表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【初恋の人】

作者: 西山鷹志

今の私は、ぼつぼつ定年を視野に入れながら老後の事について考えるようになり、

子供達も独立した今、定年後は沖縄か故郷で第二の人生を送りたいと考え始めていた。

 そんな時、中学、高校時代とも一緒だった友から同窓会の招待状届いた。仕事に追わ

れて5年ごとに開かれていた同窓会を40年間すべて欠席していたが、今回はなんとし

ても出席したい気持ちが強く出席に○を付けて返信ハガキを出した。


 あれから40年の月日が流れただろうか、今でも皆の笑え声が聞こえてくるようだ。

 充実した高校生活も卒業式を迎えて、クラス仲間は皆それぞれの道へ進んで行く。

 進学する者、就職する者、都会に出る者、私はその都会に出る者の一人となった。

 だが皆とは少し事情が違う。自分の意思とは関係なく都会に行かなくてはならない。

 父の仕事の関係で、高校卒業と同時に故郷を離れ東京に行くことになり、私がいかに

反対しようとも、親が居なくては自立も出来ない十八才の身の上では逆らう術がない。

 私には同じクラスに恋人がいた。東京に旅立ちの前夜、私と留美は話し合った。駅か

ら歩いて10分程の所にある海岸前の公園で、夜遅くまで語りあった。波の音が今夜ば

かりは悲しい泣き声に聞こえる。まるで別れのセレナーデを唄っているようだ。離れて

いても心は一緒だ。そう確かに二人は誓いあった筈だった。


 二人は互いに初恋であり、ずっと田舎で一緒に居られると思っていたのに、親の都合

で引き離される運命に悩み苦しんだ。別れの朝、私は列車のデッキに立っていた。黒く

長い髪に、少し大きめな眼の留美は涙をいっぱいに溜めて、それでも無理に作った笑顔

がいじらしく、つい私も貰い泣きしてしまった。発車のベルが鳴り私は留美の手を握る

と留美の手は小刻みに震えていた。列車はゆっくりと動き出すと二人の手は離れ、列車

は少しずつ速度を上げて行く。私は窓から手を振ると留美は手を振りながら、長い黒髪

をなびかせてホームを走り出した。留美はホームの端まで懸命に走っていたが、やがて

留美の姿は見えなくなった。身が引き裂かれるような本当に辛い別れだった。 

 そんな苦い青春の一ページが今になって甦ってくる。

 私はいつになく自分のデスクの前にある部長の椅子に座り、そんな事を思い浮かべていた。


 当時を思えば故郷の事なんか考える余裕もなかった。故郷を離れて1年後、私が十九才

の時に、父は病で倒れあっさりとこの世を去った。留美との文通もそれを境に殆んど

返事も書くことが出来なくなり、それどころか家計が一転して苦しくなり、故郷や留美

を思い出し感傷に浸っていられなくなり、残されたのは私と三才年下の妹と母。大黒柱

を失った家計は私が支えなくてはならない。母に大学を辞めて働くと言ったのだが母は

折角入った大学を中途退学したら、お父さんが悲しむから大学だけは卒業しなさいと、

母が勧めた。そんな母に甘えてはいられなく、学校に通いながら私と妹もアルバイトを

して、なんとか無事に大学は卒業する事が出来たが、気がついた時には留美との交際も

終わっていた。儚い初恋は完全に散ってしまった。


 時は経済成長期で、私は条件の良い一流の会社に入る事が出来たが、それから数年後、

妹も無事に大学を卒業した頃、私は若くして職場結婚をした。それも年老いた母の為に

母の面倒を看てくれる嫁さんが必要だったからだ。大恋愛とは行かないが成り行きの

ような結婚だった。だが平凡であるが幸せな家庭を築くことが出来た。就職、結婚、昇進

そして子供が生まれ気がついたら母は他界、妹も結婚して子供がいる。母が他界したほかは

特に良い事も悪い事もなく、大した刺激もなく平凡な日々が過ぎて行った。

 妻も優しく子供達も、これといった問題もなく育ってくれた。そして五十が過ぎた頃、

やっと部長までになったが、それ以上の出世は遠く、それどころか最近は第一線からも外

れ名前だけの役職で会社に居る。それが現在の私である。


 これも時代の流れだろうか、物心がついた頃はもう戦後じゃないとか、そんな言葉が

良く聞かれ、そして東京オリンピックに湧き、高速道路、新幹線などが次々と出来て、

まさに日本は経済成長の波に乗って、私たち家族にもその恩恵を受けることが出来た。

幼い頃はテレビや車を買うなんて夢の夢だった。それが簡単に手に入る時代になり、

我々の時代が日本の経済を支えたのだと誇りもあったが、いつのまにか団塊の世代と

呼ばれ、それが定年を迎えようとしている。

 やがて老齢化と進み、我々の世代が日本経済を支えたという誇りよりも、年金で足

を引っ張る世代へ追いやられようとしている。そして会社でも窓際状態の日々を送り、

流石に第一線を退いたサラリーマンの虚しさを感じていた。最近では仕事の事よりも、

自分のこれからの事ばかり考えるようになっても、当然の成り行きだろう。


 職場では電話番と書類にハンを押す以外に仕事がないような有様では、ついそんな事

を考えてしまう。机の引き出しから、また同窓会の招待状を取り出し、少年の頃を思い

浮かべた。生きて行くに精一杯で留美を思い出す事さえ忘れていたのだ。今更それがど

うしたという訳じゃないが、あの頃の淡い恋が新鮮に浮かび上がった。

 今までなら有給休暇なんて申請も出来なかった。またそれだけ必要とされていた自負

もあったから、休暇を取ろうなどと考えもしなかった。しかし今では必要とされない寂

しさがある。それも時代の流れか老兵は消え去るのみかも知れない。長期休暇届もすん

なり認められ嬉しくもあり、戦力外を通告されたような寂しさが入り混じった。


 「良子、悪いが久し振りに田舎に行ってくるよ。やっと同窓会に行く時間が取れたか

ら、確か君は娘の所に行くと行っていたよね」

 「ああ、そう……貴方には故郷があったのね。久し振りじゃなく初めてでしょう。ど

うぞゆっくり行ってらっしゃいな。私は智子がどうしても来て欲しいと言うものだから、

結婚してもまだ甘えるんだから困った子だわ」

 そう言いながらも嬉しそうだ。そんな笑顔を私にも向けくれたらと僻みたくもなる。

 結婚して三十年数年ともなれば余程の事でもない限り、妻は同行する事もなくなった。

 それが気にならない自分も妻をどうこう言える立場じゃないが、良く言われる言葉に、

夫婦は空気のようなもの。そうかも知れない。あって当たり前で気に留める事もないが、

互いに存在感すらなく。しかし空気が無くては生きて行けない不可欠なものだと。


 翌日、私は新幹線の車中にいた。四十年前は列車に揺られて十時間以上もかかった

ものが、今では三時間で故郷へ着いてしまう。当時は駅弁を列車の側に売りに来た。

 列車の窓を開けて慌てて駅弁とお茶を買う。今ではそんな情緒もなく、あっと言う間に

盛岡駅に到着した。そこからローカル電車で四十分、私は四十年ぶりにいま故郷の駅に

一人で降り立った。

 目の前には東北特有の潮のせいか、少し黒ずんだ色の海が広がり、海鳥の群れが独特

の鳴き声を放ち私を出迎えてくれた。ホームから改札口に向かったが誰もいない。当時

は駅員も居て売店もあったが、今は無人駅となりひっそりとしていた。小さな駅はまる

で小屋のようだ。駅前もすっかり変わって、昔の賑やかさがまるでなく時代から取り残

され寂れた町に変わっている様子が少し悲しくもあった。

 駅前のロータリーにはタクシーが二台停まっていた。客がいないのか運転手は新聞を

片手に欠伸をしている姿が眼にとまった。


 そんな故郷の景色を眺めていると、同窓会発起人である村上正春がクラクションを鳴

らした。やがて車から降りて手を振っている。私も軽く手をあげた。手を振っているか

ら多分、正春だろうと思ったからで顔を思いだせないが。

 「真人か? 久し振りだなぁ正春だよ。分かるか?」

 四十年ぶりに見る村上正春は、頭が薄くなり残りの髪の毛も半分が白髪になっており、

名前を言われないと分からないくらい変わっていた。自分だって似たようなものだ。白

髪が増えて、額の皺が年輪を表していた。

 「え! 正春なのか? 久し振りなんてもんじゃない四十年ぶりか」

 正春とは家も近く幼馴染だった。子供の頃は良く遊んだし喧嘩もした。でも翌日はま

た同じように遊んだ仲だ。でも今では年賀を交換する程度だが。

 正春に東京を出る前に頼んでおいた事がある。私が生まれ育った場所まで車で連れて

行って貰う事だった。駅から車で15分程度だが、昔はバスが駅まで出ていたが廃止され

たそうだ。その生まれ育った場所に着いた。そこは空き地になっており草がボウボウと

生えていた。昔の面影も何も残っていない。私は黙ってそこに15分ほど佇んでいた。

父と母と妹。そこで暮らしていたのに無性に虚しさを覚える。

 せめて昔の家でも残って居れば、あの頃の事を思い出せたものを。その近所を歩く人達

も見覚えがない人ばかり、もう私は此処では浦島太郎でしかないのだろうか。

 虚しさに思わず苦笑いをして、正春の車に乗り込んだ。

 「せっかく故郷に帰って来たのに、実家がないものは寂しいものだな……」

 「ああ、親父の都合で俺の人生も随分と変わったな。まあこれも人生さ」


 そして同窓会が翌日、寂れた駅の前にある同級生が経営する民宿で開かれた。男性は

27~8人、女性は10人足らずか。みんな爺さんと婆さんだ。ほとんどが孫も居るだ

ろうか。しかし此処にみんな集まれば、青春が蘇りあの頃に帰った気分になれる。

半分以上は同じ高校に通った同級生だ。女性は特におめかしをしたのか、高い着物や

洋服に包まれて見るからに誰も裕福そうに見えるが、それも精一杯の見栄だろうか。

 出来るならば同窓会では、見栄も着るものだけで飾らずに話したいものだ。 

 私がその大広間に入って行くと皆がジロジロと見ている。誰も気づいていないのか?

 自分でも彼等の顔を見たが、まったく誰が誰だかさっぱり分からない。 

 中には中学時代から四十三年も会ってない同級生も居る。特に私は故郷に帰っていな

いから、ジロジロ見るだけで私と気づく者が居ないようだ。

 テーブルに並べられた料理は豪華だ。海辺の町だから魚は新鮮なものばかりだ。

 忘れていた故郷の味を四十年ぶりに味わえる。それもひとつの楽しみだ。

 此処でも私は竜宮城から帰って来た浦島太郎のような気分だ。その辺は発起人の

村上正春は心得ていて、挨拶したあと早速、順番に自己紹介をするように勧めた。


 手元には中学時代の名簿が渡され、現住所と電話番号と旧姓が書かれてある。

 しかし中には亡くなった者も居て、享年何才と書かれてある。年月の長さを感じた。

 私がその名簿を走り読みいると、自分の自己紹介の番が廻って来た。

 「みんな! 本当に久し振り。森田真人、元気に故郷へ帰って参りましたぁ。覚えて

いるかい。四十年ぶりですが、よろしく!」

 私は少年に戻った時のように、大きな声を張り上げて自己紹介をした。

 お~と一斉に歓声があがった。どうやら名前だけは覚えていてくれたらしい。

 「よう真人! お前か誰か分かんなかったよ。元気そうじゃないか」 

 そんな声が数人からあがった。この年になって、お前と呼ばれるのは何年ぶりだろう。

 それも不思議と嬉しいものだ。此処には上下関係は存在しない。みんな同じ立場で遠慮

なく話せるし敬語も要らない。


 私は嬉しかった。故郷を捨てた自分が同級生達に忘れられていなかったようだ。

それから、それぞれ気の合った者同士が輪になり、酒を注ぎ交わし昔話に花を咲かせた。

名簿と名前を見合わせて、少しずつ昔の記憶と顔の面影が噛み合って行く。

(ああ同窓会っていいものだなぁ)少年時代に戻った気分だ。

 そんな中で気になることがあった。そうだ。花岡留美はこの会場に居るのだろうか。

 確か女の子が二人居ると聞いた事がある。それを察したかのように誰かが言った。

 「真人と留美は仲が良かったな。俺たちはみんな、お前達は将来結婚すると思って

いたんだ。お前が東京に行ってから留美の奴、可哀想なくらい落ち込んでいたんだぜ」

 「え!! 本当かよ。彼女とは駅で別れてから四十年間、いや正確には39年間音信

不通なのだが、一年少しの文通も家族の都合で怠るようになって……」

 「真人、お前も冷たい奴だなぁ。控えめな留美の心が分からなかったのか。彼女は、

お前が東京に出てから、時々駅のホームを眺めていたんだ。どれだけお前に心を寄せ

ていたのか、健気な留美は最近手紙の返事がこないと寂しがっていたんだ。自分から催

促の手紙も書けず、お前からの連絡を待っていたんだぞ」

 「そうか……俺も東京に出て間もなく、親父が亡くなって必死でバイトと学校に通う

毎日で、言い訳がましいが美人の留美なら男達はほって置くわけがないと諦めたんだ」

 「馬鹿だなぁお前も、留美は純粋で一途なところが分からなかったのか?」


 私はまさかと思った。確かに初恋の人だった。私達は誓いあった筈だった。あの海辺

の公園で、留美は信じていたのだ。私だってあの時は同じ思いだったはずだ。東京に出

て自分の事ばかり考えて、勝手に決め込んでいただけなのか。美人で心の優しい留美な

ら誰もがほって置く訳がないと勝手に諦めていた。それに父が亡くなり故郷を偲ぶ余裕

もなかった。いま留美の本当の心を聞いて、今更ながらショックを受けた。

 「真人、せめて昔の恋人として、留美の為に線香くらいあげてやれよ」

 「え!? どう云うことだ!! まさか留美が死んだと言うのか??」

 「ああ、知らなかったのか? 半年前にな。旦那も三年前に亡くなり今は娘が二人、

雑貨屋の後を継いでいるよ。これがまた留美にそっくりの美人姉妹でなぁ」

 「そうか…………そうだったのか」

 私は二重のショックだった。初恋が実るのは難しいと云うけれど、せめて生きていて

欲しかった。もちろん今更どうこう言える立場じゃないが、青春の日々を語り合いたか

った。それだけで十分満足出来たものを、それが初恋の人はもうこの世には居ない。

急に目頭が熱くなった。せっかくの同窓会を懐かしむよりも、留美の事で頭がいっぱ

いになり、つい酒を飲むピッチがあがり酔いつぶれてそのまま、この民宿に泊まった。

 私は翌日、同級生から聞いて彼女の住んでいた雑貨屋を訪ねる事にした。彼女の嫁ぎ

先は駅から歩いて十五分程度行った所で海添えの道端にあった。


 この場所は確か留美と何度も来た場所だ。あの大きな岩も変わっていない。海岸がよ

く見渡せる公園があった。そのベンチに座っていろんな事を語り合った。それが今、走

馬灯のように蘇ってくる。当時木製だったベンチはプラスチック製に変わっているが、

同じ場所にある。私はそこ座った。いつも留美は私の左側に座っていた。そして左を見

る。いる筈もない留美に思わず語りかけた。留美……私達は此処で誓いあった筈だ。

 離れて居ても心は一緒だと。私は理由はともあれ留美を裏切った。信じていた留美の心

を踏み躙った。謝ろうにもその留美が死んだ……。

留美の返事の代わりに、さざ波だけがザァーザァーと聞こえてくるだけ。

 そこに暫く佇んでから気持ちの整理がついた処で、私は夕方に雑貨屋を訪ねると、

留美の面影が残った娘が店先に出て来た。細身の体でスラリとした美形だ。

 田舎の雑貨屋でこじんまりしているが、生活用品から食品まで揃っている。ちょっと

したスーパーのようになっていた。

 「いらっしゃいませ!」

 「こんにちは、申し訳ないが客じゃないんだ。貴女はこちらの娘さん?」

 「ハイ……娘の美鈴ですが?」

 「私はね、貴女のお母さんの同級生だった森田真人と申します。昨日、同窓会があり

まして、その時に留美さんが亡くなったと聞きました。せめてお線香を上げさせて貰い

たくて尋ねて参りました」

 「…………え? もしかして真人おじさんですか?……母の初恋の人でしょ」

 「ええまぁ……何故そんな事まで知っているのですか?」


 まさか娘に留美が私の事を伝えたのか。なんかバツの悪さを感じたが招かれざる客

どころか、喜んで中に入れてくれた。田舎の店は閉まるのが早い、美鈴は店を閉めて

母と父の仏壇の前に招き入れてくれた。

 「御両親が亡くなって寂しいでしょうね」

 「寂しくないと言えば嘘になりますが、妹も居ますし。来年には二人とも結婚するん

です。だから気になさらないで下さい。妹も間もなく仕事から帰って来ますから」

 俺は仏壇に飾られた写真を見た。五十過ぎた時の写真だろうか、年のわりには若く昔

の面影が残っていた。留美も今の私の姿を見たら百年の恋も、いっぺんに冷めるだろう

なと思った。そして合わせる顔もないような自分を責めた。私は位牌と写真を暫く眺め

てから線香をあげた。写真から読み取る表情は、幸せを物語っていた。いい人生を送れ

た事に私は他人ごとながらホッとした。留美が幸せなら互いに少しは救われる。

 そんな時、妹の美幸が帰って来た。確かに留美に似てこちらも美人だ。

 その美幸は軽く頭を下げて微笑んだが、意味が分からず姉の美鈴を振り返る。

 美鈴は妹に説明していた。私はなんか恥ずかしい気分がした。やはり美幸も聞かされ

ていたのか、パッと表情が明るくなった。留美は私のことを子供達に、どんな風に伝え

ていたのだろうか。怨みごとを言われても仕方がない立場だが。


 お茶を出したあと、美鈴が和室の箪笥から何かを持って来た。

 「おじさん、これを見てください。母は父に内緒で私たち姉妹にそっと見せてくれた

んですよ。大事な青春の宝だと言ってね」

 それは私と留美が二人並んで得意気にVサインをしている写真と、私が留美にプレゼ

ントした。安物のブローチだった。

 それを大事に持っていてくれたのだ。なんと健気な女性だったのだろうか……。

 「母は真人おじさんの事が忘れられなかったの。私達が中学の時に知らされて最初は

父への裏切り行為と恨んだりもしたわ。でも母は父に一生懸命に尽くしてくれました。

想い出だけならいいでしょうと、笑った母が今になって私達姉妹も母の女心が分かるよ

うな気がするのよ。真人おじさんが来てくれて母はきっと喜んで居てくれると思います」


 「それは大変有り難いが、あなた達に悪いような申し訳ないよう気分ですよ」

 「いいえ、母は言っていました。夫は勿論大好きよ。でも青春の想い出を夫は作って

くれないもの。私があなた達に話したのは、女なら一生に一度、最高に素晴らしい、そん

な恋をして欲しいからよと」

 それに付け加えるように美幸が言った。

 「そうなんです。青春の恋は真人おじさんで、最後の恋は父だと。だから私は幸せで

すと。私も母を見習って良い想い出を抱いて結婚出来ます」

 「そうですか。ありがとう御座います。良いお母さんでしたね。私もあなた達のお母

さんに、初恋の人と呼ばれた事を、誇りに思っています」


 翌日の朝、私はその無人駅に立っていた。同窓生達には私に気を使わないで、仕事に

行ってくれてと伝えてあった。別れるのも辛いからとも付け加えて。

 四十年ぶりの故郷を、私は本当に来て良かったと思っている。まだ私には故郷があり、

友人が居ることを嬉しく思う。同窓会で撮った記念写真を胸ポケットから取り出して先

日のことを思い浮かべ、皆と年をとったが心は青春の気分が味わえた。次も来よう、そ

の時は退職して年金生活を送っているかも知れないが、妻も連れて私の故郷を自慢して

あげたい。その時は感傷的になる事もないだろうから、また青春を楽しもう。

写真を眺めていると、美鈴と美幸がホームに来てくれた。見送りに来てくれたようだ。


 その二人が私に是非見て貰いたいものがあるそうだ。そして駅のホーム側にある柱を

指差した。そこに一体なにがあるのだろうか。

 「言い忘れていました。真人おじさん、これを見て下さい」

 二人は私の手を引いて、その古い柱に刻まれた文字を見せた。

 小屋のような小さな駅だが、海岸が近い為に風も強く頑丈に作られている。戦時中か

らある古い建物だ。その古い柱を見ると、かなり薄くなっているがハッキリと読めた。

 マサト・ルミ。愛々傘のマークの下に刻まれた文字だった。

 私が東京に行く数日前に、確か二人で刻んだ文字が微かに残っていた。私は思わず、

その文字に触れて不覚にも涙が毀れ落ち、跪いてしまった。そんな無様な姿を、亡き留

美の娘たちはどう思うのだろうか、一瞬頭をかすめたが。でも自分の感情が抑えきれずに

肩を震わせて、私は泣き崩れ嗚咽を漏らしてしまった。


 美鈴と美幸は何も言わず黙っていたが、二人とも涙ぐんでいる。

 「ありがとう。真人おじさん……母の為に涙を流してくれて。きっと天国で母も号泣

していると思います。二人は本物の恋だったのですね。感動しました」

 やがて二両編成の列車が入って来た。私は二人と握手を交わして、お母さんのように

幸せな人生を送ってくださいと、別れの言葉を告げた。列車が静かに動き出した。

 あの四十年前のシーンが甦る。あの時は留美だった。そして今その娘達に送られている。

 沢山の想い出の詰まった故郷とお別れだ。また東京に帰ればいつもと変わらない生活が

待っている。初恋の想い出は私と、この娘達の心に閉まっておこう。

 青春の全てが詰まった故郷よ、さようなら。そして初恋の人よ、さようなら。

 少しずつ駅が姉妹が遠ざかって行く。四十年前の青春の想い出を残して。

 「さようなら故郷。そして留美、青春を初恋をありがとう」                                                                                      


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] すべての描写が美しくまとまっていて、大変読みやすい作品でした。積み上げたものと失ったもの、そういった描写がしっかりと描かれていたため、最後の涙に共感できました。 [気になる点] まれに脱字…
2010/01/21 02:50 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ