて、いつかその鉄壁が崩れるのをお祈りするほうがイージーじゃないだろうか。
社畜女は、できることなら青ウサギたちにそう提案したかった。
だが、彼らの動きは彼女の想像を超えていた。
「え、待って。逃げる気……?」
間合いを広げる浮夜絵師と、凄まじい猛攻を浴びせる落画鬼。
社畜女がかざす画面に、もはや両者は収まりきらない。
(どっちを追ったら、より撮れ高がある?)
気づけば、そんなことを考えていた。
(ひょっとして私、動画配信の才能があるのでは……?)
そんな漠然とした思考を抱えつつ、青白い光を追い、画面を掲げる。
濡羽色の攻撃が絶え間なく放たれる。
狙いは青ウサギたち――彼らは月へと伸びるオフィスビル群を縫うように動く。
人と絵は阿吽の呼吸で、ビルが破壊されないよう、軌道を逸らしながら誘導していく。
それだけじゃない。
具現化された絵の精密さも目を引くが、生身の青ウサギの動きも異常だ。
跳ねる、翻る、駆け上がる――本物の兎さながらの身軽さで、高度を一気に上げていく。
その蒼く幻想的な光景は、戦闘中であることすら忘れさせるほど。
社畜女は見惚れ、ついスマホを落としかける。
はっと我に返る。拍子に視界へ入った落画鬼を見て、違和感を覚えた。
(……あれ? なんかしょぼくない?)
難攻不落の分厚い黒雲――そう思い込んでいたが、どうやら勘違いだったらしい。
「あ、そっか!」
社畜女は喜び交じりに声を上げ、心にあった嫌な誤解を吹き飛ばした。
「あの落画鬼、本体は落書きだけど、カラスを使った攻防は実物なんだわ」
つまり、カラスの残骸にも限りがある。
距離を取れば、落画鬼の武装は剥がれていく。
「そういう作戦なんだ……!」
青ウサギたちは、ただ逃げているわけじゃない。
それがわかっただけで、今夜はおいしく味噌汁が飲めそうだ。
(インスタントだけど……)