水面の声
長すぎる大学の夏休みを持て余し、避暑がてら先輩を連れて渓流まで散策に来た。都心からさして離れていない場所であったが、熱気のこもる街中とは気温がだいぶ違う。草葉の間を通り過ぎる風も清々しい。
「とは言え心霊スポットでもあるわけですが」
「どんな噂があるんだっけ?」
「釣り人周りで有名らしいですが、何かに呼ばれたり足元を掬われたり定番な感じですね。オカルト抜きで事故も多い場所なので水の中に入るのは厳禁です」
「うん。流れも速そうだもんね」
木漏れ日が降る道のりをひたすら歩く。沢の隣は遊歩道として整備されており誰でも気軽に散策できるようになってた。時折近所の住人や観光客と思しき散策者とすれ違うこともあったが、今日の客足は少ないようでとても静かだ。
ふと先輩が足を止める。
「どうしました?」
「……何か聞こえない?」
先輩は被っている鍔広の帽子の縁を耳にかざしている。音を探っているようだ。その視線は轟々と響く沢の方向へと向けられる。
「何か“おーい、おーい”って男の人の声。助けを呼んでいるみたいに聞こえる」
「……誰も見えませんが」
「……流されて溺れかけているのかも。少し降りて様子見てくる」
遊歩道を外れて川岸へと降りようとする先輩を慌てて引き止める。履いているのは滑り止めもろくにない安物のスニーカーだ。水に入らなくとも岩場だらけの川岸へ降りるのは危険過ぎる。
「取り敢えず、もう少しここから様子見てみましょう」
不安そうな様子の先輩を腕を掴んで制しながら沢の方へと意識を向ける。
『おーい、おーおい』
確かに、水の流れる音に混じって幽かに人の声のようなものが響いている。どこか胡乱なその声は、ずっと聞いていると心の奥底から不安な感情が浮かび上がって来るようだった。
「あそこの……岩場辺りでしょうか」
目星を付けたのは、木の陰が落ちて暗がりになっている岩場だった。不思議とそこだけ妙に水の流れが停滞しているように見える。
「人じゃないけど、何か見えますね」
目を眇めて凝視すると、川面に大きな黒い影が確認出来た。胴が長くゆらゆらとうねっている。一抱えもある巨大な鯉だった。
「……鯉?」
その鯉は餌をねだるように口元を水の面へと出してぱくぱくと動かしていた。緩慢なその動きから先程から聞こえる『おーい』という声が重なっているように思える。
「何してるの?」
唐突に声を掛けられた。驚いて振り向くと初老の男性が不思議そうな表情を浮かべて立ち止まっている。部屋着かと思うほどの軽装で、散歩に出てきた近所の住人かと思われた。
「あの……何か声みたいなのがあの辺りから聞こえて……」
先輩がおずおずと岩場の方向へと指を指す。男性は視線を指差す方向へと向けると「ああ」と一言呟き何かを足元から拾う。小石と思われるそれを軽く振りかぶると例の岩場へと向けて放り投げた。
小石は綺麗な放物線を描くと見事に鯉が泳ぐ辺りへと落ちる。ボチャンと大きな音を立てて鯉は水底へと逃げていった。
「あの辺りね、歩いていくと急に深くなるから。何があっても水の中入っちゃいかんよ」
そう言ってすたすたと歩いて行ってしまう。
もう、例の『おーい』という声は聞こえなくなっていた。