半年前
あれは今から半年前の話―――
「執印君、このミスは、きみの責任だからね。」
「えッ、でもその資料は三坂君の仕事で…」
「きみの後輩なんだから、チェックを怠った君の責任だろう‼」
「あッ、はい… すみませんでした―…」
後輩のミスを押し付けられ残業…。こんなのよくある事だ。そう自分に言い聞かせて、作業を進める。少し気分転換に、コーヒーでも飲もうかと席を立ちオフィスの外れにある自販機へと向かったすると、
「三坂~、あんた執印先輩にまたミス押し付けたの? サイテー」
最低などと言いながら、笑い話にしている後輩の同期がいた。
「あの先輩何も言わないし、仕事好きなんじゃない? もっとイヤならはっきり言えばいいのに、だから俺は先輩が言えるように手伝ってやってるんだよ。」
自分のミスを棚に上げて、ああも恥ずかしげもなく話している後輩たちの姿にドッと疲れがのしかかった。もう早く終わらせて、帰ろうと席を立ちあがったことを後悔した。
何とか終電前に仕事を終わらせて、今日の夕飯をどうしようかと、帰り道の途中にあるコンビニに立ち寄った。残っているお弁当を見ながら、軽めの物をチョイスしてレジに並んでいると、後ろに並んでいた酔っ払いであろう中年男性が、
「あぁ~、イヤだイヤだ。いい年した女が、自炊もせずにコンビニ弁当なんて。どうせ独り身なんだろうな~。まぁ、こんだけ色気も無ければ、男が寄ってこないか。」
ハハハッ、本人はほろ酔い気分なので気づいていないかもしれないが、それなりの大きさで話しているので、店内にいる人間には丸聞こえだった。そして、店内に女性は私しかいない……
店員さんに温めを聞かれたが、早くこの場を去りたくて断り急ぎ足で店を後にした。しばらくあそこのコンビニ使えないな…
今日は厄日なのかと思いながら帰ったら、いつもは勿体なくて遠慮しているが、今日は浴槽にたっぷりのお湯をはってお気に入りの入浴剤を入れてリフレッシュしようと気持ちを切り替えた。
その時、鳴ったスマホの着信音―― 相手を確かめずに取ったのが悪いのは、わかっている。それでもあの瞬間の私は、それだけ打ちのめされ、いろいろ疲れていたのだ。
相手は母だった。
「友花、やっとつながった。」
電話口から聞こえてくる母の声色で、なんとなく察してしまった…。
「どうしたのこんな時間に… 」
私がそう尋ねると、待ってましたと言わんばかりに、
「今度、優一さんと旅行に行こうと思ってるんだけど、ちょっとお金が足りないみたいなの。今度返すから、いつもの所に30万振り込んでてくれない?」
自分の彼氏との旅費を娘に強請るなどどう考えてもおかしい。それに、
「お母さん、半年前も30万貸してって言って、まだ返ってきてないのに、本当に返す気あるの?」
私が、ため息をつきながら、そうこぼすと、
「大学まで行かせてあげたのに、ちょっとくらい親に返してくれても、いいじゃない‼ 」
高校の頃は、なけなしのバイト代を貸してと言われ、返ってこず。大人になり実家を出て解放されたと思っていたのに、請求される金額が増えただけだった。大学も奨学金で行っていたので、私が今も返済している。
しかし、こうなると電話を切っても、しつこい位かけ直してくるし、一度は職場まで連絡が来たことがある。
「わかった、いつもの所に振り込んでおく…。」
「あぁ、友花ありがとう。お土産楽しみにしててね~。また連絡するわ。」
上機嫌で電話を切った母とは対照的に、もう何も考えたくなかった。一人住まいのマンションに着き、誰もいない廊下を歩き部屋のカギをカバンから取り出す。
カバンの中を泳いでいるカギを手探りで探しながら、自分の人生を振り返る。
物心つく頃には、母と二人だった。父親の事は、母も話したがらなかったので、聞いたこともない。
私の性格は、母に似ずルールは守るためにある。が心のどこかにずっとあった。廊下を走ってはいけない。先生の言う事は聞きなさい。スカート丈はひざが見えてはいけない。髪は結びなさい。
言われた通りにやって来たのに、社会に出たら、自分で考えなさい。もう君は大人でしょう? こんな事も解らないの? 誰も教えてくれなかった事ばかりだった…。
頼れる家族がいれば、友人がいれば違ったのかもしれないが、私が育った町は小さな田舎町で、奔放な母の評判はみんなの知るところだったため、気の許せる友人は出来なかった。
学生時代がそんな感じだと、社会人になってから友人を作るなんて、もっとハードルが高かった。
やっと見つけたカギを、カバンから取り出した。首にかけられるようにと、アンティーク調の紐をつけてみたが今の所、活躍する機会がないと思いながらカギを開けて部屋に入る。
迎える人間の居ない、空気のこもった部屋。子どもの頃からなので、慣れたもののはずなのだが、ときどき本当に時どき、無性にこの世界でたった一人なのではないか と思う瞬間がある。
電気も点けず、片手にカバンとコンビニの袋を持ち、もう片方の手に家のカギを持って、パンプスも脱がず虚空を見つめながらそんなくだらない事を考える。
その時 不意に手の力が抜けてカギを落としてしまった。暗闇に慣れた目で玄関の足元を探ると、手に固い感触。カギを手に、しゃがんでいた体制から立ち上がると、目の前に広がるのは 私のアパートの玄関ではなかった…。