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海辺の電波塔は白昼夢をたいらげて

作者: 仁志ちひろ

 深夜番組も全て終わった。テスト信号の耳障りな音が鳴り始めたのでテレビを切り、テーブルの上のラジオのスイッチを入れた。すぐにザーッという雑音が鳴りはじめ、やがて陶酔とでもいうべき快楽に包まれるのを感じながら、僕はソファの上で仰向けになった。


 子供の頃、僕の母親を含む一部の教育ママなどのあいだでは、テレビが子供を阿呆にするというので悪鬼のごとく攻撃されていたことがあった。垂れ流しに情報が入ってくるだけで自分で考えることをしなくなるから、というのがその主たる理由であったように記憶しているが、子供ながらにまるで納得のいかない思いをしたことを覚えている。ラジオをつけてわざとチューニングをどの局でもないところに合わせて、ただザーッという雑音を流すという妙なくせがついたのはその頃からだった。テレビが見られない反動で、最初はまともに歌番組やDJの話し声に耳を傾けていたのだが、何かのきっかけで、僕は歌声や話し声よりも周波数の合っていないことを示すノイズに心を惹かれるようになってしまったのだ。親や兄弟から苦情がくるので、そうするとイヤホンを繋いでその雑音を流したまま、何時間でもそうやってその雑音に聴き入っていた。最初は僕とてそれを楽しんでいたわけではなかった。ただ有益なことのみを強要してくる親に対してのささやかな反抗の一つに過ぎなかったのだ。それに子供ながらに、ただノイズに聴き入るなんてのは誰の目にも狂ったように写ることぐらいは自覚していたので、それで親に反省を促そうという儚い願いもあったのだ。人並みにテレビなどの娯楽を与えてやらないと子供ってのはおかしくなってしまう、と親が自らの誤った教育方針を撤回することを僕は望んでいたのだ。その計算に乗っ取って、一日二日と僕の理性的な反抗は続けられた。つまりラジオのノイズに耳を傾け続けた。世の中にある無意味なことといってこれほど無意味なこともそうないだろうと、最初は僕もそう思っていたが、しばらくの後、それが案外そうでもないということに僕は気がついてしまった。


 チューニングの合っていないラジオのノイズに何時間も耳を傾けたことがありますか? 一日中街頭でそうインタビューしてみたところで、YESという答えが返ってくることはないだろう。だから僕がこれからお話することはある程度聴く価値のあるものだと、僕は思う。昆虫のことなど何も知らないビジネスマンが昆虫博士の話にある程度の興味は示すものだろうと想像するのと同じ程度にそう思うのだ。自分一人だけの密かな愉しみ、というものをぼんやりと夢想することくらいは誰でもあるだろう。だけどそれでラジオのノイズに聞き耳を立ててみるなんて人はいない。あまりに無意味なので、そもそもの始めからそんなものは楽しみというもののリストには入らない。それどころか、それはどんなリストからも漏れ落ちる。実に想像上の樹木の枝になる架空の果実みたいなものなのだ。僕がその果実を味わったのは先に書いたように、子供時代の反抗心がもたらしたまったくの偶然にすぎないのだが、それから二十年が過ぎた今でも僕と同じ経験をしている人はいなさそうだというので、ちょっと書いてみたくなったのだ。

真夜中にラジオのノイズに耳を澄ませるなんてずいぶん暇な奴だとか、あるいはこの慌しい世の中をことを鑑みて、その行為自体を贅沢とすら思う人もあるだろうが、御心配なく、僕だってもうじき君らの仲間入りを果たすのだ。僕は父が死んだ時の遺産の分け前を先にもらって生活していて、それもあと三ヶ月と少しで底をついてしまう。そうすればいやがおうでも社会に出て働く以外にしょうがない。僕が現実社会に出てもまだこのノイズに耳を澄ましていればあっぱれだし、そうでなくなったところで、この話の価値が損なわれるというものでもない。今のところ僕は1+1が2だということを疑わない反面、このような話を大真面目に話すこともできる。だけど世間にもまれる内に、この僕もノイズの中に何かを見出すようなことはなくならないとも言い切れない。だからそうならないうちに書き記しておこうと思う。川底の砂利の中に砂金を見つけ、神話の中に歴史的事実を見出す考古学者みたいな気分で。


 微かな酔いの中で僕はソファに横たわって、テーブルの上のラジオのノイズに耳を澄ませる。最初それは微かに空気を振動させているただのノイズにすぎない。それでもそのノイズに耳をそばだて、やがて自分の穏やかな呼吸とそのノイズが少しずつ交わるような感覚を覚えはじめ、ノイズにもわずかながら強弱や起伏のあることが分かってくる。三味線のさわりから派生する噪音のように、濁った中にも何か心にひっかかってくるものがある。いったんそれに気づくとすでに扉は一つ開かれたも同然で、ノイズはただのノイズではなく、ノイズというものが一つの音楽と化す。それに寄り添うように耳をそばだてていると、じきに自分の心のほうがぐんにゃりと変形するような感覚があり、そんな感覚の中で、僕はまるで耳だけ経文を書き忘れられた耳なし芳一みたいに、自分の耳だけがソファに寝ころがっている様を想像してしまう。こうなるとラジオのノイズが変容を遂げたのか、自分の感覚が研ぎ澄まされた挙句に常とは異なる次元へと広がってしまったのか分からないようでもあるが、おそらく相互作用の結果、それが立ち起こるのに違いない。ザーッという無味乾燥な音の洪水の中にチラチラと光るものが混じり出す。天の川の中を光速で飛び泳いでいるような感覚で、そのチラチラを手の平で感じ、それが額をまさぐるのを感じ、それを鼻腔で吸収し、鼓膜で味わう。漆黒の空を飛んでいるような、素っ裸で蟻地獄の穴に飲まれていくような、そんな感覚がしばらく続く。それは一種の快楽と表現してもそう間違ってはいないように思われるけれど、ほかの諸々の快楽と単純に比較するわけにはいかない。音を聴くという耳の快楽、セックスという行為する快楽、食するという必要とあいまった快楽、色々とある。快楽を味わっているのはむろん自分であって、自分という主体のない快楽はあり得ない。あるとすればそれは自分のものではない。だけどこのノイズの蟻地獄に巻き込まれて堕ちて行く快楽の特異な点は、そうした矛盾を予め含んだ上で成立していることにある。僕は行為しないままそれに混じりあい、好悪の感情のないまま陶酔し、到達点などはじめからない落下あるいは飛行を、眠りの自然さで味わっているのだ。それはいってしまえば、眠れない夜に羊を数えるという行為に少し似ているかもしれない。無心で、終わりなく、一匹、二匹と果てしなく闇から現れる羊を数え上げるあの行為は、他の快楽的な諸々よりは、まだ共通点があるように思える。ただしここで闇の中から現れる羊は笑っていたり、狂喜したり、ぶつぶつ言ったり、恋をしていたり、暴力魔だったりして、要するにちっとも羊らしくはない。むろん最初から羊ではないのだが、それは人形だったり、モノであったり、人間であったり、実態のない思考そのものであったりして、とりとめがない、歯止めがない。それで一口に全部羊だと言ってしまいたい気分でこんな考えが浮かんできたりもするのだが、僕がどう考えたところでそれは羊でもあり、羊ではないのだ。そこからどんな驚きや失望や恐怖を僕が味わうか、それらがごった煮となって一つの快楽にまで昇華されるか、それはこうして語っていくうちにおいおい明らかになるだろう。主体のない快楽という矛盾的言語が、悪戯に混乱させるためにでっち上げられた安易な言葉じゃないということも、少しは明らかになるだろう。


 シルクハットをかぶった紳士が僕を瓶に入れて、ガス灯の灯る路地を辿っている。いや、正しくは紳士ではなく紳士的ということであって、彼のふるまいは実に紳士的だったが、その顔は怪物じみていた。彼の崩れた顔面をほんの一瞬闇の中で見て、それ以降は見ないようにしているので、怪物的という大雑把な印象だけが脳裏に留まっている。だけどすぐにそんなことも忘れて、僕は半透明の瓶の硝子ごしに心浮かせて、ゆっくりと移ろう外界の風景を覗き見ていた。たぶん夜明け前。誰かとのロマンティックな出会いを想像させるような薄暗い紫の空。むろんこれはすでに蟻地獄の陶酔のあとに迷い込んだ、ノイズに包まれた知覚の世界である。「十九世紀だよ」男が唯一口にした言葉はそれだけだ。そして僕が頼んで連れて来てもらったのか、僕はさらわれたのか、そう頭を悩ませていたら「君が望もうと望むまいと」と言って、結局その二言が男の語った全てだった。僕が知っている世界と知らない世界の狭間が十九世紀という言葉に込められているのだと、僕は勝手に認識していて、それならばよく見ておこうと、小学校に入学したばかりの子供みたいに好奇心を漲らせ、半透明の世界を観察した。これから人間を丸ごとのみこむ巨大な機械が発明され、世界が大量生産という魔物に魅入られ、突如脱線しては長い戦争に浸りきり、疲れ果てたところで虚無的な平和を満喫することに没頭する、そうした長い長い、希望と徒労に満ちた話が始まるのだと思っていたが、まだ薄暗い空の下に広がる灰色の街はいっこう眠り続けたままだ。男は紳士的な身なりに無口なわりに、素行はあまり行儀のいい方ではないらしく、歩いているあいだ僕は瓶のあちこちに頭をぶっつけっぱなしだった。だけどありがたいことにしばらくして男は立ち止まり、瓶を草っ原の上に置くと煙草に火をつけて一服を始めた。ようやく静止した世界で、僕は半年ぶりに陸地に上がった船乗りのような気分で眠たげな世界を見つめた。「ここは十九世紀なんだよね? これが十九世紀なんだね?」と言ったのだが返事がないので、僕は頭上を仰ぎ見た。ついで周りを見渡した。男の姿は何処にもなくて、僕は瓶ごと草っ原の上に捨てられたのだと悟った。時折り千枚もの枯葉が擦りあわされるような不快な音が、空のずうっと上のほうから聴こえた。その音から僕はあのラジオのノイズを連想し、自分の意思でノイズにのってここに来ていることを思い出した。意識は急激に安定を取り戻しはじめた。自殺の方法を始めて知ったような気分で、いつでも僕は元いた場所に戻ることができるんだという心の余裕を感じ、それまでよりもゆったりとした気分で、薄紫の空の下に連なる三角屋根の家並みを眺めていた。一軒の家の屋根の上にボッと焔が上がった。瞬きをするまにそれは隣家へと移っていき、山脈のように連なる屋根は見る間に美しい焔に呑まれていった。音のない空襲が瞬きのあいだに行われたのだと思った。するとこれは当分のところ終わらずに拡大を続けるに違いない。少なくともそれが美しいなんて思えないくらいに、反吐がでるくらいにうんざりとするまで、それは続くのに違いなかった。


 ノイズなんてものは本来否定されて然るべきものである。それは明朗な会話や情報の狭間にある、混沌以下のものだ。意図した音声の狭間を漂う副産物に過ぎない。僕のラジオにはチューニングを合わせるためのオート機能がある。意識を取り戻した僕は、音楽か、あるいはまともな人のしゃべり声でも聴きたい気分でそのボタンを押したのだが、大都会の真っ只中にある僕の家の中で、それは一本の煙草を吸い終えてもまだどこの局にも行き着かず、局と局の狭間を飛び回りながら、ノイズを放射し続けていた。


 あたしは誰のものでもないし、ただただ見られる存在で、あたしを束の間見ていく大勢の人よりも、忘れられたように突っ立って、誰もいない歩道を照らしている外灯に、より近い存在。それに大勢の人があたしを見ていくのは、確かに一見したところそんなふうにも見えるけど、実際はあたしに被せられた洋服にその視線は注がれているだけで、それを見て彼らは想像の中でその洋服を愛しい誰かに着せている。その甘美な想像を助けるためだけの存在。

金曜の夜、道行く人の半数が酩酊してまっすぐに歩かないような夜更けの時間、灯りも落とされた暗いスペースに佇むあたしにじっと視線を注ぐ男の人がいた。中年の男性で、みずぼらしいという一言で済ましてしまいたいような、そんな風貌。その人がウィンドウ越しにあたしの全身を食い入るように見つめるので、あたしはいったい何を着せられていたのかしらと、思わず考えた。それは二週間前からずつと着ている世界的な有名ブランドの春物のワンピースだった。そしてまだ誰もそれを買っていった人はいなかったので、これははずれなのだと思っていたのに、その男の人は飽きずにそんなあたしの全身を眺めて、しまいには煙草まで取り出して、ゆっくりとそれを味わいながらあたしを見ていた。あたしの胸は奇妙に生きだした。あたしはこうして人の注目を惹くためにあるのにも関わらず、生まれてこのかたそれに慣れるということがなかった。人が見向きもせずに通り過ぎていくたびにほっと息をついていた。見られている時は得意げなポーズと微笑みは絶やさぬまま、ただ無心になってそれをやり過ごした。煙草の煙をくゆらしながら尚もじっとあたしに、正確にはあたしの着ている洋服に視線を凝らす男の人を、それと同じくらいの熱心さであたしは見返し、観察した。日本人だろうけど、異質を感じさせる骨格や皮膚の色に、二代、あるいは三代ほど前の祖先が、中東辺りの国で恋に狂った様を想像した。彼は煙草を携帯灰皿にもみ消すとポケットから財布を取り出して開き、ほんの一瞥をそれに与えて溜息をつくとすぐにしまいこんだ。その瞬間にあたしは彼が愛しくなった。


 僕はふと自分の笑った声で我に返った。マネキンのくせにと思うとおかしくなって笑ったが、鳴りっぱなしのノイズはいとも簡単に、再び僕を奇妙な恋の現場に引き戻していた。


 ショーウィンドウにはマネキンとして存ることに違和感を覚えることもなく、淡々とその職務をこなす二体のマネキンが立っていて、その間に不自然な空間が生まれていた。真ん中のマネキンがなくなっていて、ふと右手にあるショップの入口を見ると、まさにそのマネキンがいそいそと店を出て行くところだった。


――あなたは消えて

――場違いな


 という声は彼女の発したものか、僕の潜在意識が発したのか、その声が聴こえたと思った時には、僕は再び彼女の中に取り込まれていた。ただの通りすがりの見物人として、目の前で立ち起こるドラマになんの責任も持たずにいられるはずが――。


 夜の中を縦横無尽に広がる迷宮めいた路地にはまだパラパラと人が歩いている。あの交差点のところで信号待ちをしているのがあの人に違いない。すぐにそこまで追いついて、あたしはその人の斜め後ろに立ったまま、その人の後ろ姿を見ていた。夜風が吹いて男がコートの襟を立てた。ウィンドウの中ではいつも季節を先取りして颯爽としているのに、一歩外に出てみると自分は冷たい風の吹く中をワンピース一枚で立っている間抜けだ。信号が変わって男は歩き始めた。自動的にそのあとをあたしも歩き始め、このままこの人をつけていってあたしはどうしたいんだろうと思い、それでも見失うことを怖れてさらに後をつけていった。再び大通りに出て、煌々ときらめく灯りの渦に目をしかめた瞬間、あたしが立って然るべき空間のことがふと脳裏をよぎった。明日の朝九時に、あたしはくびだ。夕方には手足をもがれてスクラップにされる運命にあるかもしれない。そんなことを思っていたんだけど、ふと我にかえって前方に目をやると、あの人がタクシーに乗り込むところだった。いま戻ればあたしはくびを飛ばされることもバラバラにされることもない。いま戻れば、あるいは二度とあの人を見ることは叶わないだろう。大通りの歩道脇にはタクシーが列をなして止まっていた。躊躇していると先頭のタクシーが後部座席の扉を開けて、運転手がどうぞと言っているのが見えた。乗り込むとすぐに扉が閉まり、「どちらまで」と言うので「前のタクシーを追いかけて」と言った。「信号無視はやらないよ」というので頷いた。迷いに満ちたあたしには、信号が運命を決めてくれるということがあり難いことに思われた。「お姉さん、怪我でもしてる? 血で汚されたらかなわないんでねえ」前方のタクシーの二台後ろを走りながら運転手が言った。「どうして?」「いや、首のところにね、なにか傷みたいなものが見えた気がして――ちがったら、ごめんなさいね」あたしは継ぎ目が目立たないように少し顔を下に向けていることにした。首がころんころんと落っこちちゃったら、この運転手はパニックになって事故死するかもしれない。おまけに後部座席からマネキンが発見され、デパートのマネキンを盗んだあげくに交通事故を起こして死んだなんていうことになったら、残された家族がかわいそうだ。「飛ばして、遮断機が降りる」踏み切りの警報音が聴こえたのでそう言うと「ハイヨッ」とアクセルを踏んで踏み切りを超えた。踏み切りを超えると急激に道幅は細くなり、五十メートルほど先にあの人の乗ったタクシーのバックライトが闇の――


 不可解な電波の悪戯で僕は突然世界から吐き出されたように我にかえった。ノイズは目の前のラジオから鳴り続けている。マネキンの世界に辿りつく前に僕は時計をちらと見たのだが、それから今までものの三分しか経っていない。それでもマネキンの恋と追跡劇とは充分に成り立っていた。日中は誰もが従がわざるをえない時間というやつも、ノイズの粒子の中で混乱しているように思える。


――この子は……。ねえ、もっといいお医者さんを探しましょうよ。

――さんざん探したあげくじゃないか。こうなったらもう行き当たったお医者を信じる以外にしょうがないんだよ。

――だってねえ、あんまりこの子が――。

雨漏りの沁みの点々と残る木の天井と、魂がこぼれそうな視線を僕の顔におとしている女の人が見える。男のほうは煙草に火をつけてベランダに出てしまった。呼吸がうまくできなくて、酸素が足りないので深呼吸ばかりしようとして、そのせいで肋骨が痛んだ。それに断続的な咳がおさまらなくて、どうやら僕は重傷の小児喘息に冒されているのだと分かった。だけど躰の奥底のどこかでは、微かに回復の兆しを感じてもいる。僕はそれをその女の人に伝えて安心させてやりたかった。それで何か言おうとして、何度か口をもごもごと動かしているうちに、僕はまだ言葉を知らないのだということを思い知った。まだその年齢ではないのだ。思っていることを伝えられないということでよけいに息苦しい思いがして、僕は泣き叫ぶことにした。意識的にそうしたのだが、いったん泣き叫ぶと堰を切ったようにそれは止まらなかった。泣くという行為は無力な言葉に対する断罪の行為なのだ。断罪という行為はなぜか快楽を含んでいるようで、僕は気持ちよく泣き続けた。だけどいっそう顔を近づけて僕を見ている女の人の目を見て、とつぜん僕は泣くのをやめた。その人の目から涙が零れおちていないのが不思議だった。ぞっとするくらいに深く哀しい目をしている。だけどその目は破裂しそうな感情をおしとどめているのだった。この人もきっと泣くことの快楽を知っていて、いったん泣いてしまうと際限なく泣き続けてしまうのじゃないかと思って、それでこらえているのかもしれない。そしてそんな目を見てそれでも心まかせに泣けるほど、僕は無神経でもなかったし、恥を知らないわけでもなかった。僕はもうすぐ治るんだよとそれだけが言いたかったのに、僕とその人の感情はこじれたまま、うまい着地点を見いだせそうになかった。いつのまにか男の人がベランダから戻ってきていた。微かに煙草の匂いがする。女の人は彼の肩に頭をもたれさせて、先ほどまでの高揚した気分もいくらかおさまってきたように見えた。

こんなに苦しむのだったら、この子はどうして生まれてきたんでしょう。息も絶えだえであんなに泣いて、この子はどうして生まれてきたんでしょう。

生きるってのは苦しいもんさ、たとえこんなに小さな子でもね、この子はきっと強くなるよ。

でも、あな、た――


 ふと目を覚ました。グラスの中の氷が少し溶けている。電源の入っていることを示すラジオの赤いランプが点滅している。電池を買っておかないといけない。ランプを点滅させながらもノイズは立派に鳴り続けていた。混濁とした水に浮ぶ塵のように、五十一音の言葉がバラバラに配置されていて、全体として意味を喪失している。ふと気がつくと突如水の中に渦巻きが発生し、それは徐々に激しさを増し、それに連れてばらばらに浮いていた言葉がいつの間にか渦巻きの形状で繋がり、眩暈のするような勢いで水の底に向かって回転をはじめる。栓が抜かれ、ぽっかりと空いた穴に向かって言葉が急激な降下をはじめたのだ。ザーッというノイズの中でそういった想念が駆け巡り、再び誰かの意識、あるいは白昼夢の中へと僕はとりこまれていった。


 ひっきりなしに、狂った弾丸のように行き交う車、クルマ、くるま。おれはそんな国道の脇にトラックを停めて休んでいる。陽射しで目を覚ましたが、どれくらいの時間こうしているのかも定かではない。このトラックが果たして自分の所有物なのかということもよく分からない。ほんの少しだけ過去を遡ったところで記憶が絶たれている。背後を振り返ると空を突くようなどす黒い噴煙が立ち込めているような感じだ。このトラックが誰の所有物かなどということも、実のところどうでもよい。問題は助手席に座っているワンピース姿の若い女だ。若いとはいったが、年齢を推測しようとすると、なんの手掛かりもないような感じがして戸惑う。顔に皺はなく、髪は黒く、胸元は生命を発散させるように豊かな起伏を描いているが、何か空っぽなのだ。たとえ二十歳の女でも、二十年という月日の積み重ねといったものがあって、それが二十歳の女という容貌を形作るはずなのだが、この女にはそれが皆無で、全体の印象としては軽薄とさえ言いたくなる。目はしっかりと閉じていて、不自然なほど長い睫毛は、瞬きのたびに鳥の羽ばたくような音がするのじゃないかと思わせる。祈るような気持ちで豊かな膨らみをみせるその胸を凝視してもみたが、彼女が呼吸している様子は微塵もなかった。服装に乱れのないことから、仮におれが誘拐犯であってもレイプ魔ではないと思って少しだけ安堵もした。だけどこのままでは何も解決はしない。死んでいる女を横にしておれは再び記憶を取り戻そうとがんばり始めた。女が美しくなければ、おれは解決を求めることすら放棄していたかもしれない。だけど空っぽのくせに、女の顔には悲劇に見舞われるのに相応の美しさが漂っていた。

そのとき明確に一つのことを思い出した。オレはトラックを運転してだだっ広い国道を夜通し走っていたのだ。目的は不明だが、一人でトラックを飛ばしていたことは確かだ。そして前方にセブンイレブンが見えたので、そこでトイレを借りて、喉が渇いていたのでコーラを買った。だけど記憶もそこまでだった。そこでまるで幕が下ろされたように全てが途切れ、現在に至っている。喉がからからに乾いていることで不快を感じ、結局オレはそのコーラを飲んでいないのだろうと思った。車内を見渡してみたがコーラの空き缶はなかった。それでも諦めきれず、ダッシュボックスを空けると栓抜きがごろっと入っているだけだった。ビールもないのに栓抜きだけかと思うとちょっと腹立たしくなって、いっそどこかに飲み物を買いに行こうと思いドアに手をかけた。だが、まるでノブが動かない。意地になって力任せにやってみたが、やっぱりびくともしなかった。よくみると、さっきまで女に気をとられて気がつかなかったが、車内のあちこちが壊れている。アクセルも根元から折れているし、ハンドルも変な角度に曲がっている。窓は助手席側のがほんの少し開いたところで止まっていて、やはりそれを動かすハンドルも折れていた。つまりオレは太陽が真上から照りつけている車の中で軟禁状態にあるわけだ。あたりには一定の間隔で飛ばしていく車以外には何もない。喉の渇きはもう限界にきていた。その点この女は気楽なもんだ。涼しげな顔をしてみじろきひとつしない。まるで風を感じながら気持ちのいい音楽でも聴いているみたいだ。

シートに躰をもたれかけて、少し日の傾いた外の様子に目をやった。ちょうどその時、道路沿いの外灯が早すぎる灯りを路上に落とした。死んだ女の処分、自分自身の脱出、それらに依然として解決策を見出せないまま、ふと隣の女に目を向けると、その顔がこちらを向いて、目もぱっちりと開いていた。反射的に飛び上がって天井の角に激しく頭をぶつけた。ひん曲がった車体の鉄枠にぶつけたらしく、頭のてっぺんから血が伝い落ちてきた。

「あら――。まあ――」女は少し驚いた表情をつくってそう言った。こういう時にどう言うべきかまるで分からず、とっさに自分のそういう未熟さを隠そうとした結果に出てきた言葉が〝あら、まあ″なのだと、おれは思った。表情にしても、自然にでた表情ではなく、驚いた顔というのを咄嗟に造ったのだと、そういう感じがした。足元の油で汚れた布を拾って頭にあてがい、女の造り物めいた瞳に思わず見入ってしまった。その瞳もやはり彼女の人生のいっさいを映してはいなかった。まるで生まれたばかりの赤ん坊の瞳だ。計算し尽されたような躰をした女の瞳として、それは到底そぐわないもので、そのアンバランスにおれは一瞬にして心を奪われていた。だが、女はおれの頭の流血に〝あら、まあ″以上の同情を示すこともなく、もうここを出て行こうとしている様子が窺われた。だが女が自力でこの車から出られるはずがないと思うと、おれはこの鉄とガラスの檻に礼を言いたい気分だった。もう少しこの女を見ていたい。女はきょろきょろと車内を見渡して、「何か書くものがあれば、欲しいんだけど。まだ書き足りないの」と、顔面に幾筋もの血が伝っているおれを見てそう言った。血が流れているということがどういうことかも分かっていないようだ。そういう女の脇には一冊のノートがあったので、「これは?」と言いながらそれを手にとってパラパラと捲ってみた。女の筆跡で、書きなぐっては棒線で打ち消している文章が数ページあり、ページが破り取られたあともある。他は男のものに違いない力強い筆跡で何かの計算式や、世の公衆便所の八割に存在するのと同様の卑猥な落書きがしてあった。「紙か――」明らかにそのノートにはもう何も書くスペースのないことが分かり、おれはそう言って車内を見渡したが、ちょうどいいようなものは見当たらなかった。いくらか会話したはずだが、女の瞳の奥に何も見出せないのと同じに、ほとんど空っぽといっていい会話は記憶にも残っていない。そしてやはり自分たちはこの車内で軟禁状態にあることには変わりなかった。閉じ込められていると思うと、いっとき忘れていた喉の乾きが再び耐えられないようになってきた。


 息苦しさに我に返った僕はテレビの電源を入れ、ケーブルテレビの録画リストを表示した。ボリュームは0にして、何が見たいというわけでもなく、先週見たばかりの『パフューム』を再生した。さっきのはこの夜更けに、何処かの国道沿いで起こっていることなんだろうか。あるいは、一人の男の白昼夢が電波に紛れ込んだものだろうか。そんなことを思っていると再び耳元のノイズに感応をはじめ、それにつれて、露店の不衛生な魚屋が残酷に包丁をふるう映像も視界から消えていった。


 男は大歓声の中を舞台から降りていき、観客から見えないところまできたところで、その顔からは笑顔がなくなった。なにやら思いつめたような表情をして楽屋への通路を辿っていった。

ノイズとの感応の具合によって、僕は第三者であったり、その者の中に取り込まれて本人と同一化したりするらしかった。あるいはその者の心の具合は手に取るようにわかるし、その記憶や思い出を辿ることも自由にできるが、小説でも読むようにそれは客観的であって、あくまで自分は第三者であるということもあった。本人の内部にまでとりこまれた時は意識を取り戻したときの疲労も大きかったので、僕はこのように無責任な観客でいることのほうを好んだ。僕は見えない影のように男について通路を辿り、男と一緒に楽屋へと入った。


 「あの子はこなかった」男はギターをスタンドに立てかけながらそう呟いた。最前列の一席だけが空席で、そこは男がチケットを送った女の座席だった。ガットギターからはじきだされる音は女の面影を辿って狂ったように宙を舞った。その日の歓声はいつもとは比較にならないほどだった。それを皮肉に思い、男はギターを叩き壊したい衝動にかられて、スタンドに立っているギターに手を伸ばしたのだが、そのとき楽屋のドアの開く音がした。むろん本当に叩き壊す気などなかったのだが、男は見るからに苛ついた表情でドアのほうを振り向いた。そこには看護婦をしているマナという若い女の友達が立っていた。マナはあの女の知り合いではあったがさほど親しくもなく、ただ男がその女に恋焦がれていることや、コンサートに女を招待したことなどを知っているだけだった。ある夜男はマナに襲いかかったことがある。去年のクリスマスのことだ。すでに男はあの女に失恋しており、友達として家にきたマナに、恋する女の正体は明かさぬまま自分の苦悩だけを話し続け、あげくに耳を傾けていたマナに突如襲い掛かり、フローリングの床に押し倒した。クリスマスツリーが床に倒れて飾りの電光が床にばらまかれた。マナにとっては肉体的な病魔に冒されている男も、精神の破綻しかけた男も似たようなものだったのかもしれない。慣れたように男を押し留め、その自分勝手さをたしなめた。「こういうことはだめよ。でも泣きたいなら泣いてもいいのよ」そう言うと男はマナの胸に顔をうずめ、その心の内をぶちまけたのだった。

「よかったわ、今日のライブ。ねえこのあと一杯飲みに行く?」

憑かれたような男の顔を見て内心ぞっとしながらマナはそう声をかけた。ありがとうとだけ言って男はギターをとろうとしていた手を引っ込めた。この人はもうだめかもしれないとチラと思ったがすぐに打ち消した。かれこれもう一年以上もこんな状態を繰り返して、少しの進歩もないし、それどころか日を追って悪くなっているように思える。

「ね、行くの行かないの」

男はすっと立ち上がると意外にもすっきりとした表情を見せ、

「僕の本心を知ったら、君はもう僕と友達づきあいもしようと思わなくなるだろうな」と言った。

「誰でも心の中を覗かれたら、たいてい後ろめたいことの一つや二つあるものよ」

男の面倒なセリフにすっかり慣れているマナはそう言った。

「君は友達と呑むときにどういった話題がいいと思う?」

「そんなの、そのときどきのことじゃない。相手にもよるし」

「僕はずいぶん長いあいだ君に慰められてきた。だけどもうだめかもしれない」

「本当にだめだったらそういうこと言わないと思うわ。まだ大丈夫って心のどこかで思ってるから、そういう弱音もでるのよ」

「ふん。恋ってのは、永遠の謎だ」

「何が謎なの」

「求めたくもないのに求めるなんて、おかしいだろ? 苦労して大人をやってるけど、そんなものを全部ひっぺがされて裸にされたみたいな気分なんだよ。理性ってものが信じられた頃に戻りたいんだよ。僕はもうこれに振り回されるのに、心の底からうんざりしてるんだ」

そう言って男は自分の胸を拳で突付いた。

「わかったわ、あんたは片思いをやめられないかわいそうな人よ。でも恋に恋するって言葉があるでしょ? そんな人からしたら羨ましい境遇かもしれないわね」

「そんなことをいう奴らは、わたしは生まれてこのかた恋をしたことがありませんって白状してるのと同じだよ。まあいい、どこへ行こうか?」

「フェアブリッジはどう? 満席かもしれないけど」

「すぐ支度するよ」

男はそう言って衣装を脱ぎ始め、マナは表で待っていると言って楽屋を出た。


 それぞれビールジョッキを3杯も空けたころ、マナは原因も治療法も不明な奇病で余命わずかな患者のことをぽつりぽつりと語りだした。内臓になんの異常もみられないにも関わらずものが食べられなくなって、無理に食べても全部吐き出してしまうので、今や点滴で命を永らえているだけの状態だ。拒食症でもないし精神はいたって健康なのだが、ただ食べるということができないのだ。名声のために、治療代はいらないからと言って自ら志願して診察した医者もいたが、結果は同じことだった。自分と同じ年の頃で、新米看護婦のマナは日々が未来に向けての前進であるのに対して、彼は日々死への準備を進めているのだった。いろんな入院患者を診てきて、病気が人にもたらす変化というものを驚きをもって体験していた。その人の心の中で眠っていた愛や、謙虚さといったものが、病によって表出するさまを見てきた。だけど病が自分に恋をもたらすとは想像だにしなかった。彼の属性の一つとして死というものがあり、それがいつしかマナの心に狂おしい感情を生み出したのかもしれなかった。最初は自分の母性本能のせいかと思っていたが、それはそう思いたかったということであって、そんなことで自分の感情を欺けるものではなかった。

「もってあと一ヶ月。とんでもない話よ」

吐き出すようにそう言ってビールをあおった。

「躰が生きることを拒否してるんだからどうしょうもないの。精神は両手を縛られたまま運転席に乗ってるだけで、車は断崖に向かって着実に進んでるのよ」

「彼に恋人はいないのか?」

「いるわよ。でもそれと私の想いとどう関係があるの?」

「君の想ってることを、彼は知ってるのか」

「知らないわよ。だけど、それと私の想いとどう関係があるの」

彼が二週間後にケロッとして退院していく患者だとしたら、ただそれだけのことでしかなかったと思っていたが、それも今ではよく分からなくなっていた。

「このあいだ病室に入ろうとしたら、見舞いに来てた恋人とキスしてたわ」

男はマナの話を聞きながらまたあの女のことを思い出していた。突然路上で出くわした際にそなえて、コンサートにいけなかったことの言分けを考えている彼女を想像した。

その時カップルがバーの扉を開けて入ってきたのだが、その扉が閉まろうとする時に、ものすごいスピードで一羽の大きな鳥が店内めがけて飛び込んできた。店内で飲んでいた二十人ほどが奇声を上げて座席から飛び上がった。突如乱された平穏に、男は何か心躍るものを感じて、奥のほうの高いランプスタンドの上に留まった鳥を見つめた。

「物事は、ただ起こるのね」

大袈裟に騒ぎ立て、出口に向かってかけていく数人の女を見ながらそう言って、マナは残りのビールを飲み干した。

店内の騒ぎを眺めている男の顔にほんの一瞬、恋の苦悩なども忘れてしまったかのような楽しげな表情が浮んだ。そして男がランプの上の鳥に目をやったまさにその時、酔っ払った一人が投げつけたワインのボトルが見事に鳥に命中した。鳥は一言も発さないまま床に落ちた。それでまた数人の女が悲鳴を上げて――


赤ん坊の泣き声が聴こえる。これは現実で、声はテレビの中からだ――。


出口のほうに駆けていった。男はまた心が同じところに落ち込んでいくのを感じていた。うんざりしながら、それでもそこから抜け出すすべはまだ見つからないでいた。


 魚の血だまりに汚れた路上で赤ん坊が泣き叫んでいるシーンが、眼を開いた僕の視界に写った。

寝ころがって、音声のないまま続いていく映画をしばらく見ていた。これでも僕は人並みに体力もあるし意欲もあって、じき働きに出るのだということを楽しみにしている部分もある。少なくともこんな部屋にこもっているよりはおもしろそうだ。未知の人たち、遊び、恋、仕事、社会の構造、生産と消費の終わりなきループ、休日には植物園などを散歩して、露店のおばさんと立ち話をし、恋人だっているかもしれない。僕の生来の楽観性はこういう想像のときにいかんなく発揮され、心が浮きだつと、こんな生活はすべて間違いだと思う。だけど近頃はそのあたりが少し変わりつつある。白昼夢や個人的な想念、あるいは何百キロと離れたところで本当に起こっているのかもしれない出来事、そういったことに一々関わりあっているうちに、恐怖というものが僕の楽観生を侵しつつあった。世界に出て行くには、決定的な欠如というものが僕にはあるように思えた。ノイズの中で発ち起こる事々の原動力というものが、僕にはないように思えた。それは僕がまだ世界に出ていないからかもしれない。そして自然とそれは身に着くものなのかもしれないとも思うと、そのことじたいが怖いのだ。


 太陽の光に銀色の表面をピカピカと反射させた鉄製の管が、三次元ではこと足らぬといわんばかりに、直線部分は天をつくほど伸び上がり、ぐるっと巻いて返すとそれは奇妙な曲線を幾重にも描きながら地表に近づき、地上に達するとまた伸び上がる、曲がりくねる。またその主管のあちこちからは無数に枝別れした細めの管が伸びていて、それもまたエネルギッシュにうねった形状で方々に伸びている。先端はどこにあるのだろうと眼を凝らすと、ちょうど山脈でも眺めるみたいに、どことも知れない彼方でそれは霧にかすんでいる。巨人のためのジェットコースター、鉄で出来た龍の化け物。動的な形状には違いないけど、むろんそれは動いているわけではなくそういう形なだけであって、誰も知らない昔からそうしてそこにあるだけなのだ。だけどそれが突然寝返りをうったみたいに動き出して、ひどくこんがらがってしまったことが、過去に二度だけあるらしい。管の周りには常に無数の人々が蠢いていて、よく見るとその表面部分のあちこちにも人の姿が見られる。いや、実際のところ鉄が露出して見えるところのほうが少ないくらいで、その化け物みたいな管のいたるところは人で埋め尽くされていた。二度あることは三度あるということで、人々はそれぞれ何かしらの役目を持ってその管にはりついており、それが二度とこんがらがることのないよう、めいめいが努力しているのだ。

 地べたに座っている少年のすぐそばでは、枝分かれした管の丸い口がぱっくりと開いている。主管から見れば小枝のように見えるが、それでもその口の直径は数百メートルはありそうに見える。真っ黒な口は常にゴーゴーと音を立てて空気を吸い込んでいるようだ。少年は飼い犬のムイムイを探してここまで来て、疲れて腰をおろしたところだった。遠くから眺めるこの管の山脈は雄大できれいだと思っていたが、間近に見ると、特に蟻んこのようにそれに人が群がって蠢いているのを見ると、きれいどころかグロテスクだと思った。ムイムイもみつからないし、そう思ってふと空を見上げると一羽の鳥が優雅に飛んでいて、それはずつと同じところを旋回しているのだった。僕がくるずっと前からああして旋回していたのかもしれない、そう思いながら、また少年は去年トラクターの上に座ったまま死んでしまった叔父さんが「あのあたりに飛んでいる鳥はどれもこれもほんものじゃない。幻なんだ」と言っていたことを思い出していた。あのあたり、というのはこのあたりのことだった。少年が遙か遠くでピカピカと輝いている山脈について尋ねた時にそう言ったのだ。そして本当にあれが幻なんだろうかと思いながら、もう一度頭上を旋回する鳥に目をやった。「ムイムイを見なかったか」と鳥に向かって叫んでみた。そうしてもう鳥に興味を失うと、少年は立ち上がって再び歩き始めた。ふいにムイムイはこの真っ黒な口に吸い込まれてしまったんじゃないかと思って脚を止めた。ゴーゴーという音を立ててこちらを向いている管の口を見て、もう少しでもそれに近寄るとたちまち吸い込まれてしまうだろうと思った。ムイムイにそれくらいの危険察知能力があっただろうか。それにこれをうまく回避して何処かに行ったにしろ、こうした管の口はいたるところにあるのだ。管の山脈を見渡して、その天辺あたりは雲に隠れているのを見、これが突如身をよじって「こんがらがって」しまったところを想像してみた。そうするとそれの上でもごもごと蠢いている人々の姿が急に頼もしいものに見えてきた。それぞれがそれぞれの仕事をして、そんなことにならないようにがんばっているのだ。しばらく行くと、殺風景な藪の広がっている手前に温泉が湧いていて、それに浸かっている女の人が見えたので、少年は近づいていき、その女に声をかけた。

「僕の犬見なかった?」

「どんな犬なの、坊や?」

「白い犬だよ、毛足が短くて尻尾はくるって巻いてて、目の下に涙みたいな黒い模様があるんだ」

「名前は?」

「ムイムイ」

「おかしな名前、犬らしくないわ、どっかの神さまみたい」

「ねえ見なかった?」

「犬なんて一匹も見てないわ」

「意地悪だね、それなら最初からそう言えばいいじゃないか」

「子供がこんなところに来て、何言ってるの」

「悪いかい」

「ちっとも分別がないのね。近頃は子供が行っちゃだめな場所ってのはもうこの地上に存在しないみたいじゃないの。じきにまたこんがらがるわ。あんたはその前兆だわ」

女はそう言うと少年が見ているのも気にせずにザバッと湯から上がり、置いてあったタオルを巻いてそばの藪に姿を消してしまった。すぐに藪の中から悲鳴が聞こえた。助けて、と叫んでいるのは女の声だった。少年が草むらにむけて走ろうとした瞬間、ずっと向こうで真っ黒な口を開いている管のそばをムイムイが歩いている姿が見えた。見えた、と思ったときにはもう管の中に吸い込まれて消えていた。と、足元を影がちらちら動くので上を見てみると、鳥がちょうど少年の頭上で旋回していた。見るとその鳥の百メートルほど向こうでも別の鳥が同じように旋回していて、更にその先にも――。それは視界の限り続いていた。やっぱりあれは幻なんだと思いながら、同時に、僕はここに来るべきじゃなかった、と少年はただそう思った。ムイムイが黒い穴に消えたのを見て、自分の中に野蛮な情熱が沸々と湧きあがるのを感じた。こんがらがってしまえ、と叫びたい衝動が胸を突く。それは管の山脈に関わっている何万という人々の意に反することだと承知の上で。中には共鳴する者もいるかもしれない。助けて……と今度はさっきよりも弱弱しい女の声が聴こえた。


 いつの間にかノイズが脅迫めいた音量でがなり立てているのに気づき、僕はボリュームを確かめたのだが、つまみが示している音量の数値ははいつもの通りだった。あたりが静かなほど音は大きくきこえるだろうし、あたりが暗ければ暗いほど、やはり聞いている音は大きくきこえるものだ。だけどそういった状況が変わっているわけもなく、これも一種の電波の事情によるものなのかもしれない。僕はつまみをひねってボリュームを二つ下げたが、それでもじゅうぶんに聴こえた。すでにノイズに異質なものが紛れ込んでいるのも聞き取れる。


 アナウンスと共にドアが開き、帰宅ラッシュ時の電車からは大勢の人が降りていく。そこで降りるという行為をしないことで、男は微かに自分の心が浮き立つのを感じながら、ドアが閉まった時には、すでに賽は投げられたという興奮でいっぱいになった。こんなふうな素朴な喜びすら長いあいだ忘れていたということを感じずにはいられなかった。山まで行こうと漠然と思いながら、まだしばらくは見慣れた光景の流れていくのを車窓から眺めていた。列車は都心部から山岳地帯まで延びている。時間にして二時間ほどだ。何度目かの停車駅に止まり、そのつど乗り降りする人があったが、不思議と乗ってくる人のほうが多いようだった。男はそんな光景すら楽しみながら、角の椅子に陣取ってゆったりとくつろいでいた。時計を見ると九時を回ったところだった。夕飯の下ごしらえを終え、今駅に着いたよという電話を妻が待っているころだ。今夜は煮物にすると言っていた。それを思い出すと急に腹がへってきたが、こんな通勤列車に弁当の売り子はまわっていないので、男は持っていた飴玉を一つとりだしてそれを口に放り込んだ。金柑味の飴を舐めていると、なぜか子供の頃を思い出した。それで金柑にまつわる思い出がないかと考えをめぐらしたが何もなかった。そのかわりに、泥んこになって家に帰ると、いつも何かしらのうまそうな匂いが玄関にまで漂っていたことが思い出された。何よりの楽しみは晩飯であり、おふくろの何よりの楽しみは自分に栄養たっぷりの食事を与えて、立派に成長させることだった。妻も同様に、それが自分の責務でもあり楽しみでもあるといったふうだ。そう思うと男はなにかいたたまれないような気分になり、飴を口から取り出すとティッシュにくるんで鞄に入れた。

終着駅に着き、郷愁と寂しさと物珍しさのごちゃごちゃと入り混じった気分でしばらく町を歩き回った末に、男は一軒の民宿に落ち着いていた。なんとなく想像していたとおりの、静かな街角に建つ古びた佇まいの宿だった。意外であったのは停車駅に停まるたびに乗客が増えていき、終着駅に着いたときにはほとんど満員のありさまであったことだった。みんな大変な思いをして通勤してるんだなあと思う反面、なにかしらそこに現実離れのした感慨をおぼえずにもおれなかった。ケイタイは電源を落としてあるが、入れると着信履歴とメッセージであふれかえっていることだろう。テレビを見ようとして、テレビに小さな鉄のボックスが据えられていることに気がついた。そのボックスに十円玉を入れないとテレビの電源が入らない仕組みなのだ。こんなものは子供の頃に両親に連れられて泊まった温泉宿で見た以来だ。男は迷わず財布から十円玉を取り出して挿入口に入れた。ガチャガチャとチャンネルを回してニュース番組にした。子供たちは世界の犠牲者なのです、と断言的な口調で女のアナウンサーが言ったところでコマーシャルになった。世界の犠牲者とはなんのことだろうかとぼんやり思ったが、もうその回答は知りようがないと思ってコマーシャルの終わるのを待った。続いてのニュースですと言って再び始まった番組をビール片手に男は見ていた。いっせいに大量の捜索願いが出されて都内の警察が対応しきれずにパンク状態となっていると言ったニュースだった。そんなこともあるものか、男は呟いてビールを一口喉に流し込んだ。捜索願いを出しているのはその家族やその人の属する会社からであり、警察は全てに対応できるよう特別本部の設置を発表した。そのとき戸をノックする音があった。料理はいいと断ってあるので不審に思いつつ腰を上げると、男は早足で入口に行き戸を開けた。そこには自分より十は若そうなスーツ姿の男が一人立っていた。それよりも驚いたのは、その肩に鳥を乗せていることだ。どういう鳥なのかは知らないが、見たことのない鳥には違いなかった。だけど男はそれについては何も言わずにただ、なにか、と訝しそうに言った。すると若者は「今、ニュースを見て、急に思ったんです」と言った。男が尚も苛ただしげに「なにをです」と訊くと「こんな平日にこんな宿に一人でお泊りになってるなんて、あなたは家出人の一人なんでしょう」そう言うので、男は若者の図々しさにカッとなって「わたしが出張で泊まっていようと旅人であろうと無職であろうと家出人であろうと、それがあなたとどういう関係があるんです?」と言った。「あなたが同じ列車に乗っているのを見ました。なので御存知とは思いますが、どんどん乗客が増えて、パンパンになったじゃないですか」若者がそこまで言ったときに、男ははたと思った。だがそんなことはあろうはずがない。何かしらの用事、のっぴきならない用件、人にはそれぞれの事情というものがある。偶然が重なるということもまたある。何にでも道理があると盲目的に思うのが若者であって、道理から導きだされるのは事と事を繋げる明確な筋道であり、最初に導き出されたそれをもう頭は疑いたくないと思う。道理への信頼、そして行動や言動の無謀さ、それらはよくも悪くも若者という人種の属性の一つであって、そう思うと男はもう彼を頭ごなしにやっつけてしまう気もなくなった。「君こそどうしてこんな宿に、と私が訊くこともできるが、私は聞かない。だから君もそうしたまえよ」若者の肩を優しく叩いてそう言うと、若者は黙って頭を下げて廊下を去っていった。

 不快な訪問者が案外あっさりと帰っていったことに安堵して和室に戻ると、十円玉の効力が消えたらしくテレビはおちていた。ほろ酔いの気分で風でも浴びようと、立て付けの悪い木枠の窓をガラガラと開けた。闇の中にはまだ幾つかの民家や宿がポツポツとオレンジ色の光を灯していて、細く入り組んだ路地が真っ黒な地面に伸びているのが見えた。まだ人が歩いているな、と路地を目で追いながら男が思っていると、すぐ眼下の通りにも二、三の人が通り過ぎていくのが見え、はたまた首を右に向けて遠くに目をやると、そこには数十人はあろうと思われる人影が黒い塊となって通りを渡っていくのが見えた。時計を見ると深夜の一時だったので、さすがにこれは少し異常だなと男も思った。首を左に向けた。両際に木造の古民家の建ち並ぶ路地に、やはり人は溢れている。建物に入ってはすぐに出てきたり、遠くを指射して駆け出したりする人もいる。だが全体としては不思議と落ち着いているようにも見え、笑ったり、叫んだり、という声など一つもなく、ただ混然とした黒い塊が蠢いているのだった。男は窓を閉め、自分の駅を通り過ぎていった時のあの心の喜びがもう干からびかけているのを感じていた。冷蔵庫からもう一本ビールを取り出してコップに注いだ。冷えたビールが喉を流れていく感触が、まがいようのない素晴らしい現実として、少し男を奮い立たせた。全てを放棄することで何かを成し遂げたような気分になっていたが、今や自分のしていることは珍しくもなんともない、それどころか世間を騒がせている問題事の一つに過ぎないのだ。男は完全に道を絶たれたような気分でバタンと畳の上に仰向けに転がった。ふと電源をおとしてあるケイタイを見た。電源を入れてもそこに着信履歴もメッセージも一つもなければ、やはり自分のしたことには特別な意義というものがあるように思えるだろう。本当の意義なんてのは相対的に生まれて出てくるものではないと、頭のどこかでは思いながらも、その考えは蠱惑的に男の心を捕らえた。だが、とはいってもすぐに電源を入れてみる勇気はなかった。はっきりとした結果など今は知りたくなかった。もうぬるくなった残りのビールを流しこむと、疲れていた男はすぐに鼾をかき始めた。高層ビルやタワーの一本もない大都市がそこには広がっていた。ビルの変わりに巨大な管が視界の限りに這いずり回っていて、それよりも重要なことはこの世にありそうにない。それは人類の幸福な未来図では決してありえないにも関わらず、男は今日停車駅をやり過ごした時に感じた愉悦的な気分を感じていた。醜い老犬が足元をさすって通り過ぎていったので、男はそのあとを追ってゆっくりと歩いていった。


 パフュームはまだ進行中だ。男は女を殺して、その肉体から立ち昇る香気な匂いに恍惚としている。その映像はテレビをつけている僕の部屋という現実であり、一方で頭の端にはまだ行方を絶った男の輪郭がぼやけて映っていてる。僕はPCを立ち上げてニュースサイトを開いた。警察が特別本部を設置しなければいけないような妙な事件など何もないのを見てすぐにPCをおとした。ノイズを通して発ち起こる様々なことは、いわゆる現実なのか、時系列はこの世の常識を逸脱したものではないのか、特定の誰かの想念がたまたま電波に乗ってやってきただけなのか、あるいは想念にすらならない夢、白昼夢なのか、それらについては不明なままなので、明日以降のニュース番組で、大量の捜索願いで警察がパンクするというニュースが流れないという保障もない。

こうして夜更かしをしながらも、同時に僕は昼過ぎに起きるなんてのは我慢ならない性分で、だから例え眠るのが朝の五時であろうとも、午前中には目覚まし時計をセットする。どのみち映画がまだ進行中であることを思えば、たいして時間が経っているわけでもない。

僕はショートスリーパーに成れればと思う。だけどあれだけは努力してなれるものではないそうだ。何度も調べてみた。


 誰も彼もがおれの頭をふんづけていきやがる。おまえはそういう生まれつきなんだろう? そう謂われれば、それはそうに違いない。ふんづけるおれの頭がなければ、道行く人々はみなぱっくりと開いた円形の穴に墜落して、一生の不具者になるか、死亡者となるか、五体が助かっても恐怖で顔がひきつったままになるかだ。そして社会というものへの不信感で夜も眠れなくなる。地面に開いた穴、というそれだけのものが、そういった厄介ごとの原因足るわけだから、穴を開けておいて、それでその上におれをパカッと被せて、連中は安心しているわけだ。安心はするが感謝された覚えは、まるでない。被せっぱなしだ。そして踏んづける、唾を吐く、犬の糞を放置する。おれはそれでも耐えなければいけないのか。耐え難きを耐え、偲び難きを偲び――いや、こんないいかたは大袈裟すぎる。苦悩する人のみが救われる、と言った人がいる。なるほど、だけどおれは人ですらない。誰もマンホールの蓋が如何に生くるかを、解いてはくれぬ。救いを示す書がなければ、この世は阿鼻叫喚の巷となって、人々は生来的に持つ残虐志向を思う存分に発揮するにちがいない。力は力であって、そこに複雑な哲学の入り込む余地などなくなるだろう。それは蓋であっても同じことだ。どうにかせねばならない。ぞりぞりと夜中に移動して、一つの惨事をそこに起こせしめることも、可能といえば可能だ。その日の夜に誰かが落下して死ぬ。おれは罰せられずに、市の職員が免職になるだろう。だがそれで事態が一気に好転するとは、到底思われない。一人の死がきっかけとなって、誰もがマンホールの蓋に気を使うようになるとは、おれとて思わない。こうしてここにいるおれのことが忘れられているように、その死者のこともすぐに忘れられるだろう。だとすると、これは名案とは思われない。勝算というものが功利的な意識の中にのみ存在するテロリストのような連中と、なんら変わるところがない。思えば、同じ思いをしている同胞が一定の距離を保って何千といるのだが、誰もそんな行動を起こすこともせずにいるのは、こうした思考を繰り返した挙句の、暗い沈黙なのかも知れぬ。もうこのことは忘れ、自分の本分を全うせよ、それが蓋としての生くる道だ……。どうやら興奮しすぎて、理性というものが減ってしまったようだ。理性ってものが減るものだとは、知らなかった。いいよどうせ、減るもんじゃなし、の中に理性も入るものだと思っていた。それにしても、こんな夜更けだというのに、あれらの人々はいったい何処に行くんだろうか? せわしない。どうやら連中の誰一人として、その頭上を飛び交う電波のことには、ついぞ気づいたためしがないらしい。二千キロの彼方からは夜な夜なおかしな電波が紛れこんできてるというのに、それにもやはり気づかない。優越というものも、考え方しだいだ。頭を踏んづけられてはいるが、連中の知らないことを、おれは知っている。これを一つの優越感として、それを誇りとして、そこから蓋の生くる道を、全ての蓋が賞賛せずにおれないような教えを、導きだせるかもしれぬ。電波の飛び交う夜空を見ていると、そんな気分にもさせられようと、いうもの。

 ん? あそこの交差点を横切っていくのは、何やら動作がぎこちないあの女は、どうやらほんものじゃあないらしい。あちこちに継ぎ目があるし、息だってしていないようだ。あんなに美しいのに、愛されもせず、感謝されたこともなく、だけど何かしら一途な思いを持っているから、それがおれの目を惹くのだな。不平すら言わずに、テロリスト的思考も持たずに、今、タクシーに乗り込んでいく。ルックスが完全なのに、それ以外は全て不完全で、なにより一途な心があって、それが夜の街にもピカピカと光って見える。

何が教えだ、生くる道だ。あんな女に踏んづけられたら、おれは――


 あちこちから噴煙が上がっている、建物の半分は焔に包まれて、さまよう人の数よりも多くの人が路上に転がっている、血は至るところにある。悲鳴はもうさほど聞こえない。悲鳴を通り過ぎたところの沈黙が、辺りを包んでいる。それを打ち破る一つの音楽が、何処かの街角から聞こえてくる。そのほうに行ってみようと、人とモノが区別のつかないように折り重なっている路を歩いていき、一つ目の角を曲がると広場に出た。広場の中央に向けて据えられたスピーカーから、耳をつんざくような音でタンゴが流れていて、広場の中心の噴水の脇で、軽快なステップを踏んで絡み合う一組の男女を見つけた。ひらけているぶん、地面を埋め尽くすほどではないが、あちこちには死人が転がっているのは変わらずで、それらを踏まないようにその男女の方に歩を進め、腰掛けるのに丁度良い形の瓦礫に座って踊りを眺めることにした。男は女を、女は男を真正面から見据え、互いに視線を外すことなく、その躰だけはリズミカルに動き続け、くるくる回ったり、宙に浮いたり、抱き合ったかと思うとパッと離れ、また密着すると優雅に回転する。互いに目を合わせたまま笑いもしないが、その顔はよく見ると汗だらけで、女はそのせいで化粧が落ちかかっていた。タンゴは大音量で空を覆った。呻いたり身をよじったりする人は一人もなく、みなきれいに死んでいるようなので、安心して、二人の狂熱のダンスに見入った。ふと見ると、広場の向かい側の瓦礫の中に、僕と同じように石の上に腰掛けて二人のダンサーを見つめている女のいることに気がついた。彼女の様子から、興味本位でここに辿りついてただ踊りを見つめている僕とは少し違うようだと思った。ただ踊りを楽しむ観客というには、何かを思いつめているように見える。彼女は踊れないのだろうと思った。それが彼女の心を頑なにしてしまっているのだ。僕だって踊れやしないけど、別に踊れなくてもかまいやしない。踊ったことがないだけで、やろうと思えばやれるだろうと思うから、かまいやしない。だけど彼女は踊ろうにも、踊れないのに違いない。じっと座ってるだけだけど、彼女が人並みに歩く様子すら、うまく想像できないのだ。歩けるだろうけど、ぎこちないに違いない。それやこれやで、あんなふうな思いつめた表情がすっかり板についてしまっているのだ。想像をたくましくしながら、いつしか僕はダンスする男女を通り越して彼女にじっと視線を注いでいた。情熱に溢れた男女のダンサーは観衆がいようといまいとおかまいなしといったふうで、互いの顔を見合ってくるくると踊り続けている。そんなとき、ふと思いつめたような女の視線とぼくの視線とがぶつかった。あえて目をそらさずに、彼女の目をみつめた。だけど彼女はすぐに僕から目をそらすと、すっと立ち上がった。瓦礫の中を歩き去っていく様子はやはりぎこちなかった。気がつくと音楽はやんで辺りはしんとしていたが、二人のダンサーは少しも変わらない調子で踊り続けていた。


 何処の町とも知れず、それは近未来か、あるいは過去なのかも知れず、だがその残像だけが目を覚ました僕の脳裏に定着している。夜な夜な繰り返されるそれらが僕の楽観性を少しずつ削りとっている。事は予告なしに生起するからいいのであって、予告されてなおかつ平気なことなどあまりない。旅人は迷って死ぬことを知らないあいだ旅をする。毒はふつうそれと知らずに飲み込まれる。誰でも太陽を愛するが、砂漠の真ん中で乾きにやられている最中に太陽を美しいとは思わない。それにしても、あきれたことに、やっぱり奇怪で支離滅裂な出来事や、その最中で右往左往する人やモノが、ひどく魅惑的なことは変わらない。毒はたいてい美味なのだ。


 この子はもう末期症状だ、呼吸するのも……ろくにできないじゃないか――。なんてことを……まだがんばってるわ、目を見てよ、生きようとしてるわ。これは小児喘息なんかじゃない、小児喘息の子は、電波塔の話なんかするもんか。この子は夢を見てたのよ、夢は誰でも見るわ。だとすれば夢とそうじゃないことの区別がつかないくらいに朦朧としてる証拠だよ、この子の本棚を見てみろ、何もない、あたりまえだ、これから言葉を覚えようってところなんだから。だけどこの子が突然独り言みたいに話し出したあれはなんだ、おれですら知らない外国のことや、男と女のことや、それもたいていは子供が喜ぶような楽しい話じゃない、それらはその電波塔が飛ばしてくるらしい、この子のちっちゃな脳にそれが何か作用するらしい、見ろ、これでもまともなのか、せっかくのラジオでいつも周波数の合わないところにチューニングを合わせて聞き入ってんだ。この子はまともよ。こんなラジオなんか捨てちまおう、それに別の医者を探すんだ、もっとまともな診断を下してくれる医者を。いいわ、探しましょう、でもラジオはとっておいて、ね、安いものじゃないのよ。

天井を背景に僕を見下ろす二つの顔。僕のせいで不穏な空気を漂わせている男と女。僕の頭は澄み渡っていて、自分の考えも彼らの会話も頭の中では言語化して具体的に考えることもできる。だけどやっぱりそれを口に出して言うことはできないみたいだ。何も言わないでいるのは何も考えていないのと変わらない、それで男のほうはもういろんなことが耐えられなくなって苛立ちを見せている。それに何も言わないでいるのは、しまいには自分の命にだって関わる問題だ。生きたまま焼かれたり、埋葬されたり、そんなことにならないとも限らない。いろんな話に紛れ込んだことでずいぶん生きた気分になってるけど、実際のところはベッドに寝転んでいるだけなんだから、まだ死ぬわけにはいかない。だけど、それもどうやって伝えればいいんだろう。女のほうにはまだ望みがある。だけど話すことはできない。女はいつからかすっかりあたりまえになってしまった空虚な瞳を僕に落としている。僕は目を大きく見開いて、女の顔を見返した。生きてるし、まだまだ生きたいっていう思いを持ってることを、なんとか伝えたかった。

――見てよこの子の目、ね?

――死にぞこないの目だ。

僕は今や呼吸がうまく出来ないことよりも、言いたいことを言えないことのほうが苦しかった。そしてその苦痛に何か心覚えがありそうに思い、四つの目に見られながら頭を懸命に働かせて、それがなんだったかを思い出そうとしていた。そしてすぐにその記憶もほんものじゃないことに思い至って、僕は心底がっかりした。僕がギタリストであるわけがないので、それはほんものの記憶じゃないのは自明のことだ。だけど僕は誰かを求めて悶える胸をひたかくしにして、立派なホールで観客を前にギターを弾いている。指は嘘のようにすらすらと動く。光景に色彩はなく、自分が息をしている実感もない。ざわざわと蠢く胸の鼓動だけがすべてのように感じられる。満月の夜に海が乱れてざわめくように、という比喩が頭に浮び、そんなことを思いながら自動演奏のように指だけが絶え間なくネックを這い回り、軽やかな音が場内を飛び回っている。いったい誰を求めて、と考えたときに、ふと何かを感じて、巨大な半円形のホールの天井に目をやった。そこには溢れる感情をぎりぎりでおしとどめている二つの巨大な瞳があった。懐かしい瞳だと思い、僕は一瞬狂おしい胸の裡など忘れてその瞳に見入っていた。そんな僕の目を見て「死にぞこないの目だ」という声が聴こえる。僕は反射的に激昂して右手の甲でギターのボディーを殴った。どよめきが観客席からいっせいに起こったが、一瞬のそれをなんとかごまかして演奏を続け、また何事もなかったように音楽は続いていった。僕が苦悩のことも忘れて天井の瞳に見入ったのは、それが心の追い求めている相手だからじゃないかと、今度はそんなことを考えていた。そうだ、そうに違いない、それで、あんなところにいるから、僕の思いが達せられることは決してなくて、ただ苦しいだけなんだ。それならもう天井なんかに目をやらずに、観客を見て、そして演奏に集中するほうがどれだけましかわからない。そう思い、僕は視線をおろし、神経を自分の指先だけに集中して演奏を続けた。ふと観客席に目をやった時に、ハンマーで殴られたような衝撃が胸を突き抜けた。まったく唐突だった。何が起こったのかもわからなかったが、数秒の後に、僕はもう一度観客席に目をやり、そして再び稲妻によって胸をえぐられ、その時自分がぽっかりと空いた一つの席に目をやっていたことに気がついた。感情が先に反応したのであって、その反応は明らかにその空席を見たことによって起こったのに違いなかった。感情から経験を辿っていくので、こういう変てこなことになるのだ。僕が求めていたのはあの天井の瞳なんかではなかったのだということがそれで分かった。そこにいない誰かが目的であるのだから、それはより絶望的な悟りだった。


「なんだって手作業でこんなことしなくちゃなんないんだ?」

「制御盤がいかれたんだから、しょうがないだろう、ぐだぐだ言ってるまに早くやんねえと汽車が来ちまうぞ、そうなったらここで脱線して汽車はひっくり返って、おれらもいっかんの終わりだ」

「やっぱり元に戻そうよ、なんだか出来る気がしないよ、こうやって線路が分断されてるよりはいいだろう、どのみち元通りに連結された線路を走ったところでさ、なんにもまずいことなんかないだろうに」

「それはそうだろうがもう決まったことだ、決まったことがそのとおりに運ばないのは、良くないんだ、理屈じゃねえ、そういうもんだ」

「だけどさ、このままだと地獄に行き着いちまうからって線路を切り替えるってのならおれにも分かるさ、それは道理だ。だけどこのままだっていろいろとうまくいってるじゃないか、なんだってこんなあぶなっかしいことしてまで切り替えるのか、わからないよ」

「おまえに納得してもらおうなんて誰も思っちゃいねえよ、十九世紀はかくして終わりき! そういうもんなんだよ、重要な仕事だぜ、どこに名前が残るってわけでもねえがな、おれたちは謂わばドアノブみたいなもんさ、誰も気にかける奴はいねえが、それがないとドアは開かない、二十世紀は永遠に未来のままさ。少しはやりがいもでてきたか?」

「でないよ。おれは、いっそう何も考えずに汽車をぶっ飛ばす車掌になりたいよ。おれは不運だ」

「おれの不運は相棒がおまえだってことだ、さあもう文句言わずに働かねえか」

僕は線路際の藪の中に立ってこの奇妙な鉄道作業員らのやりとりを眺めていた。

「だめだ、どうしても届かない、それに腹が減ってきたよ、世紀を跨ぐことよりも個人の幸福とか、そういったことを考えてほしいね、おれはたった今パンが食いたいんだ」

「おまえの腹を膨らせて誰が特するってんだ」

「おれは詩を書くぞ、そのうちね」

「それで誰が特するってんだ、ちきしょう、出なおせるなら誰か別の奴を引っ張ってくるんだがな」

「あんたは連結されてない線路があることで幸福になれる人間なんだよ、そこがおれと違う。あんたはそれを見てもうそれを連結することで頭がいっぱいだ。壊れた人形でも壁に空いた穴でも爆弾で裂けた人間の躰でも、なんだって同じことだ。あんたはそれでたちまち幸福な人間になれるんだ。それをどうにかすることに頭を悩ませられる幸福を幸福とも思わずに幸福なんだ。おれはあんたとおれの間のこの何もない空間から詩を生み出せる、だからおれをこんなことにこき使うってのは、まちがってるよ」

「よくしゃべる相棒だ、わかったよこれが終わったら――」

そう言いかけて何かに気づいたらしく、男は身をかがめて線路に耳をくっつけた。そしてガバッ起き上がり「おい、来るぞ」と言った。

詩人の男もあわてて耳をくっつけると無言のまま立ち直った。

「やべえ。あんたの言ってることがなんだか分かってきたような……。これはやっぱり大切なことかもね。詩も大切だけどこれも大切だ。だけど本当に切り替えちゃっていいのかな。ねえ? もしもうまくいかなかったら……」

「おい」男がそう言って片手を伸ばして詩人の胸倉を掴んだ。

「全力でやるんだ、たった今から。そら!」

偉大な二十世紀がこんな力技でやってくるなんて知らなかったと思いながら、僕は藪の中からじっと見ていた。なんにしろ彼らは成功するのだ。その時ふと後に誰かの気配を感じ、おそるおそる振り向いてみると、そこにはシルクハットをかぶった背の高い男が立っていた。その立ち姿だけで、なぜか僕は彼が紳士であると決めつけていた。左手はコートのポケットに手を突っ込んで、右手には変てこな形の瓶を持っていた。なぜか、僕はその瓶に惹きつけられて、じいっとそれを凝視していると、「そろそろ行こうか」と男が言った。僕は何か言おうとして男を見たのだが、暗がりの中にぼんやりと見えたその顔にぎょっとしてすぐに目を伏せた。崩れた廃屋を思わせる顔。だけどそのショックよりも、すぐに心はまた男の持っている瓶へと惹きつけられていた。僕は怖がっているのだな、と冷静に自分の心境を分析しながら、その原因といえば皆目検討がつかなかった。こんななんでもないとこころから、いろんな形で、僕を捕らえようとする何かがやってくる。「まだ行かないよ」と、奮闘を始めた鉄道作業員たちを見ながら言った。「行くんだよ、あの子がこないんじゃあ、もう意味はない」紳士はそう言った。「あの子って?」思わずそう訊くと「女だ」と言って軽く舌打ちした。僕は彼の口から女という言葉が出てきたことにも舌打ちをしたことにも意外さを感じた。僕が想像していたような紳士ではないのかもしれない。「女って、誰のこと?」鉄道作業員たちを見ながらそう言うと「女は女だ。楽しみとか幸せだとかいうものより、いつもトラブルのほうを余計に運んでくるんだ。どういうわけかな」と男の言う声が聴こえた。崩れた顔面を持つ彼がどのような恋愛を経験するのかということは、ほとんど僕には想像がつかなかった。鉄道作業員に目をやると、二人は額から汗を垂らしながら、線路を切り替えようと懸命だった。その時踏み切りの音が聴こえたのでそのほうに目をやると、降りかかった踏み切りを二台のタクシーが渡っていくのが見えた。汽車は迫りつつあった。ガタゴンゴトンというリズミカルな音が闇の中から聴こえてきた。それと同時に微かな振動が足元にも伝わってくる。二人の作業員の動きが目に見えて慌しくなり、音は物凄い勢いで接近しつつあった。辺りの草むらが白いライトに照らし出された。風のない夜気の中でそれらはざわざわと揺れ動いていた。僕は作業員達を見届けたいのと、脅迫的な汽車の音から逃れたいと思う気分の狭間で、ふと紳士の持つ瓶を思い出して振り返ってみた。足元に瓶がごろんと転がっていて、彼の姿は何処にもなかった。


 ふと目を開けた。男が大きな布で隠した女の死体を気にかけつつ、冷静を装って訪れてきた客を応対している。まだ誰も彼の恐るべき狂気には気づいていない。僕は少し疲れを感じてラジオを切った。ノイズが止むと共に、部屋を満たしている闇がほんの少し重くなったような気がした。キッチンに行ってもういっぱいウイスキーの水割りを作り、またソファに戻って横になった。何か、気がはやる。そう思うと同時に、迫りつつある汽車が脳裏に甦った。辺りが強烈な白光に照らし出される。心臓が一つ大きく打った。怖れを感じ、そのくせ僕はまだそこに留まりたいと思っている。それはやはり快楽を含んでいるからだ。本当の快楽は恐怖や苦痛といった相反するものを含み、それと容易に溶け合う。物理的世界にあってはならない矛盾、その矛盾そのものがここでの法則の根底にあるのかもしれない。

溶けた氷がグラスの中で微かな音を立てた。再びラジオのスイッチを入れた。


 醤油の色に染まった大根に箸を刺すと、すっと貫通したので、女は火を止めて鍋に蓋をした。もうじき電話が鳴るころだ。女は洗い棚の食器が乾いているのを見て、それらを布巾で拭き始めた。一つ拭いては背後の棚の所定の位置に入れていく。慣れたこの空間でのこうした作業は何か心休まるものがあった。家事が苦痛だと思ったことは一度もない。それもこの家がよほど気に入っているからだろう。そんなことをぼんやり思いながら、夫とこの借家を見つけた時のことなんかを思い出していた。満足のいく家がいっこうに見つからなくて、しまいに夫が投げやりな態度になりつつあった頃、そんな夫をなだめながら毎日のように不動産屋を回って、それでも収入などの審査でだめだったりということを繰り返しているうちに、もう私達に借りられる家などないんじゃないかなどと思い始めていた。だいじょうぶだよ、見つかるんだから、とその頃の自分に会いにいって、そう声をかけてやりたいと思う。「君はご飯の匂いがすると必ずやってくるね」女は足元にすりよってきた猫にそう声をかけた。猫は目を細めて小さく鳴くように口を開けた。「だいたい君がいるから部屋探しだって手こずったのよ、君がいるおかげで家賃だってふつうより一万円くらい高いんだから」愛しそうに猫を見ながらそう言って、突然思いついたように慌ててレンジの横のケイタイを開いた。ちゃんと通常モードになっているのを見て、安心してケイタイを閉じた。「今日は遅いみたいだから、君は先に食べちゃおうか」そう言ってエサを小皿にあけて床に置いてやった。ごはんも炊けたようだし、と独り言を言って女は居間に行ってテレビをつけた。日々は平穏だった。夫が平穏を運んできてくれたのだと、女は思った。独りは生まれつき苦手だった。それでも独りで三年暮らし、そんな時ふとしたことで夫と出合った。専門学校の友達の一人に人を呼んで騒ぐのが好きな子がいて、いろんな名目を作ってはしょっちゅうパーティーを開いていた。そんなパーティーの一つで、彼女の友人の一人としてやってきた彼と出会った。全てはそこから始まったのだった。そう思うと彼女には感謝なのだが、もう今では音沙汰がなくなっている。連絡をとらなくなるような何かがあったには違いないのだが、それじたいよく思い出せない。それでたまには電話してみてもいいんじゃないかと思いはするが、年月が経つにつれて億劫になり、すっかり遠い人になってしまった。こういうことはよくないな、と彼女のことを思い出すたびに思う。食事を終えた猫がソファに座っている女の膝に飛び乗った。その時玄関のベルが鳴ったので猫を下ろして立ち上がり、廊下をつっきって玄関のドアを開けた。夫ではない若い男が立っていた。肩には見たことのない鳥を乗せていて、女は内心で自分のうかつさを叱った。怪しげなその男を見て、必ずチェーンをかけてから開けろと夫から口を酸っぱくして言われていることを思い出した。だけど男は見るからに背も低く華奢で、いざとなれば撃退できると思いなおし、女は「あの、どちらさまで」と声をかけた。「ニュース、見ましたか」男がそう言った。「あの、どちらをお訪ねですか? うちは――」「まだ見ていませんか」男がそう言うので「すみませんが、ちょっと今は忙しいものですから」そう言って身を引き、そっとドアを閉めた。覗き穴から見ると、もうそこには誰もいなかったので、ほっとして居間に戻った。近頃はおかしな人が多いっていうから、今度からは気をつけよう、相手が相手なら、ああやって開けたことで、とんでもないことが起こっていてもおかしくなかったんだから、そう自分を叱責しながら女はケイタイを開いた。まだ着信もない。そろそろ十時だ。女は夫に簡単なメールを一本打ってからまたテレビを見て、そのうちにうたた寝を始めた。ニュースが始まっていたので、僕は女を起こしてやるべきだろうかと一瞬考えたが、それはできない相談だった。声をかけることはできないし、その肩に触れることすらできないのだから。僕は影以下の存在で、僕が自分でここにいると思っているだけで、世界にはいっさいの影響がない。時計が十一時を指し、女はソファに座ったまま微かに寝息を立てていて、猫はその膝の上で毛づくろいに余念がない。ずつと鳴ってはいるのだが、あの千枚の枯葉を擦り合わせたような音が耳につくようになってきた。君は実在か、と僕はその女に訊いてみたかった。一瞬、完全な静寂があったかと思うと、またすぐにノイズは天井の裏辺りから響いてきたが、なんとなくそれは別のものに切り替わったように思われた。


「お早いお上がりで」などという皮肉を聞き流して男は六時きっかりに会社を出て、都心部にある大きな文房具店の中をうろついていた。二年前に別れた女と週に何度も電話やメールのやりとりをしているというのは異常なことだろうか、などとぼんやり思いながら、男はポストカードのコーナーで物色しはじめた。一日に一度はそんなような反省や自分への懐疑が頭を巡るが、そんな常識的な思考は、胸を焦がすような女への想いで、いとも簡単に流し去られてしまう。先週電話で話した時に彼女が欲しがっている洋服を知って、その次の日にはデパートにそれを下見に行っていた。マネキンが優雅な立ち姿でその洋服を披露していたが、こんなマネキンではなく彼女が着ればもっと素晴らしいだろうと思い、心が昂ぶった。その昂ぶりはすぐに経済的理由によって撃沈し、男はタクシーを拾って家に帰った。だが一晩ベッドで考えた挙句に、こういうことに貯金を崩すのは悪いことじゃないという結論に達した。そして翌日仕事がひけるとATMでお金を降ろし、真っ直ぐにそのデパートに向かった。だがどういうわけか昨日とは違うマネキンが立っていて、着ている服までもが変わっている。店員に問い合わせると、何か具合の悪いことでも訊かれたみたいな態度で、言っていることがまるで不明瞭だった。それでもしつこく尋ねると、売れ行きが芳しくないので取り替えたのだということだった。その洋服を扱っている店が他にもないかと訊いてみたが、店員は知らないとあっさりと言って立ち去ってしまった。元々洋服のことなどあまり興味のない男は、それ以上に自分の力で探しだせる自信はなかった。それにあまりに高価なものだし、こういうものはタイミングなんだ、と自らを慰めて諦めることにしたのだった。男は事の次第をハガキに書いて女に送ってやろうと思い立った。電話やメールよりも、誠実な印象を与えるだろうと思ったからだ。

ポストカードだけで一つの棚がいっぱいになっている。男は目に付くものを手にとっては戻し、しばらくその棚の端から端へ行ったり来たりしていたが、そのうち引き抜いた一枚のポストカードに惹かれたのか、新聞でも読むみたいに目を細めてしばらくそれに見入っていた。それは何処かの海辺に立つ電波塔の写真を印刷したものだった。おそらくそれは外国で、空の色から察するに夜明け時だ。海辺に電波塔が建っていて、その少し手前にコート姿の男と少年か、あるいは青年が映っている。ポストカードの被写体としてはどうなんだろうか、などと批評精神を発揮しつつも、なぜか惹かれるものがあった。それは無数のポストカードを見て比較した結果として、男の心を惹いただけかもしれなかった。ほかのは何か派手すぎたり、可愛いすぎたり、へんに気取っていたりしてしっくりこなかったが、これなら少なくとも笑われることはないだろう。それに大量に揃えてあるほかのカードと違って、このカードは手にとっている一枚きりのようだった。無骨といえば無骨、それにどことなく不気味なようで、美しくもないしロマンチックでもないが、他のカードよりは年相応だ。そう結論して、男はそれを手にレジに向かった。

帰って夕飯を食べたあと、男はポストカードとペンを手に机に向かった。だがいざ机に向かってみると、さて自分はいったい何を書こうというのかと思った。洋服を買ってやれなかった言分けを書いて、いったいなんの意味があるのか。男はペンを置いて考えた。しばらく考えて、かわりに詩の一つでも書いて送ろうと思い立った。そして再びペンを手に取ったが、今度は言葉がいっこうに浮かんでこなかった。長いあいだ怠けていた罰だな、と独り言を言った。何事でも、毎日コツコツと続けていくことが大切なんだ。それが詩だとしても同じことだ。ある日突然流れ出すように言葉が溢れ出てくる、なんてことはない。巷にはそういう奇跡は溢れているようにも見えるが、それは長い間の下積みが目に見えないから、そう見えるだけなのだ。本来自分はこういうことをコツコツとやるべき人間だった。そう思った瞬間、それをしなくなったことと、彼女が去っていったことが、はじめて無関係ではないように思われた。それはすぐに確信となって男を呆然とさせた。彼女は自分が信じているよりもはっきりと、わたしの才能を信じていた。貧乏にも耐えられる女だった。わたしは見当違いな努力をして、彼女にいろんなモノを買ってやることで満足していたが、彼女はそれらをすべて置いて出て行ってしまった。男は瞑想するように閉じていた目を開き、しっかりとペンを握ってポストカードに向かい、何時間もそうしていた。易々と言葉は出てこなかったが、一枚のカードに書けるだけの文字で、自分の遅すぎた悟りと、まだ枯れてはいない情熱を女に証明してみせようと、男は机の前から離れなかった。ワンピースがなくなっていたことに感謝しないとな、と呟いた。それにしても、売れ行きが悪かったのはわかるが、それで次の洋服を着せるのにマネキンまで取り替える必要があるのかな、と言葉を模索しつつ、頭の片隅でそんなことを考えていた。


 ケイタイのけたたましい着信音で目を覚ました。名前は出ていない。放っておくと六回鳴ったところで切れた。留守電にも何も入っていない。テレビでは狂人から娘を隠そうと懸命な父親が、やつれた表情を見せている。ウイスキーを一口飲んだ。点滅するラジオのランプを見、電池を買っておくこと、とメモ書きをして、再びノイズの海に身を沈める。


 もう見つかるわけがない。そう何度も思いながら、結局あたしは何時間歩き続けたのかしら。あの人を想う心が疲労によって立ち消えそうになった矢先、あの情熱的な踊りを見てしまって、あたしの心はすぐに感応した。あたしには踊るなんて到底無理なことだから、それで尚更あたしは食い入るように見てしまった。死んでる人が大勢いて、立ってるだけで特別に思えるあんな場所で、あんなに素晴らしく踊ってるものだから、あたしは救われたのか、打ちのめされたのか、よく分からない気分で、ただ踊りを見つめていた。途中から、踊り終わったあとの二人はどんなふうに見えるんだろうって、そっちのほうが興味が湧いて、じっと粘って見てたけど、いつまでたっても二人は踊りをやめなかった。しまいには拡声器から鳴るタンゴも終わってしんとしちゃったのに、それでも踊ってるんだから……。立ち去る時は、静けさのあまり、自分が踏みつける瓦礫の音が一々響き渡って聴こえた。ふと足元を見ると携帯電話が落ちていた。持ち主はきっとその辺りで死んでいる誰かだろうと思い、あたしはそれを拾って適当な番号をダイアルしてみた。応答はなく、そのまま留守番電話になったけど、何も吹き込まずに電話を切った。電話をかけるっていうのは動作のうちでもごく簡単なほうだ。その時のあたしを見れば、誰だってあたしが本物の女だって思うに違いない。

ここは、国道っていうのかしら、こんなに大きな道は車もすごいスピードで、ちょっと怖いようだけど、休憩できるレストランなんかはあるかもしれない。薄紫の空に鳥が飛んでいく。あれは何々だって、すぐに鳥の名前が言えたら素晴らしいだろう。びゅんびゅん飛ばしていく車ばかりかと思ってたら、道の脇で停まってるトラックがある。変な角度で停車していて、車体も泥やなんかが何層にも重なったまま乾いていて、もしかすると廃車として不法に投棄されたものかもしれない。そう思って近づいてみると、運転席には男の人がいた。ぐっすり眠っているのか死んでいるかのどっちかだけど、どっちでもいい。レストランは見当たらないし、足の疲れも限界で、空いている助手席のシートがふかふかのベッドのように見えた。

ドアは難なく開いた。やっと足を伸ばせる。助手席でくつろいで、今にも眠りそうなのに、何かが寝かせてくれない。あの人を追いかけてショップを脱走して、結局見失ってこんなところで休んでるものだから、心が鬱屈して、何かを吐き出そうとしているのだ。後部座席に空き缶やスナックの袋なんかにまぎれてノートが一冊あった。

なんでもいいんだから、ともかく何か書くのよ。ほんの数行でもいいから。そしたらきっと眠れるでしょう。立派な文章なんて書けないけど、そんなのはかまわない。眠るために書くんだから。


彼女は文章なんて書けるんだろうか、などと余計な心配をしながら、突如心地よい浮遊感が躰を包み込む。夜気に翼をはためかせる。


 彼らはあれでもなんらかの意味があると信じて、ああして管の山脈にへばりついて働きどおしなのだ。上から見るのと下界から見上げるのとでは何もかも違う。昔、まだ月が台座の上に浮いていた時分のこと、やっぱりその台座を支える支柱にも人が群がっていた。地上から天に伸びるその支柱の上に円形の台座があって、月はその上に浮いていた。それが彼らは気に食わなかったのか、あるいは怖かったのだろう。最初はなんらかの思想があって、あれらもああして支柱にへばりついているものだと、そんなふうに思ってもいたが、おそらく彼らが考えていたのは、その支柱を切断せしめること、それだけだった。おれだって翼を休めに草っぱらに降りたとき、あの管の化け物には圧倒されそうになった。彼らがへばりついているおかげで、あれはああして化石のように動かないでいてくれるのだと、おれだってそう信じかけた。それから上空に羽ばたいてしばらくそのあたりを旋回しながら、おれを不思議そうに見つめる少年を見ていた。仮にあの子が銃を持っていたところで、あの子はおれを撃ち落としたりしないだろう、おれは勝手にそう思っていた。なぜならあの子はおれがこうして飛んでいるのを見ながら、それを信じていないからだ。なぜだかは分からないが、あんな子供ですら、近頃はいっぱしに複雑なのだ。あんな鉄の山脈が目の前に聳えているのじゃ無理もない。おれは優雅に旋回してみせてから、もうそこから飛び去っていった。

二日前、夕暮れになってから、いつものとおり欅の枝に止まって、彼の帰りを待っていた。だがそのうち日が暮れて、やがて夜中になって通りを歩く人もいなくなったが彼は帰ってこなかった。彼に女でもできたかと想像することはほとんど不可能だった。なにしろ彼は女どころか友達すらろくにいなさそうで、心にひっかかっていることや、職場での不愉快な出来事などを逐一おれに話すのだ。おれを心底愛しているからか、あるいはおれが何も分からない馬鹿だと思ってるからそんなことをするのか。だけどおれはそんな時に眠ったふりをしたり、何処かへ飛んで行ったりは決してしなかった。何年も前に近所の子供が撃った空気銃の弾が直撃したことがあった。おれは翼から血を流して地べたに蹲っていた。その時たまたま通りがかった彼はおれを両手に拾い上げ、心ばかりの素人治療で終わらせずにちゃんと病院まで連れて行ってくれたことを、おれは忘れることがなかったからだ。だから彼が無遠慮になんでも打ち明けてくると、目をぱっちり開けて、彼に頭や翼をさすられるままにしてやった。おれはおれで、孤独な気持ちを打ち明けてみたいと思うこともあったが、何しろむこうは何一つ理解できないだろうから、それは無理な相談だったが、ともかくおれの彼に対する感情といえば最初は彼の孤独への憐れみ、それから馴れ合い、そして知らぬまに愛情のようなものまで生まれていた。そのうち彼が得意になっておれを肩に乗せて、わざと知り合いに道で行き当たるなんてことをやりだすようになり、それにはいささかうんざりもしたものだが、またそれによって彼はただの孤独者の時よりもいっそう怪しげな人だという評判を得るようにもなっていたが、そんな世間の評判はどうあれ、おれと彼は特異な愛情で結ばれていた。彼がおれに見切りをつけないかぎり、おれから彼のもとを去ろうということは決してない。おれは時にうんざりしたりもしながら、やはり彼を愛しているのだが、それでもある日エサを待っていると「そこで何をしているんだ」とあたりまえの顔をして彼が言うことを心のどこかで怖れていたりもした。それはまるで意味のない恐れだと分かっていつつ、一度そういう経験をしたものは、たぶん死ぬまでそういう根拠のない恐怖を心のどこかに抱え込んでしまうものなのだ。経験とはいったが、誰も残酷な心変わりをしておれを捨てていったなんてものはいない。おふくろはある日家に帰ってこなかった。最初の三日はただただ心配して過ごし、その後の三日は、なぜだか分からないが自分は捨てられたのだと、ほとんどそう思い込んで過ごした。そしてその翌日に、バス停の前でトラックに轢き殺されたということを知ったのだが、疑いということが心を占めて過ごした三日間は、その後もおれが誰かを愛しいと思うたびにつきまとう卑屈な心のくせとして残った。

 二日前から彼は帰ってこないままだ。おれはそのことを深く考えまいとしながらも、そのことばかりを思って飛び続けた。民家の建ち並ぶごみごみとした町を抜け、いま眼下には国道が走っている。こんな夜更けに、ひっきりなしにライトをつけた車が飛び交っていく。光る細胞が動脈を走り回っているみたいだ。道端でとまっているあのトラックは動脈が血栓を起こす前兆だ。そのトラックの窓から何か白いものが、風に乗ってひらひらと飛び出した。紙切れのようだ。メモ書きか、手紙か、あるいは公共料金の領収書か。

国道を逸れて山間部を抜け、また何処か別の都会に辿りついた。煌々と灯る夢幻のような灯りの渦、これを見るとおれは、山を切り裂いてまで国道なんてものをこしらえる人間どもに、つい心を許してしまいそうになる。なぜだろうか。夜景の美しさと彼らの本性は関係のないはずだが。

今夜はなにか夜の澄んだ空気の中に異質なものが混じっていて、そろそろ何処か人目につかない木立の中で翼を休めようなどと思いつつも、気分が高ぶって飛び続けている。といっても何かの予感だとか、そういったものがあるわけでもないのだが、その異質なものに思考を乱されている気がする。考えを誇張させ、惑わせ、心をさまよわせる。そんな何かが、漆黒の大空を乱れ飛んでいるようだ。

街の真ん中ではまだ多くの人が行き交っている。眼下の十字路に立つ大きなバーに恋人同士が扉を開いて入っていくところだ。と、店内のカウンターの端で一人飲んでいるのは彼ではないか。三日も家に帰らない理由を探るよりも、おれは自分の心の高揚のままに行動した。扉の閉まらないうちにとカップルの後ろから猛スピードで店内に飛び込んだ。人々のどよめきも気にせずに突っ込んでいき、ランプの上にうまく着地した。店内を一望できるその場所で彼を探したが、パニックを起こして右往左往する人々のせいで、いっこうに見つからない。一緒になって彼も慌てて逃げ出そうとしているのかもしれない。おれをおれと判別できないほどに酩酊しているのかもしれぬ。おれはランプの上で首をくるくる動かした。視界に写る人々の顔に目を凝らしていたせいで、おれはまるで気づかなかった。気づいた時には手遅れだった。この眼球の三センチほど手前に、宙を切り裂いて飛んできたワインボトルの先端が、唸りをあげて――。


蝉の電気的な大合唱が大空に裂け目を入れ――


庭で遊ぶ娘を気にかけながら、大柄な女が洗濯物を干している――


何処へ行っても最後尾の見えないような行列――料理屋に、郵便窓口に、電車の昇降口に、彼の部屋の扉の前に――


幼児の老人めいた気管支


永遠の空席


首元に、見え隠れする継ぎ目


鳥の飛行を妨げる、何か異様なもの


配置され、踏みつけにされる仲間達


田舎の宿の、異常な賑わい


うまく風に乗った手紙


轟音ばかりで、実態の乏しい汽車


酩酊と光の坩堝


 濁った雪崩のような音がブチブチと切断されはじめ、赤いランプが何かの警告のように点滅している。映画も終わってテレビの画面も真っ黒になっているが、どのみちまだ眠れそうにはない。僕はパーカーを羽織ってポケットに財布を突っ込み家を出た。

永遠のような顔をしていながら、いつもあっさりと明けてしまう夜。だが夜明けまではまだしばらくありそうだと漆黒の空を眺めて思いながら、僕は歩いて五分ほどのコンビニに向かった。新聞配達人が自転車を飛ばして追い抜いて行った。自動ドアが開いて中に入ると、姿は見えないが「いらっしゃいませえ」と、今が真昼であるかと錯覚するような威勢のいい挨拶が聞こえる。誰もいない店内をぶらぶらと回り、単三電池の二本パックとノンアルコールビールを片手にレジに行くと、カウンターの奥から店員が出てきた。「130番の煙草も一つ」と言って千円札を出し、釣りをもらって店を出た。

心地いい夜風が吹いていて、コンビニの前の駐車場で一服しようと煙草を取り出して火をつけた。街路樹がざわざわと音を立てているが、それは枯葉を擦り合わせている音のように聴こえた。時折り走り去る車を見るともなく見つつ煙草をくゆらせていると、背後でコンビニの自動ドアが開いて閉まった。

「煙草、一本くれない?」

肩越しに女の声がそう言うので、僕は一本取り出して、陶器のように白い女の指の間に挟んでやった。



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