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きれいなものをきれいだと ー10代最後の叫びー

作者: 広瀬壮真

目に映る多くの黒色。それらが右へ行ったり左へ行ったり。彼女の名前があちらこちらで聞こえてくる。その声はどれもか弱い子猫のようだった。


僕は手に持っている彼女の日記帳を見つめる。淡い青色の見慣れた表紙は、無表情で僕を見つめ返す。二人の家の机の上にあったものをいつの間にか持ってきてしまっていたようだ。

「みんなどうしたんだろうね、小春。」

握り締めているその日記張に話しかける。返事がない。

窓の外に目を映すと、いつもと何も変わらず、生きた葉っぱが揺れていた。


僕と彼女が出会ったのは、2年前のことだった。

新しく始めたバイト先。

そこにいたのが小春だった。

遠藤小春。18歳の高校生。

「初めまして。遠藤です。」

そう言って笑う彼女に僕は惹かれた。単純に、顔も雰囲気も、タイプだった。

僕と小春はバイトで会った時、よく話すようになった。そこから僕は勝手にラインを追加して、連絡をとった。電話をするような関係になるまでは早かった。バイトの終わる時間が同じ時には、一緒に駅まで帰るようになった。

小春はよく笑う子だった。人当たりもよく、バイト中はみんなと楽しそうに話している。そんな姿も可愛らしかった。

でも僕は、彼女の時々見せる、辛そうな、苦しそうな表情を見逃さなかった。と同時にそんな部分にも惹かれていたのかもしれない。

この子は何か隠している。直感に近い確信を持った。

そんなことを感じていた最中、その「何か」を知る日がきた。それは、いつものように小春とバイト帰り、歩いて帰っていた時だった。いきなり公園の前で小春が立ち止まった。

「ねえ、公園寄りたい。話したいことある。」

そう言って真剣な顔で僕の顔を覗き込む。

なんだろう。

普通の人はここであれこれ考えるのだろうか。僕の思考は単純だと思う。いつもこの程度だ。考えてもわからないことは考えない。

「うん。良いよ。あのベンチ座る?」

指差した方向を見て小春が頷く。

ベンチに座ると、小春はまだ俯いたままだった。二人でいる時、バイト中とは打って変わって、小春はいつも悲しそうな表情で地面を眺めている。

「うーん。このこと誰にも話したことなくて。私が東京から福岡に来た理由にも関係してるんだけど。」

小春が高校生にして実家のある東京から一人で福岡に来たことは知っていた。でも理由までは知らなかった。多分誰も知らないだろう。

「うん。」

相槌を打ちながら、次の言葉を待つ。

「私、付き合ってる人いるんだけど、依存してて、他にも彼氏自身に敵対心があったり、色々あるんだけど。そのせいで東京で通ってた高校も行けなくなっちゃって。」

「うん。」

「彼氏のこと、多分恋愛として好きじゃないんじゃないかって思う。家族というか。でも離れられたらって恐怖から依存もしちゃう。一番辛いのが、彼氏の周りの女の子に対してじゃなくて、彼氏自身に嫉妬すること。でも依存してるから離れられなくて。」

「依存かー。なるほどね。」

「心療内科に通ったり。自分でも、なんで依存したり敵対心を持つのか。とか、分析して考えたり、本読んで調べたり。色々分かったことはあるし、自分の性質とか考え方の原因もわかった。周りからの正論も、客観的な意見も、たくさん知ってる。でも、理解はできるけど、治るかと言われたら治らない。最近は、この状態から抜け出すにはね、病院とか自分の中で考えるよりも、色々な人との出会いとか、自分の世界を持つことが解決に繋がるって考えになって。なんていうのかな、理屈よりも、感覚というか。それでこのバイトも始めたんだ。」

「うーん。なるほどね。」

「ごめんね、こんな話して。初めて人に話した。」

そう言って彼女は再び口を閉じた。

彼女自身、色々話しすぎたという感覚がありそうだが、僕にとっては全然そんなことなかった。むしろ人にはあまり言えない自分のことを全部話してくれて嬉しかった。

「そっか。話してくれてありがとう。」

これ以上言葉が見つからなかった。

「ううん。他の人には話せないから今日の話は内緒ね。聞いてくれてありがとう。」

そう言って曇った夜空を見上げる小春の横顔を眺める。街の灯りで輝く瞳。その奥に映っている邪悪なものを、全て取り除いてあげたい。幸せにしてあげたい。この時、そう感じた。

「言わないよ。」

「ありがとう。・・・あ、全然話変わるけど。」

「ん?」

「壮真は彼女いるの?」

笑いながら小春が言う。

「いないよ。」

僕も笑いながら答える。

「じゃあ、好きな人は?」

「うーん。小春こそどうなの。彼氏のこと好きじゃないんでしょ?」

「そうだね、うーん。」

少しの間の後、小春はこっそり答えた。

「気になる人ならいるかな。」

その言葉に、僕は思わず自分であって欲しいと願った。と同じくらい、いやそれ以上に、自分である自信も密かに感じていた。

「僕の知ってる人?どこで出会ったの?」

小春に自分かもと期待していることがバレないように、そして自分に期待しすぎるなとセーブをかけるように、慎重に冷静を装う。

「えー。それ言ったら絞られる。壮真の知ってる人だったらバイト先だけになっちゃう。」

「お願い。良いじゃん。」

「うーん。バイトの人だよ。はい、もう言わない。」

「えーここまで言って?誰だ、涼太?」

「違う。壮真はどうなの。壮真が言ってくれたら言うよ。」

「小春が言うなら言う。バイトの人だよ、俺も。」

「うーん。わかった。絶対言わないでね。・・・キッチンの人だよ。じゃあね、帰る。」

バイト先のキッチンの男子は僕だけだった。

小春は恥ずかしさでいっぱいというような顔と声を隠すように、下を向きながら前をスタスタと歩いて行ってしまう。

その後ろ姿を見ながら、嬉しさが込み上げてくるが、それを必死に、顔に出さないように、声に出さないように、走って彼女の横に行く。

「僕もだよ。」

「え?」

「僕の好きな人、小春だよ。」

小春の見せた、嬉しさと恥ずかしさの混ざった一瞬の表情。

そしてすぐにそれを隠すように、小春は下を向いて、

「ほんと?」

小さな声で言った。

「ほんとだよ。」

僕は優しく彼女の手を握った。そんな僕を彼女は、泣きそうな顔で笑って見つめた。



[2019年 1月15日]

今日はバイト帰り、壮真と公園で話した。

私は彼氏への依存のこと、敵対心のことを壮真に話した。とは言っても簡単に話しただけだから、半分も話せてないと思う。なんで話したか、私の辛さを知って欲しかったのかもしれない。そして相手に、重大な秘密を自分にだけ話してくれたと思わせることで、自分は特別なんだと思わせたかったのかもしれない。多分両方だ。そこでいつもの悪い癖が出てしまった。気になる人がいると嘘をついた。そして自分かもと思わせたところで、確信に変える。俺もだよ。壮真はやっぱり言ってくれた。よかった、他にも好きになってくれる人ができそう。



暗い空が明るい光に犯されて、鼠色に染まりかけている。

今日のバイトが終わり、帰り道、小春と駅へ向かっているところだ。

横を見ると、小春が目の前の点滅する青信号を、ボーッと見ていた。

早く僕が楽にしてあげたい。

「いつになったら付き合える?」

いつものように聞いてみた。もう10回は超えるだろう。

「うーん。早く付き合いたいけど、彼氏の家に住んでるし、別れたら家がなくなるから。お金が貯まるまでは厳しい。」

「そうだよね。」

小春とは、住む所の問題から、なかなか付き合えずにいた。

彼氏のことは好きじゃなくて、僕のことが好きなのが小春から伝わってきていたから、僕の中ではいずれ付き合うことは確定していることだと思っていたが、小春はどうなんだろうか。小春が毎回僕じゃない違う男の人の家に帰り、あれやこれやをしていると考えると、心が締め付けられそうな思いだった。両思いのはずなのに、片思いの気分だ。でも、住むところがなくなるのはどうしようもないことだからと、自分の理性を働かせて口を閉じる。それでも、早く付き合いたい。違う男の人と関わって欲しくない。そういう思いに急かされて、毎回この質問をしてしまう。それでも帰ってくる答えは毎回同じだった。小春が離れていきそうだ。僕は強く彼女の手を取った。握った手の温もりで彼女の鼓動を感じる。早くて今にも止まってしまいそうなその鼓動を、僕はひたすら握るしかなかった。



[2019年 2月10日]

壮真から早く彼氏と別れて僕と付き合ってほしいと毎回言われる。壮真には家がなくなるからと言っているが、私はまだ蓮と別れる決断ができてないのだ。蓮のことは恋愛として好きじゃないし、依存も敵対心もあって苦しい。でも、何より一緒にいて楽なのだ。蓮と付き合って3年近くになる。そして一緒に暮らして1年。初めの2年は遠距離恋愛をしていたが、苦しみに耐えきれなくなった私が高校を辞めて福岡に来たことから、蓮の実家での同棲生活が始まった。福岡に来てから多少は緩和したものの、それでも苦しい毎日だった。蓮は優しい彼氏だ。でも、私に問題があった。私は周りに評価されることで自分は特別だと幸せを感じる。趣味もなく周りに興味もなくただ一つのことに縛られてしまう。だから周りからの称賛でしか幸せを感じられない今の私にとって、東京の高校は苦痛だった。中学生までは友達も多く、モテると言われることが多かった。人より告白されたことも多かったと思うし、付き合うことも多かった。それでも私より人気者の子がいるとどうしようもない苦しみで縛られる日々を過ごしたが、比較的楽しい毎日を過ごしていた。1番愛される私に酔っていた私は、周りからもそう思われていると思うことでなんとか幸せを保っていた。でも高校は違った。女子校であり、進学校であったので、男子にモテるという比較方法がなくなった。残ったのは友達からの愛され度だ。でも、私より愛されている子がいた。これはあくまでも全部私の主観であり、勘違いかもしれないし、真実はわからない。でも、私はそう感じていたし、自分の感覚を信じていた。毎日負けた瞬間を目撃し、挫折の毎日だった。そんな毎日なのに、周りの子が笑っていることが不思議で仕方なかった。進学校なので周りはみんな勉強を頑張っていたが、勉強ができることよりも、人に愛されることに価値を置いていた私は、勉強なんてできなかった。頑張っても、あの子よりも愛されない私に価値などない。自分に価値があることに幸せを感じていた私は、自分は幸せになれないと感じていた。それでも、笑っているクラスメイトが別世界のように感じた。私と他の人との間にはとても大きくて硬い壁があって、私は一人で閉じ込められているような感覚だった。苦しかった。そんな時に蓮に出会った。ツイッターで出会って、すぐに仲良くなった。私たちは電話をするようになり、お互い自分のことをたくさん話した。人に言ったことがないようなことも、人には言えないような苦しみも、考え方も、過去の挫折も。蓮は私の全てを知った上で好きだと言ってくれた。毎日の電話から、蓮のその思いは本気なのだと知った。蓮は私のことを特別だとたくさん称賛してくれた。挫折だらけの学校という外の世界から目を背けるように、私は蓮の存在という狭い世界に依存するようになった。そして、だんだんと依存や敵対心が生まれた。初めはなぜだかわからなかった。でも今は、自分の中で出ている答えがある。初めに依存する理由。それは、蓮は私のことを特別だと証明してくれる道具であり、その道具がないと私は醜くなんの価値もないものになってしまう。その辺に転がっている石のように。だからその道具がなくなっては困るのだ。そして、敵対心の理由。それは、その道具に価値があった時、私の特別さがなくなってしまうのだ。だからその道具は、醜くなんの価値もないものでないといけない。それなのに告白されるようなことがあったり、何か私にないものを持っていたりすると、同等になってしまう。もしくはそれ以上だ。蓮には愛される価値も、選ばれる良さもない。本当の価値や良さは誰にでもあると言うのが正論なんだろうけど、私は無意識にそう感じていた。そうであるから私は蓮がいることで自分を特別だと思えている。それなのに、それらがあると知った時、憎しみと怒りで今まで経験したことのないような苦しみになるのだ。蓮の携帯を盗み見た時、女の子が多く、なんで蓮なんかが、と怒りと苦しみで家を飛び出した日。元カノからの手紙を見つけてしまった時[それもなんでかわからないけれど自分で探した]、内容を読んで愛されていた過去と同じ人格を持っている蓮が憎くて憎くてでもどうしようもなくてせっかく取れたライブに行かなかった日。告白されたらどうしようと張り裂ける胸から湧き上がってくるものを捨てるように吐いた毎日。なんでこんな考え方をしてしまうのかと考え分析した毎日。もう勝つ方法しかないと思った日もたくさんあった。蓮に縛られて動かない心を引きずりながら、動かせ動かせもっと周りをみろと目玉を動かされ、行け行けと興味のない人達に向けて口角を引っ張られたり。光のないテレビ。音のない笑い声。辛い毎日だった。もちろん楽しい思い出もあるが、それらの苦しみは常に私の後をついてきた。それでも蓮の前ではなんでも話せるし、作る必要もない。慣れだとは思うが、周りと一緒にいると疲れてしまう私にとって、これはとても大きいことなのだ。価値観も合うし、笑いのツボも同じ。お互いがお互いのことをわかっているから、一緒にいて楽だ。でも壮真と付き合うとなると、この大きな家族のような存在を失うこととなる。そして、私は壮真と一緒にいると疲れてしまう。それは、慣れていないという部分も大きいと思うが、これから価値観が合うと思えない自分がいる。壮真と出会って間もないが、壮真と一緒にいてドッと疲れた後、蓮の家で一緒にテレビを見ながら笑ってご飯を食べる時、私はやっぱり蓮のことを手放せないなあと思うのだ。壮真は他人で蓮は家族のようなものだ。でも、壮真に付き合えないと言うことができない。なぜなら、壮真の存在ができたことで、蓮への依存や敵対心が薄れてきているからだ。もし蓮に離れられても、壮真のように他に好きになってくれる人がいるということで依存が薄れたり、壮真に好きと言われている状態があることで、蓮への敵対心が薄れているのだ。でも壮真を手放したら、またあの辛い日々が戻ってきてしまう。久しぶりにテレビの光が目に伝わってきている。久しぶりに笑い声が耳に届いてきている。できることならずっとこの状態でいたい。壮真との関係を続けながら、蓮の家に帰るこの状態。私がしていることは浮気だ。だから私が逆の立場だったら嫌だし憎むだろう。でも、私は自分が1番可愛くて大好きだ。自分がよければそれで良い。それでも壮真から迫られる決断。どうしたら良いかわからない。あの監獄のような生活から抜け出せている今、この状態が続いてほしい今、でもどちらかを選ばないといけない今。壮真のことも好きじゃないのだ。私がバイトを始めた時求めていたものは、好きな人であった。でも今私の目の前にいる蓮と壮真という二人は、好きとは言ってくれるが私が好きと言えるわけではない。中学生の時の友達との会話を思い出す。

「女の子って愛すより愛される方が幸せなんだって。」

友達に言われたその言葉が私はよく理解できなかった。私は愛すことの幸せをその時感じていたから、

愛されるより愛したい。でも大きくなったら変わるんだろうか。もし変わったら、私はその時何か大切なものを失っているんだろうな。

ブランコに乗りながら、そんなことを考えていたことが遥か昔のように感じる。

私は愛されることを選んでいるよ。何か失ったのかな。大切な何かがもうわからないくらい、私は変わってしまったよ。これが成長と言うなら、この世界は残酷だ。



「来週の日曜から彼氏と北海道旅行行くことになった。」

さりげなく爆弾を落としてきた小春は、無表情で僕の返答を待っている。ここはバイト先のあるモールの喫煙所。今日の仕事が終わり、僕たちは横に並んで椅子に座った。

「え、なんで?」

僕と早く付き合いたいから、と彼氏の実家から出るためのお金を貯める話をしていたのに。僕は小春の思考がまたわからなくなった。

「前から決まってて、実はもう飛行機とかホテルとか全部とってある。・・・ごめんね。」

「え、本当に行くの?」

「うん。」

「お金は?貯めるんじゃなかったの?」

「うん。貯めなきゃだからあんまり使わないようにする。」

そうじゃなくて。何と話して良いかわからなくて、目線を落とし床の模様を見つめる。旅行なんてお金がたくさんかかるに決まっている。それに、僕は何より小春が他の男と旅行に行くのが嫌だった。旅行先で笑っている彼女の顔が無意識に僕の頭を過ぎる。

助けを求めるように横にいる小春を見ると、黙ったまま俯いている。何を考えているんだろうか。タバコの煙で、彼女の黒い髪がくすんで見える。二人だけの空間に、しばらくの間沈黙が続いた。

「じゃあいけば良いよ。」

何の感情も込めずに言葉を繋いだ。

「・・・うん。ごめん。」

タバコを吸い終わり、僕は無言で立ち上がった。行かないで欲しい。でもこの言葉を言ったところで彼女は旅行に行くだろう。何の意味も生じない言葉は、言わない方がいい。

「小春が旅行で美味しいものを食べるなら、その間僕は何も食べない。」

どうにかして小春が旅行に行くことを止めようとしてしまう僕は、残り少ないエネルギーを振り絞って、喫煙所の重たいドアを開ける。

「・・・なんでそうなるの?」

「なんとなく。」

「そっか。」

モールの出入口はすぐそこだ。

外に出ると、まだ少し冷たい冬の空気が僕の体をすり抜ける。

「それで?行くの?」

「・・・うん。」

「・・・じゃあ行きな。」

僕は言葉を突き放すように空気に放った。

「もう嫌いになった?」

小春が心配そうに僕の顔を見つめる。

「なるわけないじゃん。」

僕は答える。なるわけない。なれるわけない。

こんなに好きになってしまったんだから。

小春は安心したように少し笑って空を見上げた。僕もつられて見上げると、雲ひとつない夜空に星が輝いていた。

「空を見るとさ、私たちって何にも知らないんだろうなって思う。色々なことがわかってるけど、それが何%なのかもわからないくらい私たちは無知なんだろうなって。狭い世界で生きてる。」

そう言って小春は、僕たちの横を走り去って行く車を見つめた。



[2019年 3月1日]

壮真は普段は理屈で考えるタイプだけれど、時々感情的だ。今日は私が旅行に行くという話を聞いて、ご飯を食べないと言っていた。行かないで欲しかったんだろうけれど、その言葉を素直に伝えてもどうせ行くと思ったんだろう。壮真は意味のないことはしない。だからご飯を食べないという方法で止めようとした。いつも感情を無意識に、それも自然に殺しすぎて、何考えてるかわからない人とか冷たい人と、他人に思われてしまいそうだ。本人自身も合理的に考えすぎていることに、そしてそのせいで逃しているものがあることに気付いていないだろう。でも、ご飯を食べないと感情的になるくらいは本気でいてくれるのかと少し嬉しかった。北海道旅行はずっと前から決まっていたし、そのためのお金も貯めていた。その旅行で、壮真とこれからどうするか決めようと思う。ずっとこの状態のままがいい。あの辛い日々には戻りたくない。でも蓮を手放して壮真だけの状態を自分から選ぶ勇気がない。どうしたら良いんだろうか。



小春が北海道に行ってから一週間。今日は彼女が帰ってくる日だ。

僕はというと、心にポッカリと穴が空き、生産性のない日々を過ごしていた。

早く会いたい。けどまだ会えない。そしてやっと会える。この道のりがどれだけ苦しかったか、小春にはわからないだろう。

いつも通り昼前に起き、バイトに出勤する。今日は夜に、小春と会えるかもしれないということがあって、僕の心はいつもより軽かった。

そして仕事が終わり、帰ろうとしていた時、事件は起こった。

タイムカードを切り、携帯を見ると、小春から連絡が来ていた。会えなくなったのかなという不安と、そうであって欲しくないという願いが僕の脳内で一瞬にして混ざる。それらの思いから逃れるように急いで文を開くと、

“携帯を見られ、僕と小春のラインの会話が彼氏にばれた。怒った彼氏がバイト先のお店の前で僕を待っている。”

という内容だった。ドラマのような展開にびっくりしていると、

「広瀬、お前に用があるって人が来てるけど、どうする?」

ホールの先輩にそう言われ、ドキンとする。

でも僕には自信があった。なんの自信だろうか。彼氏の前に堂々と立ち向かえる自信だろうか。小春は彼氏のことは好きじゃない。そして彼女が好きなのは僕だ。こちらが引くような理由は何もない。

「今行きます。」

そう言って僕はお店の出口へと向かう。外へ出ると、10メートルくらい先、こちらを睨むように立っている男の人がいた。

思ったより身長高いんだな。殴られたらどうしよう。

呑気にそんなことを考えていると、男の人はスタスタと僕の方へやってきて、胸ぐらを掴んだ。

近くで見ると全然かっこよくないな。

口が裂けても言えないような言葉が脳裏を過ぎる。

「お前、人の彼女に手出してるんじゃねえよ。死ね。目障りなんだよ。一生近づくな。死んで?」

死ねしか言わない。頭悪いなこの人。

「手出してないですけど。」

「は?知ってるんだよ。とりあえず死んで。小春はお前のこと好きじゃないって言ってたから。」

「小春は彼氏のこと好きじゃないって言ってましたよ。」

「適当なこと言うなよ。」

「本当ですよ。早く別れたいって。」

「お前の方が目障りなんだよ。死ね。」

「は?」

話が噛み合わないこの人。小春がこんな奴と旅行に行っていたことが本当に理解できない。

「広瀬、大丈夫?」

様子を見にきた先輩が、僕と小春の彼氏を交互に見ている。

「あの、なんなら中で話しませんか?もうお店はもう終わりですし。」

優しい先輩の言葉がこんなにも余計なお世話に感じたのは初めてだ。

「・・・はい。」

小春の彼氏が僕の胸元を離して答える。何を話すと言うのか。僕はとにかくこんな奴と話すことなど何もない。

「俺がこの人から話聞こうか?二人じゃ話し合いにならないでしょ。」

先輩に耳打ちをされる。

「お願いします。」

「じゃあ着替えておいで。」

ここは先輩に任せておこう。そう思って更衣室へ向かう。

携帯を開くと、小春から連絡が来ていた。

‘’ごめん。止められなかった。大丈夫?‘’

‘’大丈夫だよ。今どこ?‘’

‘’モールの外‘’

さっきまでの修羅場と、小春が近くまで来ているという嬉しさが混ざって、僕は半分興奮状態だ。

急いで着替えて小春の元へ向かう。お店へ戻らないといけないが、小春はこのまま彼氏と帰るだろうし、話し合いが終わる前に会っておきたい。

外に出ると、すぐに小春の姿を見つけた。

北海道で買ったのだろうか。可愛らしい淡い紺色のワンピースを着ている。

「ごめんね。大丈夫だった?」

「僕は大丈夫。今高橋先輩が話してくれてる。それより小春は大丈夫?殴られたりしてない?」

「大丈夫だよ。少し殴られたけど痛くなかった。」

「殴ったの?あいつ。許さない。」

「しょうがないよ。私が悪い。ごめん全部私が悪い。」

「小春は悪くないよ。だって好きじゃなかったんだもん。」

「別れないで浮気みたいなことするのは最低だよ。」

「そうかな。とりあえず殴ったのは許さない。」

「ありがとうね。先輩にも迷惑かけちゃったな。どんな感じ?殴られてない?」

「うん。胸ぐらは掴まれたけどね。話したけど頭悪そうだなって思った。」

「なんで?」

「なんとなく。本当のこと言ったらあいつ何も言えなくなってた。」

「本当のことって?」

「小春が彼氏のこと好きじゃないこととか。」

「あーなるほど。」

「うん。」

「あ、彼氏から連絡きた。帰るって。この話は後でにしよう。」

「うん。わかった。」

「じゃあね。今日はごめんね。」

「ラインして。」

「わかった。」

手を振りながら歩いていく小春を見送る。なんとなくもうこのまま会えなくなる気がして、その予感を振り切ろうと首を横に振る。

どうなるんだろうか。小春はまた殴られたりしないか。別れて僕のところへ来てくれるんだろうか。

考えてもわからないことだらけだ。

それでも僕の中で渦巻くこの不安は確かに存在している。

よし、帰ろう。僕は小春のいなくなった夜の風景を後にした。



[2019年 3月15日]

一昨日北海道から帰ってきた。

最終日、蓮に壮真とのことがばれた。衝撃で目が覚めた私は殴られたんだと気づいた。浮気してんじゃねえよと言う蓮の言葉で、バレたんだと知った。何回も殴られたが、殴られている時、なぜかほっとしている自分がいた。これで選択せずに済む。これでやっと解放される。不思議と痛みは感じなかった。その後、蓮は壮真を殴りに行くと言った。止めきれず、お店に行ってしまった蓮を見て、壮真に連絡をし、モールの外で会った。壮真は蓮のことを頭が悪いと言っていた。蓮は感情的になるとその感情でいっぱいになって言葉が出てこなくなる。それを見て言ったことだろう。そんな壮真を冷たいと感じた。

帰ってきた蓮はお店でのことを話してくれた。高橋先輩に話を聞いてもらったらしい。壮真のことは、あいつはやばいと言っていた。感情がない、やめたほうがいいと。どうだろうか。私は壮真は何も言わなかっただけだと思う。蓮のようにギャーギャー言うタイプではなく、冷たく突き放したような言葉を無表情で言ったんだろう。それでも蓮は人をよく見ていたりするところがあるので、少し怖くなる。

ここからが問題だ。私は蓮に別れを言った。でも蓮から帰ってきたのは予想外の言葉だった。それは、別れたくないと言う言葉だった。全部許す、壮真と関わらなければそれでいいから離れないで欲しいと言われた。でも私はなぜかもう吹っ切れて、別れる気持ちしかなかった。別れたい一点張りの私に蓮は泣きながらたくさんの言葉をくれた。小春のおかげで幸せと思えるようになったと、私の好きなところを、一緒にいたい理由を涙でボロボロの顔で話してくれた。苦しかった。自分が心底嫌になった。でも、人間は醜い。私は自分が一番だ。私は別れを告げた。こんなに好きになってくれる人いないということを感じながら、何回も自分の中で葛藤しながら別れを口にした。何かが抜けてしまったように蓮はそれ以上何も言わなくなった。涙も流さなくなった。そして私が荷物をまとめている間も、家を出て行く時も、私のことを見向きもしなかった。本当にこれで終わりなんだ。実感した。荷物をまとめ終わり、外に出ると壮真が待ってくれていた。私は見慣れた蓮の家を後にし、歩き慣れた道のりを壮真と歩いた。いつも見ていた景色のはずなのに色だけがいつもと違って見えた。

そして今、家なき私は壮真の実家にいる。やはり人の家は苦手だ。自由に動きまわりたい。


小春と付き合って数ヶ月が経とうとしている。家のない小春は一時的に僕の実家で暮らしていたが、猛スピードで家を探してきては一人暮らし用のマンションに移り住んだ。人の家だと疲れる、これはよく小春が言っていた言葉だ。小春が一人暮らしを始めてから、僕は彼女の家によく泊まりに行くようになり、だんだんその頻度も増え、今はもうほぼ同棲状態だ。そして4月から専門学校に通い始めた小春は、浮かない顔で毎日登校している。

目が覚めると、デニムのオーバーオールを着た小春が鏡の前でリップを塗っていた。少し輝きの入った赤色が、彼女の黒い髪によく似合っていた。

「学校行ってくるね。」

「もう?学校の前まで送る。」

「いいよ。」

「ううん送る。」

僕は急いでその辺にあったズボンを履く。

「ありがとう。」

外に出ると、目を開けて数分足らずの僕にはまだ眩しすぎる光が、大量に僕の目を刺激する。

「学校行きたくないな。」

「そっかー。頑張ろう。」

エントランスの自動ドアを通りながら答える。

「みんな楽しそうに笑ってる。話しかけてくれる子達はいるけど、話してても楽しくない。」

「みんな友達が欲しいんだよ。」

「そうだろうね。必死なのも感じる。」

容姿の整っている小春は、やはり周りからすると惹かれるものがあるんだろう。

「私は一緒にいて楽な人と好きな話をしたい。」

「話すのが嫌なら話さなければいいのに。」

「拒否できない。」

「じゃあしょうがないね。」

「うん。」

学校の話をする度、僕の脳裏にたまに現れる男の人への不安は、チラッと姿を現してはすぐに何処かへ消えていく。こんな感じだから、僕はあまり思い悩まず不安に襲われることも少ないのだろうか。

「ここでいいよ。ありがとう。」

学校のそばへ来て、表情の変わった小春が言う。

「うん。がんばってね。」

「ありがとう。じゃあね。」

手を振り歩いていく彼女を見て思う。何を考えているんだろうか。彼女のことはいまだに掴めない。

「掴めないから知りたくなって、それを好きと勘違いするんだよ。恋は、振り回されなくなった時、慣れて飽きる。私も時間が経った時、壮真に刺激がないって飽きられるんだろうな。いつだろうな。」

小春が前に言っていたことを思い出す。僕は小春のことを飽きる日が来るのだろうか。日に日に好きになっていくこの気持ちからじゃ全く想像ができない。初めて人を本気で好きになったのだ。離れられると怯える彼女に、いつか安心させてあげることができるだろうか。



[2019年 6月2日]

壮真と私の家で暮らし始めて3ヶ月。初めは気を使ってやりくりしていた壮真に対して、これから一緒に住むなら慣れるべきだと考え、慣れる努力をした。蓮にも初めは気を使っていたが、色々なことを話したり、自分を見せてきたことで慣れることができた。だから壮真にも見せていこうと思った。そのほうが楽だと。そして今、だんだんと慣れてきた。でも時々価値観の違いを感じたり、蓮を思い出してしまったりする。壮真には敵対心も依存もわかないで欲しいが、このまま慣れ続けてしまったら、そうなってしまう気がして、時々怖くなる。そして今のところ毎日学校に行っている。学校を始めた理由は、自分の居場所を作るため、そして色々な人と出会うためだ。英語の勉強がしたかったわけではない。英語を使えたらどちらにせよ有利と思って英語を選んだ。受験の時期であった半年前、蓮に依存していたあの状態だったから、大学受験は無理だった。だから受験勉強のしなくていい専門学校を選んだ。学校はつまらない。みんなメイクの話や芸能人の話、どうでもいい話ばかりを楽しそうに笑って話している。そしてみんなでトイレに行って、鏡を見ながら自分の顔を凝視するのだ。教室でふざけ合うクラスメイトたちは、みんな何を見ているのだろうか。



小春と付き合って半年以上になる。小春はというと、学校をやめ、今はバイト生活だ。僕は4年生になり学校へ行くことも大きく減ったので、ほぼ毎日のように小春と同じバイト先で働いている。同じバイト先、同じ時間帯で働き、同じ家へ帰る。1日のうちほぼ全部の時間一緒にいることは、だんだんと日常になっていった。それでも僕は当たり前のように小春の横にいれることが、嬉しかった。

「壮真と小春、二人はまた一緒に帰るの?」

涼太がフライヤーにポテトを入れながら聞いてくる。

「そうだよ。」

「幸せだね。」

「うん。小春と二人で帰りにさ、スーパーで買った唐揚げを食べながら帰るんだけど、その時が一番幸せ。」

「いいね。俺は全然彼女と会えてない。」

「そうなの?彼女今東京だっけ?」

「うん。でも毎日一緒に住むとなってもきついな。たまに会うくらいがいい。」

「なるほどね。確かに喧嘩はするけど一緒にいたいな、僕は。」

涼太がニヤニヤしながらこっちを見ている。

「何?」

「大好きなんだね。小春のこと。」

「大好きですよ。」

僕は食洗機の蓋を閉めながら、当たり前のように言い放った。

バイトが終わり、着替え、従業員用の喫煙所へ向かうと小春が座っていた。

「今日忙しかったね。」

「うん。高橋先輩が珍しくキレてたもんね。」

小春が笑いながら言う。

「そうなの?気づかなかった。」

「それは羨ましい。怖かったもん。・・・あのさ、全然話変わるけど、提案があるんだよね。」

「何?」

「帰りながら話そう。」

「うん。」

小春の後について外に出ると、肌寒い空気が僕の体を包み込む。

「私ね、恋って永遠には続かないと思うんだよね。初めはどんなに好きでも、だんだんと慣れて、刺激がなくなって、そして新しくて刺激のあるものに惹かれていくんだと思う。だから浮気ってするんだと思う。初めは好きで結婚したんでしょ?まあ、安定とか自分の価値のためとか、初めから好きじゃない人もいると思うんだけど。例えば初め好きで結婚したとして。この人のことずっと好きって思っても、だんだんと初め感じてた刺激って、なくなっていくんだよ。違う意味で言ったら、愛に変わるというか。家族みたいなね。恋人から家族に変わる。だから出会ってばかりの可愛い人がいたら、セックスしたいと思うし、もしかしたら恋をしちゃうかもしれない。だんだんとセックスしたい相手から、一緒に生活する相手になっていく。壮真も、私に対して性欲わかなくなっていくと思う。それは仕方ないことだし、当たり前のことだと思う。本能というか。」

「うん。それで?」

「私が言いたいのは、壮真とはずっと一緒にいたい。特別な人でいたい。でも、浮気で別れたり、一生縁切ってしまうようなことにはなりたくない。でも、時間が経って慣れたら。浮気はしたいと思ってしまうものだと思うし。理性で抑えられたとしても、したいと思う欲望を殺すことになる。一時的な刺激欲しさに、私たちの関係を崩したくない。だから、お互い恋愛とかセックスは自由にしたい。ただ、帰ってくる場所はお互いのところ。私たちは永遠に崩れない関係でいたい。こんなこと言ってごめん。一般的に考えて、おかしいのは分かってる。」

「うーん。嫌だよ。」

「なんで?」

「浮気したいだけに聞こえる。」

「そっか。私は自分で浮気しないって決めることはできるけど、壮真のことは決めれないから。わからないから。怖い。」

「言いたいことはわかるけど、賛成はできないよ。」

「そうだよね。ごめん。」

「それで本当に離れていかれたら嫌だし。僕は離れないし小春だけでいい。」

「わかった。なしね。」

「うん。」

僕たちは無言で家までの歩き慣れた道のりを歩いた。小春はまだ何か考え込んでいるようだった。



[2019年 10月17日]

今日は壮真にいつも考えている提案を話してみた。予想通り却下。私は浮気がしたかったわけではない。離れられたくなかっただけだ。でもそう聞こえるんだろうか。人間なんて自分が一番可愛いから、隠れて浮気をする。奥さんとは別れたくないけど、欲望は満たしたい。それが普通の世の中であるから、壮真に離れられたくなくて、壮真に隠れて浮気されたくなくて、なんでも言い合える特別な存在でありたかった。私だって、他の人と恋愛されることは、セックスされることは、嫌だ。欲を言えば、永遠に私だけとセックスして欲しいし、私だけを見て欲しい。でも無理だ。だからあの提案をした。

最近壮真に対して敵対心と依存が上がってきてしまっている。慣れてしまったからだ。仕組みは蓮の時と同じ。私は永遠にこれを繰り返すのだろうか。



「刺激が欲しくなったらどうするの?」

小春がいつものように僕に聞いてくる。

「別に人じゃなくて、僕は物とか事に手を出すと思うよ。」

横断歩道を渡りながら答える。僕たちは今、家の近くのゲオに映画を借りに行くところだ。

「そっか。」

小春がまだ何か言いたそうな顔で地面を見ている。

「大丈夫だよ。僕は離れないよ。離れろって言われても離れられない。」

「今まで付き合った人とさ、将来別れるって思って付き合ってた?」

「うーん。わからない。」

「多分、その時は別れるなんて思ってなかったと思う。ずっと一緒にいたいって。」

「うん。」

「私は、人よりずっと、別れたり今と変わってしまった時の受け取るものが多いから、立ち直るのも、傷つくのも多いと思う。だから怖くてその時の準備をしちゃう。」

「小春の全部が好きなんだよ。人間らしい小春が大好きなんだ。今までの人とは全然違う。僕は僕たちが離れないってことがなんとなくわかる。小春はどう思う?」

「今はそう思うけど、人の気持ちって時間と共に変わるから。」

「今そう思うならいいじゃん。考えても苦しくなるだけだよ。」

「そうだね。」

「大丈夫だよ。僕は小春だけでいい。」

「私ね、最近少しずつ変わってきてる部分があるんだ。今まで人のこと敵と思って信じたことなかったんだけど、信じてみようかなって思う自分がいて。」

「うん。」

「信じた人しか見えない世界があるんじゃないかって。」

「僕は小春のこと信じてるよ。」

「すごいね。なんでそんなに人を信用できるの?」

「僕は疑って何も失わないより、失う可能性があっても信じたい。好きな人なんだもん。」

「そっか。信じていいのかな?」

「うん。大丈夫だよ。」

小春は何かを吐き出すように息を吐くと僕の方を見て笑った。普段あまり笑わない小春が笑ってくれるこの瞬間が、僕のガソリンだ。



[2019年 12月30日]

今日は小説っぽく描いてみる。描きたい気分だ。

これは、青年Sに送る。

私は3年前、前の彼氏Rに出会った。Rとの出会いは、私の人生を、生き方を大きく変えた。高校をやめ、もともと住んでいた東京から遠く離れた福岡の通信の高校に変え、一人で移り住んだ。死という考えとは無縁だった私は、死ぬ方法を毎日検索するようになった。簡単に言えば、Rのことを自分より下だと思っていて、Rに愛され尊敬されることに依存していて、Rが私より勝っている部分があることに毎日苦しんだ。でもRの存在が私の生の全てだったので、別れることはできなかったし、むしろ離れられた時を毎日怯え、逃げきれない苦しみが続いた。自分より下の人が自分より優れている部分があることが許せず、でもその人からの思いが私の自己肯定だった。当時、「人はみんないいところも悪いところもあって、一人一人特別、だから人は人を好きになる。」と言うことを必死に言い聞かせても、自分より下だという根本の方の感覚が消えることはなかった。だから、無意識に勝とうとする思いのまま、勝ったと証明されたような時にしか、私の救いはなかった。私の場合、一番近い彼氏Rで、依存もしていたので逃げられず苦しんだが、相手が彼氏彼女ではなく、他人に対してはこのような思いの人はいるのではないだろうか。他人よりも自分の方が特別であり、優れていると思う部分が、無意識にも心の根本の方にあるから、勝とうとするのではないだろうか。もし、相手も自分も同じくらい特別であり、優れている場所が違うだけのことをしっかり理解していたら人と比べることも勝とうとしたりすることもないと思うのだ。社会で優れている人というのは、社会で役に立つところが優れているのだと思う。役に立つと言うか、目立ちやすかったり、使いやすかったり。優れている場所が違うだけで、この優れと言うのも多数の人の感覚が優れと感じるものも、少数の人が優れと感じるものも、人によって優れの捉え方も違うと思う。だから人はみんな好きと感じる人が違うのだと思う。でもこれは今だから、理屈的に、客観的に見えることだ。その当時は先の見えない苦しみに毎日押し殺されていた。その当時、私が出した最終結論は、「本当の好きな人に出会う」ことだった。「好き」と言う感情の支配される部分が大きくなり、自分のことを考える時間も減って、相手のことも本当に特別だと思えると思った。

通信の高校に通っていたので、出会いという救いを求めて、カフェのバイトを始めた。

そこでしばらくして出会ったのがSだ。Sに気を持たれていることは薄々気づいていた。でも好きではなかった。好きではなかったが、Sに好きと言われ続けているうちに、Rへの苦しみが薄れていった。これは段々好きになったからではない。

他の人にも本気で愛されるということで、R以外にも自分を肯定してくれる人ができ、支えている柱が一本から二本になったことや、Rへの依存が軽くなったことで。Rと比べ勝とうとすることも減ったのだ。でもSにはこの状況を、よくなったこの状況を変えたくなかったので、「好き」だと言っていた。Sには嘘をつき、Rに対しては浮気をしていた。

こんな自分でも、自分が一番可愛いという気持ちをよく知っていたので、私は人を信用できないのだ。Sには別れると言っていたが、正直別れるという決断はなかなかできなかった。

私自身、人にとても気を使い、人といると疲れてしまうので、人に本当の自分を見せるまで、とても時間がかかるのだが、その時にはその相手がRだけで、Sには毎日気を使っていた。でもSがいなくなったらまたあの辛い日々が戻ってくることもわかっていたので、どうしたら良いかと毎日頭を悩ませていた。しかし毎日のようにSから「早く別れて欲しい。いつ別れるの?」と言われ、ズルズルとこれ以上引き伸ばせないでいた。そんな中、Rに携帯を見られ、浮気のことがばれた。私は思わぬ形でいきなりバレたことに焦りもあったが、これを待っていたかのように安堵したのを覚えている。たくさんRを泣かせ、苦しめ、どん底に落としたのに、自分のことを考え、守ろうとする私は、自分がこうだから人のことを信用がないと信頼できないのだ。Rがいなくなった後に見るSはどこか冷たいように見えた。柱が二本から再び一本になったので、よく観察し、慎重になった。Sに慣れ心を開くまでは長かった。色々と話し、素を見せるように、自分のために頑張ったのだ。そして恐れていたことが起こった。SがRの時と似たような存在になったのだ。ただRの時を客観的に見て成長した考え方と、他にもいたということが救いになり、Rの時よりは全然楽になった。でも、自分より優れている部分を見つけては苦しみ、当たってしまったり、「やっぱり本当に好きな人を見つけるしかない。」と思ったり。別れようと言ったことは今まで数え切れない。苦しみは続いた。自分のことを自慢する瞬間が幸せを感じる瞬間だった。自慢に聞こえないように、本気で悩んでいるように、見せて自慢をするのだ。「好きな人と出会って別れる。」時を待つしかないと思っていた。

でも、Sはとても優しくて温かい心の持ち主だった。深すぎるほどに愛情深い人だった。それを、私はつい最近まで気づかなかった。自分のことばかりで、自分に対する返事からしか読み取ろうとしなかった。Sとは男関係のことで喧嘩することが多かった。それは、「他にも愛してくれる人がいること。」をSに知って欲しかった。私は、愛される人間だと知って欲しかった。その日も、「告白してきた男の子と友達でいたいと思う。」と言う、普通のカップルなら「ありえない。」と言われそうなことを、Sと話していた。その男の子の話をするのはもう4、5回目くらいだった。「SがOKしてくれないから。」と思っているふりをしてたが、簡単に言えば「その男の子にも愛されている。」と言うことを何回も思わせたかったのだろう。いつもその度に、「絶対だめ。」「なんで?」「嫌だから。」のような会話になる。その日も、「だめ?」と聞いた。その後Sは少しの間のあと、言った。「僕は小春が友達をどれだけ大切にするか知ってる。少ない分、一人一人がどれだけ大切か。小春の大事な友達は、僕も大切なんよ。」電話だったのでバレないようにしたが、涙が溢れたのを覚えている。それと同時に昔感じたことのあるような、あたたかい気持ちを。私はこのあたたかさが何よりも大切な気がした。忘れない、この気持ちを。と思った。だが月日は私を元の形へ変える。忘れてSへ敵対心から、ラインで別れようと送った日。理由は、あの時の気持ちを簡単に言うと、他の女の子と、話す、話せるSが許せなかった。下のはずだとSに対しても思っているのだ。「人が人を好きになるときは、相手は、自分より相手は優れ、上だと思っている。自分にないものを持っているから好きになるんだ。」と言う考えが根本の方にあって抜けないのだ。だからSが本気で私のことを好きだと言うのだから、表すのだから、Sが私のことをそう思っていると思ってしまうのだ。朝までは仲良くしていたのに、その日のラインで急に、「他の女の子の中で私より先に出会ったら好きになった人とこれから先であった時に、私がいるから好きにならないって言う理由なら別れたい。」私がいつ出会ったとしても一番圧倒的に好きでないなら「妥協」のような感じで特別でない。特別というのは俗にいう運命の相手のような感じで、そういう考えでラインを送ったのだが、普通の人が聞いたらなんて思うだろうか。「考えすぎ。」「求めすぎ。」「わがまま。」だろうか。そんなラインをSが夕ご飯の買い物をしてくれている最中に送った。

帰ってきたSは怒って、「なんでそんなに別れたがるのか。」と聞いてきた。運命の相手と思えない相手なら、付き合う理由はないと思っていることを伝えたが、うまく伝わらず、責めてしまった。冷たく、責めた。Sは無言で出てったが、コンビニに行ったとすぐにわかった。携帯を置いて行ったからだ。「これは出てったわけじゃない。コンビニだよ。」って合図してくれたのかな。と少し考えて、キッチンに目をやると、料理をしかけたままの材料が見えた。材料でメニューはすぐにわかった。私が最近食べたいと言っていたものだ。ふと口にしたものを覚えてて、あんなラインを読みながらスーパーで私のために買い物をしてくれたのか。Sはいつも言う。「小春の美味しそうに喜んで食べてくれるのが好き。」と。何を思いながら買い物をしたんだろう。あんなに別れようだの別れたいの言葉を突きつけられても私のそばにいるよと、絶対離れない、大丈夫だよといつも言ってくれる言葉が聞こえた。あたたかくて、あたたかくて、優しい涙が溢れた。この気持ち前にも経験したな。帰ってきたSは泣いている私に気がつくと何も聞かず頭をよしよしとした。この気持ち絶対忘れない。いつか、いつか、全部Sに返せるように、私にくれた愛を全部返したいと強く思った。それでもSのことを敵と思ってしまう。いつか別れた時に、それぞれ他人になったときに、血は繋がっていないから他人になるときに、敵になるのだと。だから味方に思えないと言う私に、Sは「僕が他人になる日は来ないよ。二人で一つだもん。絶対に離れないし、僕はわかるんだよ。ずっと一緒だって。小春だけでいい。幸せだよ。」と言う。私は明日からも、勝とうとするだろう。なぜなら本当の自分が感じる楽しいことや好きなことを知らず、本物の恋も知らないからだ。これから出会うのかもしれない。だから今は勝るものになろうとするだろう。それでも私の中の愛は、Sへの愛は、確実に存在し続ける。あたたかい愛を思い出させてくれるSが大好きだ。涙が出るほどあたたかくて優しい居場所を、たくさんの愛をありがとう。だから私は幸せものだ。

Sに出会えたことに感謝を

そしてこれからも一緒に入れることに感謝を

−K−



「壮真。壮真。」

聴き慣れた声ではっと顔をあげる。黒い服に身を包んだ母が、僕を心配そうに見ている。

「何?」

バレないよう、頬に垂れた涙を拭い、母から目をそらす。

「始まるよ。」

「うん。」

「・・・小春ちゃんのお葬式だよ。」

お葬式。そうだ。ここは葬儀会場。

今日は少し肌寒くて、でも暖かくて。小春の好きそうな天気だ。



[2020年 6月1日]

壮真への短い小説を書いてから半年くらいが経った。前、「恋心が何十年もずっと続くわけはないし、だんだん家族に似た感情になると思う。新しいものに、刺激に惹かれるのは当たり前、それはしょうがない。それでも私は大切な彼氏を失いたくないから、恋愛は自由で、他の異性との関係も自由で、ただ最終的に帰ってくる場所にしたい。」と提案した。みんな浮気するつもりで結婚した人なんていない。この人だけと思っても、人間ずっと一人の人を思えるわけがない。隠れて浮気しちゃうのは、奥さんのことは家族みたいに大切だから失いたくないけど、恋に浮かれたり新しいものに惹かれたりして自然の本能である性欲で浮気しちゃうんだと思う。例え結果的に浮気しなかったとしても、その過程の何十年間という間、疑ったり不安で過ごすのは苦しい。だから私はこの提案をした。壮真と喧嘩するのはいつもこの私の信用とか疑うことについての話だった。私はいつも言った。「かわいくて若い子がいたら誰でも揺らぐ。それはしょうがないんだ。」「刺激を求める生き物だ。」「浮気しないとしても浮気を疑うことが苦しい。」「恋に永遠はない。」壮真は、喧嘩した日も無言で私の好きなもの作ってくれた。「こういうところが好きなんだよ」「初めて結婚したいと思った」とたくさんの言葉をくれた。「その柔らかい頭を壊したくない。」「誰よりも辛さを知っていて、その辛さを経験してる時に誰も助けてくれなかったことをわかってるから、僕の大事な猫が死んだ時も、何も言わずにずっと頭をさすってくれた。僕はそれが何よりも救われた。」「僕は小春のおかげで生きれているし、救われた思い出ばかりだし、答えが出ない時にいつも答えを教えてくれる。」たくさん愛を示してくれたり、人を信用できないと言う話のときには、「僕は他の女の子と何かする意味がわからない。旅行とかやりたいことがあっても、僕は全部小春とやりたい。」「女の子と遊ぶ意味がわからない。電話する必要がない。だって小春だけで良いもん。」書き切れないが、たくさんの言葉をくれた。私は初めて人を信用しても良いのかもと思った。信じることは疑うことよりもずっと楽であることを知った。あんな提案、しなくていいんだ。信じたいと思わせてくれたこと、考えを変えてくれた壮真に出会えたことに感謝していた。本当に嘘のない人だと無意識に思っていた、信じていた。

それが昨日、女の子と電話したり、ネットの女の子の動物を預かったりしていたことを知った。

「J K可愛い。」「花屋さんかわいくて揺らいだ。」をしていることも知った。悔しくて、私の中で大きな何かが壊れた。帰ってきた壮真に、「隠し事がないって、嘘つかないって言ってたよね?」と言った。「うん。嘘ついてないよ。」そう言う壮真に、ネットの女の子の名前を少し出した瞬間、「ペットは預かっていないよ。」と言った。私は全部言ってくれると思っていていたから、隠され、自分を守ろうとしている壮真を見て、知らない人を見ている感覚だった。私はそんな中冷静に考えた。ここまできたら全部言って欲しい。私はとりあえず、「携帯を全部見せて。」と言った。「嫌だ。」と言って隠そうとする壮真を無理やり振り解き、携帯を開いた。手が震えた。手が震えながら、通話履歴の復元をして、その子たちに絞ってラインを読んだ。時々壮真の顔を確認した。目に映ったのは、私の知っている壮真ではなかった。大好きな壮真ではなくて、普通の男の人だった。「襲いたい。」「襲うよ?」「彼女の家だから電話できないごめんね。」「彼女ともうすぐ別れそうだけどねwww」三人くらいのラインを見て、私はこみ上げてくるものを必死に押さえた。そんな中、私は冷静に頭を使って、「なんで気づいたかわかる?先輩っていうか、私の友達に壮真の近くの人がいるの。これ以上は言えないけど、約束だし。嫌がらせだって。意味わからないんだけど。」とラインから盗んだ情報からその先を推測して、問い詰めた。「その先輩が小学校の同級生って言ってたけど、そうなの?」と聞いた。「うん。小学校の同級生と三回会って、電話も何回かした。二回ネットの人と会った。他はないよ。」視界がぼやけていくのが分かった。「私あと2個聞いたんだけど、言わないの?こっちが証拠見せてからじゃないと言わないのね。」「うーん。ペット預かった。その時に二回会った。」「ふーん。そっか。なんか、ドライブしたんでしょ?」「うん。あと虫取り。それとコンビニで話しただけ。」胸が飛び出そうだった。ドライブ?私がいくらしたいと言ってもあまりしてくれなかったのに。虫取りも私としたいと言っていた。前した会話を思い出す。「趣味が会う人の方が付き合ってて楽しいんじゃないの?」と聞いた時、「小春がいい。この趣味のこと理解してくれるし、否定してこない。そういうところも好き。」と言っていた。あれも嘘かな。「なんで責めないの?責めてよ。」と壮真が言う。「自分が哀れになるだけ。自分がこんなにバカだと思わなかった。私初めて人を信じて良いかもって思ったのに。最近壮真のおかげでちょっと楽しかったのに。」私は壮真のことを思ったより信じていたんだと思った。そして、大好きで、いつも辛いことがあったら一番に頼って、辛いことあってもその人がいるから乗り越えられた。人生はプラマイゼロ。辛いことと幸せが繰り返されると思っているけど、大切な人を失うことだけが本当の辛さだと思っていた。私の目の前には壮真がいる、でも私の信じてた、いつも助けてくれた、私を変えてくれたあの壮真じゃなかった。実在しなかった。私の勘違いだった。なんでかわからないけれど、「壮真は死んだ」という題名の小説を書こうと思った。例え責めたとしても、ごめんと言われるだけ。そして「私を傷つけたくなかった、しょうがなかった。」とどうせ人は言うのだろう。「変わる、本当に好きなんだ。いつも救ってくれた。その恩返ししてない。何も言っていないのに僕の気持ちを家族の誰よりもわかってくれる。小春がいないとどうして良いかわからない。」泣きながら「変わる。」「理想の人になるからやり直して。」と壮真は言う。会った女の子や他の女の子のラインを消しながら。付き合うべきか、別れるべきか。一回した人はもう一回する。一度でも許してはダメ。でもこれは体の関係とかは一切除いたやつで、隠し事をされ、嘘をつかれていただけ。普通の人と同じ。でも信用できない人と付き合うのは無理だ。そして何よりも信じていた壮真がもういないことを毎日考え、嘘つかれていたことの内容を毎日起きては思い出し、眠れないことが目に見えた。別れるしかないと思った。私は壮真のした言動よりも、初めて信用して、一番に頼って、一番味方でいてくれた壮真が、信用しても良いということを教えてくれた壮真が、嘘をついて女の子とドライブをしたり、隠れて会っていたことがとても辛かった。でもあの壮真は消えなかった。私の壮真返してよと一人で泣いた。こんなに苦しい時に壮真ならなんて言うかな、辛いから壮真に会いたい。でももういない。幻だった。信じられなかった。あの壮真が嘘をついたり隠し事をしていたりしたことが。私にくれた愛の言葉が全部嘘に聞こえて苦しかった。壮真になんでそういうことをしたのか聞いた。罪悪感はなかったのかと。「ネットの子のペットを預かった時は罪悪感あった。何してるんだろうって。小春嫌がるだろうなって。小学校の同級生の子とは、しばらく会ってなくて、怒られるっていうより、呆れられると思った。でも、バレないし良いかなって。罪悪感はなかった。」私は罪悪感がない人がどう変わるのかわからなかった。罪悪感がないということは当たり前に私が嫌がることをするということ。これから先どう変わるのかわかっていないんじゃないかと思った。そのあと、壮真から手紙をもらった。あんなことがあったのに、読んで涙が出るほど嬉しかった。でも同時に、もし嘘つかれていなかったら、どれだけ嬉しかったかなと悔しくて泣いた。壮真は手紙を書いてすぐに寝てしまった。私はどうして良いかわからなくて、とりあえず隣に行って横になったが、すぐに苦しくなって、下で眠ることにした。時々はっと起きて、急いでベットの上を見て、居るかを確認した。朝起きて、どうして良いかわからず、あまり寝ていない頭でぼーっと何かを考えていた。お仏壇買おうかな。このまま今別れたら辛いからってずるずるしても、私は毎日死んだ壮真、いや死んだならまだ良い、私が作り出した壮真を思い出す。私が見ていたものは全部作られていた。そんなことを考えていた。心療内科の薬のおかげで少し喋れるようになり、「人は変わらない。だから壮真のことも信用するのが怖かったのに、でも信じてたのに。私の作った幻だった。」と責めた。「こうなることが怖くてあの提案をした。それを受けず、嫌だって言いながら自分は隠しているのはずるいよ。」と言った。「今全部話してくれたら私は許す。許さないほうが辛いから。何してても許す。もう一回やり直したいから、今ここで変わろう?」と言う私に、壮真は「もう何もないよ。」と言った。信じられなかった。前なら信じてたのに。そのことが辛かった。壮真は、「傷つけちゃダメな人を傷つけた。もう絶対に傷つけない。僕ともう一回一からやり直して欲しい」そう言って泣いていた。「今は別れる別れないの境目だからそんなこと言えるけど、このことが当たり前になったら、また前みたいになるよ。だからそうなった理由を、原因を教えて。それ解決しないとまた同じことになるよ。」「窮屈だったのかもしれない。だから逃げたくなったのかも。」と壮真は言った。「じゃあまた窮屈になったらどうするの?」「その時は話すよ。一緒に散歩に行こう。」私はもう壮真の言葉がどれも作り物に聞こえた。これからどうなるのか。私はもう一度付き合うことを承諾した。予防注射をした方が後々楽なのに、私はチクッとする針が怖かったのだ。チャンスをあげてる期間だと思って、私は私の生活の軸を、私の世界をしっかりと築かないと、チャンスを破られた時に、私がまた壊れる。だから期待はしちゃダメなんだ。そんなことを考えながらも、壮真に期待をしている自分がいた。前の壮真をどうしても嘘と思えない、いや思いたくないのだろう。信じたいって思える人だから、私が信じたいと思う人を信じたいから。これは壮真が教えてくれたことだ。これから壮真と色々話そうと思う。



殴るように乱雑に書かれたその文字は、小春の痛みと葛藤が表されていた。あの頃の僕は何を考えていたんだろうか。いや、何も考えていなかった。

小春と付き合い初めて一年が経とうとしている頃、僕は実家に移り住んだ。

僕は自分の感情や、内面に目を向けることがあまりないが、あの頃は無意識に小春と距離を取ろうとしていた。小春との同棲生活が窮屈になっていたんだと思う。

それに比べて実家は楽だった。干渉してくる人もいない、自分の好きなように行動できた。

その間、僕は他の女の子たちにも興味を持った。隠れて遊び、自由に話した。罪悪感はなかった。僕にとって浮気のラインは超えていなかったからだ。

だからあの日、小春に別れを告げられ、そこでやっと自分の行動を認識した。

小春を傷つけるに値する行動をしていたことを。僕は何を考えていたんだろうか。

小春が自分の手の中に収まっていると安心し切っていた。それが、彼女が自ら手の中から出ていこうとするのを目の当たりにし、離れれば離れるほど自分の中の彼女の重さに気がついた。小春が僕のことをまた信用してくれることは限りなく低いだろう。でも、僕がここで手を離してしまったら、今度こそ本当に彼女は人間というものを信用できなくなるだろう。また彼女に信用してもらうことが、僕にできる唯一の償いだと思った。いや、そうしなければならないと、強く心に決めた。もう小春の泣いているところを見たくない。僕の中で何かが変わった瞬間だった。



「壮真、早く席について。」

前方にいる母が僕のことを手招きする。

母の横へ行き、ふっと前を向くと、笑った小春が僕を見ていた。

大分の温泉へ行った時、僕が撮った写真だ。


「ねースッピンだから撮らないで。」

楽しそうに笑っている彼女が愛おしくて、僕は思わずシャッターを押した。

「何も撮ってないよ。」

「嘘だ。見せて。」

「やだ。」

「もう怒るよ。」

小春はそう言うと、わざとらしく頬を膨らませた。


あの時の小春の声が今でも耳に残っている。

「小春・・・。」

「壮真。」

母が僕の手をギュッと握る。

小春。僕はこれからどうしたらいい?

優柔不断の僕に、いつも背中を押してくれる小春はもういない。

彼女は僕の裏切りを知った日から、自殺を口にする日が多くなっていった。



「やっぱりあの提案実行したほうがいいと思うんだ。」

小春はそう言って僕の目をじっと見つめる。

あの日から僕はまた小春の家に住むようになった。これ以上小春を不安にさせたくないのもあったが、僕自身、小春と離れることができなかった。一人にしたら何するかわからない。小春はそんな状態だった。

彼女は前に増してあの提案を進めてくるようになった。恋愛自由のあの提案だ。当たり前だ。僕が裏切って小春に大きな傷を負わせたのだから。

「嫌だよ。」

そういう度に、小春はそうした方がいいと理由をいくつも並べてくる。今もだ。

一生懸命言葉を繋げている小春を、そっと抱きしめる。

僕は変わったんだ。いや、変わってしまったに近い。

「大丈夫だよ。そんな提案しなくても、離れていかないよ。」

怖がらなくていいんだよ。

「私が喜んでしまうのが、安心してしまうのが怖い。」

「安心していいんだよ。」

「いつか離れた時にこの言葉が全部消えてしまうのが怖い。」

「離れないって。」

「裏切られる以上に信じたいって思える日が来て欲しい。」

「来るよ。」

「真実が私の知っている壮真であって欲しい。」

「うん。大丈夫。」

震える彼女を、僕は抱き締めるしかできなかった。



[2020年 7月1日]

壮真の隣で眠ると、安心さに埋め込まれてしまいそうで、その安心さに慣れないように、下で寝てしまう。

壮真は、「嫌いだから下で寝てるの?」と言う。

違う、いつかくるであろう一人の夜に、壮真がいなくなった夜に、辛さが増えないようにだよ。今は特別であっても壮真の生涯において特別にならない。

壮真は変わると言っていたが、前にそういう思考になった人が、変わると思えない。

「好きじゃない?」と壮真はよく聞いてくる。

ううん、大好きだよ。好きで好きでたまらない時がある。

でも、好きと思う度に恐怖で苦しい。

好きと思ってはいけない。こっちが不利になるから。

好きという素晴らしい感情を、素直に感じることの幸せを、私は感じることができない。

願い事が叶うのなら、壮真にずっと隣にいて欲しい。私を裏切らないで欲しい。もしこれが叶うのなら他に何も望まない。

嘘つかれて騙されているのかもしれない。大好きという感情で溢れそうなこの胸は、愛おしくて抱きつきたいこの胸は、全部嘘つかれていた時が怖くて、そう考えたら恐怖で、こんなに大好きなのに、何もすることができない。

私はこの苦しみから出たい。

私はこの人を裏切って傷つけたくない。でも、裏切って自分から手放すことしか自分を守る方法はないのか。でも手放したくない、悲しんでほしくない。

お願い神様、壮真の隣にずっといたい。でも神様いないから無理かな。



暑くて目が覚めた。外ではセミが鳴いていて、夏の訪れを感じさせる。クーラーの気温を下げ、再び眠りにつこうとベットに向かうと、小春が起きてきた。

「おはよう。」

「おはよう。眠れた?」

「うーん。昨日よりは。」

小春はそう言うと、眠そうに欠伸をした。

小春と再び一緒に暮らし始めて2ヶ月。今日は二人ともバイトがないので、家でだらだらすることになるだろう。

「映画見る?」

小春にそう提案する。

「うん。」

「何見る?」

「愛を読む人見たい。」

「何それ?どうせまたヒューマン系でしょ?」

笑って言うと、小春はネットで調べたあらすじを僕に読んできた。

「実は前に一回見たことあるんだけど、壮真と一緒に見たい。壮真がこれ見てどう思うのか聞きたい。私ももう一回見たいし。」

僕は映画の感想とか読書感想文が苦手だ。どう思う?と聞かれても、なんて言葉にすれば良いのかわからないことが多い。

「答えられるかわからないよ。」

「いいよ。とりあえず見よう。」

映画を流すと、小春は黙って真剣に見る。そして時々涙をする。今日も小春は黙々と真剣に見て、時々涙を流していた。

15歳の男の子と36歳の女の人の、恋愛、そして法と道徳についての話だった。

いい話だったな。そんなことを思っていると、早速小春から質問がきた。

「どうだった?」

「どうだったって言われても。いい話だったと思うよ。考えさせられるなって。」

「そっか。」

「小春はどうだったの?」

「うーん。一言じゃ言えないけど。まず、恋愛って言うより、お互いを必要としていたに近い気がする。世界に不信感とか物足りなさを感じていた二人は、刺激をくれるお互いを求めて、支え合ってたんじゃないかな。」

長くなると思い、キッチンへ行き、お昼ご飯の支度を始める。小春はキッチンの方へ向きを変え、また話し始める。

「ハンナは、裁判まで罪の意識がなかったって言ってたじゃん。仕事だからっていって定義に疑問を持たない人かなって始めは思ったけど、本当はずっと現実から逃げてただけなんじゃないかって思った。なんでかって言うと、ハンナは笑ったり、泣いたり、感情豊かな人で、本の世界を楽しめる人でしょ?私は、ハンナが自分の目線から見るという現実の自分を殺しているように感じた。朗読者でないハンナってこと。でも、マイケルは、朗読者となって本の世界に連れて行ってくれる。」

「うん。なるほどね。」

「この映画って、見えるものだけで判断される世の中を表していると思う。感情ではなく、形のあるものだけで決められた世界。ハンナは失読症を言いたくなかった。なんでかはわからない。本人にしかわからない譲れないものと、価値観がある。それなのに、平等ではなく、目に見えるものだけでその人の人生を終わらせる終身刑を言い渡される。」

小春は見たものを、僕の何十倍も読み取る。隅から隅まで読み取ってしまうのだ。

「ごめんね。長くなって。何作ってるの?」

「いいよ。カレー。」

「やった。」

小春が子供のようにぴょんぴょんと飛び跳ねる。

現実から離れた考え。悩みの大きさ。独特な価値観。そんな彼女は、いつも僕を励まし、肯定し、認めてくれる。そんな彼女も、雷を打ち尽くすと電気がなくなってただの雲になってしまう。そんな時、僕が手を差し伸べるんだ。



[2020年 8月5日]

他者や未来、過去だと客観的になり、当事者、現在だと主観的になる。

理屈よりも感覚で生きるべきなのかもと思った。

なんで物語はハッピーエンドという答えがあるのだろう。

何事も途中経過で行き着いた先なんてその時々変わるのに。



[2020年 8月12日]

純粋に人を愛せたらどれだけ幸せなのか。

その人たちにしか見えない、見えるものがあるのだろう。

きっと本当にきれいなものは言葉に表せない。

私は前にそれを経験した。壮真がさせてくれた。

本当に、きれいだったんだ。

だから、壊れた時の苦しみがわかる。

みんなそれが怖くて、きれいなものより汚いものを取るの?



夏も終わりに差し掛かり、半袖では少し肌寒い気温が続いていた。

僕たちは今、近所のスーパーへ夕食の買い物へ行くところだ。

「私ね、専門学校辞めて、大学行こうと思う。」

小春が真剣な目をして言う。

「そっか。いいと思うよ。」

「やっぱり大学行きたいって気持ちが強い。」

「そうだと思った。」

「受験勉強しなきゃいけないな。私、高校通信だから今まで勉強してないけど、大丈夫かな。」

「小春はできるよ。」

「なんでそう思うの?」

なんでと言われてもな。

「なんとなく分かる。」

いつもの僕のこの直感は、根拠を言葉として表せないが、当たるのだ。

「僕は小春のことを誰よりも知ってるでしょ?」

「うん。」

「だから分かるんだよ。」

「そっか。」

小春は納得のいかないような顔で俯いている。

まだ新鮮なひんやりとした秋の風が、僕たちの間をすり抜ける。僕はそれらを阻止するように彼女の手を強く握った。



[2020年 9月20日]

現実的に考えろ。今まで何回言われてきたんだろうか。歳を取るたびに言われる回数は増える。

考えが甘い。夢を見過ぎ。

生きて行くためにはお金を稼がないといけない。やりたくもない仕事に心をすりへらさないといけない。

縄文時代からみんなそうやって働いてきたんだろう。だからこれに違和感や不満を感じる私は、みんなの言うとおり考えが甘くて現実離れしているんだろうか。現実に近いとはどういうことだろうか。

私たちはいつまでも自由にはなれないんだろうか。この社会というものの仕組みに従って生きないといけない。これに従わないようとする私は反社会性なんだろうか。

先のことを考えろ。先を見据えろ。先なんて見えない。先なんてわからない。今が大事だ。

私はまだまだ子供で成長して現実を見て生きて行くことを学ぶんだろうか。

反発しても社会はびくともしない。

私が未熟なだけなのか。いつかわかる日が来るのか。

私は私を貫ける自信がない。推し進められそうだ。その時私はきっと大きくて大切な何かを失っていると思う。



[2020年 9月22日]

今日思ったことがある。

人が人のことを判断したり、こうだろうと知ったフリをしたり、その人の真実を確定しようと根拠付けたり、そんなことだらけだけれど、そんなことできないということを。

尾崎豊の人生についてと書いてある動画があった。彼の人生を私たちが判断できるのだろうか。死んで話題にするような人たちが、彼について語れるのか。彼の人生について語れるのは本人だけだ。彼の感情も彼の目も耳も全部彼しか感じたことないだろう。

私は同じようなことを他人にしてきた気がする。とても愚かで恥ずかしくなった。

どんな人であるか、どんな未来を歩みそうか、その人のことをわかったように判断してきた。今更気づくなんて。

そんなことしてはいけなかった。

そしてもう一つ。私たちは真実を知ろうと手探りに近くのわかっているものを見る。私たちの存在の意味や原因、宇宙のこと、人類のこと。おかしいことや不思議だらけの世の中の真実を、私たちは後何十年かしか生きられないから、知れないで終わる。終わりがいつか、あるかさえわからないリレーで私たちはバトンを引き渡すだけだ。私たちはゴールをすることはできない。ゴールを見届けることもできない。ゴールする頃、私たちの感情は消滅しているのだから。ゴールを目指してしまう私からしたらその事実がどんなに今していることを無意味に感じさせるか。だから私はいつも思うのだ。走ることを楽しむしかないと。



遠くで波阿弥陀が聞こえる。

「壮真、お焼香。」

「うん。」

そう言って立ち上がる。

お焼香の前へ行くと、僕のすぐ目の前で小春が眠っていた。

あの日、小春は学校へ退学届を出しにいく途中だった。


「退学届出しに行ってくるね。」

小春が、カバンにファイルをしまいながら、僕に言う。

「え、ついていくよ。」

「すぐだから大丈夫。壮真はご飯作って待っててくれたら嬉しいな。」

小春がニヤッとしながら言う。

「しょうがないな。何食べたい?」

「壮真の作るものだったらなんでも好きだから。」

「なんでもいいが一番困るんだよね。」

僕は呆れたように答える。

「冷蔵庫にあるもので適当でいいよ。私ね、壮真の料理一生食べたい。あ、プロポーズみたいだった?」

小春がわざとらしく口を押さえる。

「わかった。」

僕は笑みが溢れてしまいそうなのを必死にごまかすように冷蔵庫を開ける。

「じゃあ、行ってくるね。楽しみにしとく。」

そう言って小春は玄関のドアをしめた。

その10分後だった。横断歩道を渡っている彼女に、信号無視した車が追突したのは。即死だった。



「休学届だして、編入して、好きなこと勉強したら?」

そう言ってくれたのは小春だけだった。

僕は、好きでもないことを留年してまで、大学で勉強していた。

「私は、人生で一番価値があるというか、戻ってこないものって、時間だと思う。確かに学歴持ってたら将来リスクは少ないと思う。でも、リスクを恐れて予備に予備を重ねた人たちは、泣かないのかな?泣くと思う。どんなに武器を持ってても、それが将来も武器になるかどうかはわからないんだよ。」

「でもお金出してくれてるのは親だし、親は安定してお金を稼げって言うんだよね。」

「そっか。親としてはそれが一番安心なんだろうね。」

「うん。でも僕は編入して好きなこと勉強したい。今なんのために大学行ってるかわからない。」

「お金なんて、正直どうにでもなると思ってる。最悪バイトもできるしね。でもみんな安定を選ぶよね。壮真がどっちを選ぶかだと思う。」

「どっちっていうのは?」

「安定を選んだら、リスクも少ないし、批判されることも少ない。でも、自分を貫いたら、やっぱり批判は大きいし、波のある人生になると思う。」

「小春みたいになりたい。」

「私みたいって?」

「批判されても、自分の意見をちゃんと持てる。好きなことを一生楽しんでやってそう。小春と同じ感覚になりたい。」

「批判されたり人格否定までされると、私が間違ってるのかな?って辛くなる時あるよ。壮真の人生は、壮真だけのものだよ。だって壮真の体は壮真のものでしょ?だから、好きなようにしたらいいんだよ。どんなに守っても、どんなに大切にしても、最後は死んで何もなくなるんだから。」

「僕は、小春と好きなところに行って、好きなことしたい。」

「うん。私ね、いつも思うんだけど。酔った壮真が好きなんだ。なんでかって言うと、好きなことを周りのこと関係なくペラペラ喋るから。」

小春が少し笑いながら言う。

「なんか嫌だな。」

僕は恥ずかしくなって、少し怒ったように言った。

「なんで?本当に生き物好きなんだなって思うよ。それが少し羨ましくも思える。私はさ、生き物のことがよくわからないから、そんな壮真の話をいつも何かを見ながら聞く。そんな風にして聞く壮真の声は、いつもより自由で、笑ってるんだ。」

「そうなの?僕そんな感じなんだ。」

「うん。私は、周りの興味ある無しに関係なく、もっと好きなことを好きな分だけ話して欲しい。好きなことを話している壮真は、一番キラキラしてて楽しそうだから。子供みたいだよ。」

「そっかー。」

「うん。」

「僕、編入するよ。ありがとう、小春。」

「うん。壮真の家族に話してみよう。みんな壮真のことが大切で大好きだから考えてくれるんだよ。」

「話して伝わるかな。」

「私も一緒に話すよ。」

「うん。ありがとう。」

「私たちって甘いのかな。いつか成長して、甘かったって思う日が来るのかな。この世の中の空気に溶け込んじゃうのかな。」

「小春はずっとそのままだと思うよ。」

小春は何も答えなかった。

こうして僕は大学を休学して、編入試験の勉強をすることになった。

小春は僕の人生を初めて変えてくれた人だった。レールに乗った人生から降りることができた僕は、見ていた世界の他に、新しい世界があることを知った。初めて見たその景色は、僕にとって手放せないものとなった。とても居心地がよかった。



[2020年 9月15日]

今感じる感情というものが、なくなることが怖い。

無になるのだから何も感じない、怖いも何もない。とは思わない。

だって無からまた戻ることはないのだ。

感情というもののすばらしさを私は知ってしまった。

生きている中で、幸せというものがどれだけ負の感情に打ち勝つか。

たとえ苦しみの方が多いとしても痛みを感じれることがどれだけ幸せなことかを。

私が感情を感じれるのは後何十年かしかないのだ。

死んだら私が人というものを認識することも、何か思う感情も、もちろん生きるということも、永遠にないのだ。要はこの脳というものに私達は生かされていて、この中にいる私たちは、この脳が止まったら私たちは機能しなくなるのだ。そう考えると私達も機械的だ。

充電が切れたら止まるのだ。

それがどれだけ悲しいことか。

周りの人たちに会うと、どうしても性質上、上に上にと、今に執着しがちだが、私たちは機能停止した後、歴史の教科書の初めの方に2000−2087などと書かれるのだ。私たちが必死に生きたことなど、たくさんの優しい愛があったことなど誰も知らない今が来るのだ。私たちはこんなに生きているのに。



今日は快晴。朝、家の下のコンビニへ出かけると、過ごしやすい気温と眩しい日差しが、僕を優しく包み込んだ。

僕はわざとらしく伸びをして、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。

今日は何をしよう。そんなことを考えながら家へ帰ると、カーテンを締め切った薄暗い部屋の中、リビングの真ん中で、小春が海外ドラマを見ていた。彼女の横へ座り、話に追いつくように字幕を見る。

「昔と変わらないな。あの頃と。」

その言葉を受けて、主人公の女の人は優しく微笑む。

どうやら昔の恋人と再会したシーンらしい。

小春が一時停止を押してこちらを見る。

「おかえり。買ってきてくれてありがとう。」

「いいよ。」

「今見てるとこさ、この主人公の女の人が、昔の好きな人と再会するシーンなんだけど。この女の人には、今、夫も子供もいるんだよね。昔の好きな人と再会したら、人って揺らぐのかなって考えてた。」

小春はさっき買ってきたカフェラテを手に取ると、ストローをゆっくりと差し込んだ。

「うーん。どうなんだろう。」

「特に、初恋の人とか、すごく好きだった人とか。」

「そうだね。誰にでもいるもんね。」

「昔の好きな人と、大好きな人と、壮真もこれから出会うことがあるかもしれないって思った。と同時に、私にもあるってね。」

「うん。」

「怖くなった。今は奥さんがいるんだ。この人の方が早く出会ったら、この人と結婚してたな。なんて思われたら、やりきれないなって。でも、そこで思った。」

「なんて?」

「お互い考え方も、価値観も、昔に比べて成長して変わり続けてる。そんな今、私たちはお互いを必要としている。だからもし昔の好きな人とか恋人と出会って揺らいでしまったら、私たちは選べばいいって。それは運命のようなもので、昔の好きな人を選ばれたらどうしようって考えるよりも、私を選んでくれなかったら、きっとそれまでなんだって。私たちは何があっても一緒にいる関係ではなかった。必要な時に必要だっただけ。」

「うん。」

「私は、誰と出会っても、誰かに揺らいでしまっても、最終的に帰る場所であるような関係があるって思いたい。」

「僕はいつ小春と出会ったとしても、これから誰と出会ったとしても、小春を選びたい。」

「きっと揺らぐ日が来る。その時に私のことを重荷に感じて欲しくない。けど、そんな欲望を言っても叶わないから、自分の中でそう思おうって決めた。私たちが運命の相手なら、きっとお互いのところに戻ってくるって。」

「うん。」

「だから、揺らいでもいいから、戻ってきて欲しい。」

そう言う小春の瞳には、涙が浮かんでいた。何かを諦めたような、でもしがみ付くような瞳だった。

「よし、少しだけ受験勉強しようかな。」

小春はそう言うと、立ち上がって机へと向かう。

「わかった。僕はドラマの続き見る。」

再生ボタンを押すと、主人公の女の人と昔の恋人がキスをしたところから始まった。その瞬間、僕は思わず小春の方を見てしまった。彼女は、悲しそうな瞳で画面を見つめていた。



[2020年 9月25日]

倫理の勉強をしていて。カントの動機説に惹かれたというか、私もそうだと思った。でもそのあとの参考書の文には、普通じゃないね、常識とは外れているねと書いてあった。私はこのカントが合っていると思ったが、これを理解できない人もいるんだ。これが正解で周りの人は気づいていないだけ、常識に囚われているだけ。ずっとそう思っていた。でも、きっと、正解を見つける事よりも、自分に合うものを見つける事なのだと思った。正解はないのかもしれない。正解があると思っている時こそ、偏った見方をしているのではないかと。

哲学者同士は批判をする。人間も批判をする。

正解なんて人によって違うのだ。いや、これも私の考えであり、私のなかの答えであり、正解であり、正解は一つだけという人もいるだろう。人の答えを受け止めなくてもいい。そして自分の答えを消さなくていい。私の目に映る綺麗なものを、私の目に映る大好きな人たちを、ありのままの自分の目で、私は見たいのだ。



「小春、散歩行こう。」

「うん。お財布持った?」

「持ったよ。」

外に出ると、冷たい空気が、夏の終わりを感じさせる。

「寒くなってきたね。これくらいが丁度いい。」

「そうだね。すぐ寒くなりそうだけど。」

小春を見ると、相変わらず空を見ている。

「また空見てる。」

「いいの。星が好きなんだよ。私ね、大人になってこの感覚が変わっていくのが怖い。私が今見ているものが、今感じているものが、成長してなくなっていくのが怖い。今見てる大切なものが時間によって消えていくんだとしたら、ないんだと知ったら、その時私が見る世界に希望はないと思う。綺麗なものがあるって信じてるから、私の中でそれが希望なんだ。」

「うん。小春だけは何があっても一緒なんだろうなって思う。歳をとっても、色んなところに行って、色んな景色を一緒に見たい。」

「行きたいね。私たちはこれからなんでもできるよ。法を守ることと、お金に従うことはしなきゃだけど。」

「そうだね。お金はついてくるね。」

「いつか、お金に支配される日が来たら、大切なものなくしてるんだろうな。」

「それが大人なのかもね。」

「そうだね。」

僕たちは空を見上げながら家へ帰った。そんな毎日が幸せで、愛おしかった。




[2020年 9月30日]

色々なことを考えた。

そして、私は目の前にいる壮真を見ている。

真実はわからない。だから目の前にある確かなもの。今、壮真が隣にいてくれているということ。

私は壮真のことを、感情がない人とは思わない。むしろ、感情豊かだ。

だから、傷ついた時の傷の深さは人以上に深いと思っている。

そんな壮真はいつも何か感じたり傷ついたりしているはずなのに言葉にしない。方法を知らないだけだと思う。

だからもし私がいなくなって傷ついてても、周りの人は助け舟不要だと、壮真の心の辛さを見過ごしてしまうんだろうか。そんなことを考えた。

なんでかはわからない。けど、信じよう。もう一回愛したい。裏切られてもいい。そう思う自分がいた。裏切られる恐怖に縛られてても苦しいだけ。裏切られてもいいから、その先にある、素晴らしくて綺麗な愛を見たい。その愛があるというのは、確信に近かったと思う。これが明日も続くかはわからない。また怯えると思う。でも、こう感じれたことが嬉しかった。幸せだった。この人とまた綺麗なものを一緒に見てみよう。

私は今まであなたにどれだけ傷つく言葉を与えてきたでしょう。私は今まであなたにどれだけ傷いつく行動や目線をあげたでしょう。

私はこれらをとり消すことはできないし、その時のあなたの顔を、私は忘れたくない。私はあなたに償じゃなくて恩返しがしたい。こう思えている自分がいるということ、それはもう私に壮真を返してくれたということ。おかえり、壮真。もうどこにも行かないで。大好きだよ。



「小春、痛かったね。」

「小春。」

泣き声と、崩れ込む人達が目に映る。

「壮真くん、最後にお花添えてあげて。」

涙でボロボロになった小春の母が、僕に白い菊を差し出す。


「私達ってさ、お母さんたちより長く生きるじゃん?要は、お母さん達の方が先に死んじゃうじゃん?だから、その寂しさから目をそらすように、同年代の人たちと寄り添うんだと思うんだよね。生物学的に言ったら、子孫を残すためなんだと思うけど。私は、家族が先に死んじゃうっていう事実が怖い。だから、逃げるように家族と距離を置いてしまう自分がいる。でも時々、死への恐怖からくる寂しさを感じる夜、欲しいのは昔感じたことのあるあの温もりなんだよ。たまに子供時代に帰りたくなる。何も考えず、安心して守られていた時代に。でもね、その温もりを壮真はくれたんだよ。だからありがとう。」


小春の母が差し出す白い菊を見つめ、受け取り、棺の前へ行く。

「小春、壮真くんここいるよ。大好きだったもんね。」

僕は、ここで見たら何かが崩れるという本能を無視して、棺の中に目を向けた。

そこには、綺麗な顔をした小春が、気持ちよさそうに眠っていた。

「小春・・・?」

「小春。小春。起きるよね?」

「小春。だって、一緒に色々なところに行く約束したじゃん。将来の家の理想図も考えてたじゃん。」

「壮真くん・・・。」

小春の母に、抱き寄せられる。

「違う。違う。ずっと一緒って。将来もずっと、映画何見るかで喧嘩したいって。こないだ話したじゃん。小春。起きてよ。一人にしないでよ。」

崩れ落ちるように、小春に訴える。

小春、僕どうしたらいい?


「私が死んだらどうする?」

悪戯な目をした小春が、僕に聞いてきた時のことが脳裏に浮かぶ。

「うーん。わからない。」

「そっか。壮真が違う人と結婚したら私嫌だな。天国があったら、そこで出会いたいもん。」

「しないと思う。僕には小春だけだよ。」

そう言うと、小春は嬉しそうに笑った。

僕には小春だけ。これから環境も自分の感情も考え方も色々変わる。でも、これだけは変わらない自信があった。

僕には小春だけなんだよ。だから小春、僕の隣に戻ってきてよ。



[2020年 10月2日]

「これがなくなったら人生終わり。これが今の私の人生の全てである。それは壮真であり、自分の価値であり、命である。」これは私の目線だ。でも、他の人からしたら、未来の自分からしたら、縛られていると、狭い世界であるように見えるだろう。それを真実と取るか、私の目線を真実と取るか。私の結論は、「楽な方へ。幸福な方へ。」である。どちらも真実だ。でも、お互いの目線を経験したことがないから知らないだけ。他の人の目線を知れた時、新しいことに気づき、気づいていなかった自分を未熟だったと後悔する。そんなことの繰り返しなんだと思う。今の目線が全てだと思わないこと。そして、目線は変わっていくということ。大事なのは、この感情を喜ばしてあげるには、楽しませてあげるにはどうしたらいいか。それは、真実から見て世界が狭くても広くても関係ない。大事なのは感情だ。だって真実なんて無知で未熟な私たちからしたら、何もわからないのだから。

19歳の私には、人生がいいものなのか、どういうものなのか、答えは付けられない。きっと答えなんてつけなくていいんだと思う。ただ、いいものであって欲しい。いいものであると信じているから、私は明日も生きていけるのだ。




ベランダに出ると、小春がぼーっと空を見上げながら、ひんやりとした風を浴びていた。

「今日はね、曇りかなって思ったけど、月が雲の隙間からちょっと見えるんだ。」

僕も一緒に空を見上げる。

「本当だ。」

「うん。なんか、これだけで、ちょっと嬉しい気持ちになる。今日も私人間だな、今日も生きたなって。空は相変わらず存在してて、この奥の奥の奥の方まで、ずっと続いてる。」

「うん。そうだね。」

僕は黙って空を見続けた。横を見ると、小春の視線は、空と地上を行ったり来たりしている。

彼女の目には何が映っているのだろうか。

「僕は、これから先、小春と色々な場所に行くと思うんだけど、一個提案があって。」

「何?」

「行く所行く所で、二人の食べたいものをそれぞれ一つは食べるって言うのはどうかな?」

「いいね。そしたら色々なもの食べれる。」

「うん。二人で一緒にね。」

僕がそう言うと、小春は悲しそうに、でも嬉しそうに笑った。僕はそんな彼女が大好きだった。





















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