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違う事をする事 ーー不倫問題から考えるーー

 

 神田松之丞という講談師(落語家みたいなもの)がこんな事を言っていました。「仮に自分が不倫スキャンダルなんかを起こしたら一気に人気は下がるでしょう。それでも芸の実力は奪えない。だからこそ芸は尊いなと思う」 概ね、こんな事を言っていました。

 

 今、丁度また不倫スキャンダルでの盛り上がりをやっています。東出昌大というイケメン俳優が不倫していたとかどうとかで、大騒ぎしています。奥さんの杏も、爽やかないい人というキャラクター性で売っていたので、そのイメージが撹乱されるというか、奥さん可哀そうという声が多いようです。

 

 私個人は東出という人にも杏という人にも興味がなかったし、今もないのですが、東出という俳優がまた元の状態に復帰するのは難しいんだと思います。

 

 そもそもから言うと、この「爽やかなオシドリ夫婦」というイメージを全面的に展開させる事に問題があると思いますが、企業はそういうイメージで採用しているから、そのイメージを汚したという事で激高する。メディアと合致した大衆も、自分達が抱いていたイメージを裏切られたという理由で激高する。そうやって一度ひっくり返されてしまうと、もう元には戻らないという事かと思います。

 

 ここにおける問題は、世間的には「不倫がけしからん!」という事でしょうが、私はそもそも、世間との駆け引きというか、イメージのやり取り以外に残るものが何もない、そういうメディア上での在り方そのものに問題があると思っています。

 

 思えば、芸人の宮迫博之なんかもあれだけテレビに出ていたのに、一度問題になってから、突然にその存在が消滅してしまった。ゾッとするのは存在そのものが消滅したように扱われてしまうという事です。

 

 これを哲学的に考えてみます。世間とタレントとの関係は、時間的には「現在」「今」という基準の中にしかありません。過去がなく、時間的な連なり、積み重ねというものが全くありません。ここが私が一番反抗したいポイントでもあります。

 

 宮迫がいなくなって、「それでも宮迫が残してきた業績は大したものだ」という声はほとんど上がりませんでした。それは上がらないのも当然といえば当然で、宮迫のようなテレビ芸人は「現在ー今」の流れ去っていく空間だけで仕事をしているので、その現在から否定されてしまうと、存在そのものが消え去ってしまう。宮迫が消えればまた他の芸人が「アップデート」されて出てくるという仕掛けです。

 

 これは当然今の「新しさ」「アップデート」はいいという価値観と繋がっていきます。要するに、現在性に耽溺し、過去を失うと共に未来を失っているのが現在です。古典軽視、現在性に依存する過度なスポーツ選手に対する崇拝などもこういう状況から出てくる。

 

 話を戻しますと、結局、東出・杏夫妻が世間とやり取りしていた「爽やかなオシドリ夫婦・イケメンと美女」的なイメージ、それを差し引いたら二人に何も残らないのがそもそも問題だと個人的には思っています。

 

 しかしこういう事は一般的には問題ではないとされている。その場合は、ずっと「爽やかなイケメン・美女」というイメージを与え続け、それでそれが崩れる、年と共にイケメンでも美女でもなくなれば、フェードアウトしてくれればいいという事なのでしょう。フェードアウトしたら、世間は彼らの事を完全に忘れるでしょう。先にも言ったように、ここでは「絶えざる現代のアップデート」だけが問題なのですから。また他の似たような人が出てくるでしょう。

 

 要するに、今はこういう「永遠の現在」に浸っている状況です。でも、個人の生涯はそうではないので、そこから外れれば寂寥や悲しみが湧いてくる。そういう悲しみーー特に死ですがーーは、今の世の中は排除していきます。

 

 神田松之丞の話に戻すと、神田松之丞という人は、最初にあげた話なんかを見ても、そういう現在性からはみ出たものを志向しているというか、少なくともそれを感じている人だと思います。

 

 元々、神田松之丞は立川談志に影響を受けて出てきた人で、談志イズムだと思います。テレビに出て人気を浚うのはあくまで、「芸」の世界に人を呼び込む為の戦略に過ぎない。これは談志がやっていた事なので、それを踏襲しているのだと思います。

 

 そしてその事はテレビで人気が出ているだけでは駄目だという価値観だと思います。立川談志に私淑していた北野武も、テレビではない所で映画を作り、自分の城を作りました。大勢の人間がどう言おうとやるべき事はやらねばならないのだと思います。

 

 さて、話を簡単にまとめますと、根本的には、大衆との表面的なイメージの駆け引き、そのやり取りだけに終始しているものは駄目だろうな、というような事です。それとは違う事をやらなければならないし、そうでなければ意味はないだろうと私は思っています。

 

 ではその「違う事」とは何かと言えば、「現在」という水平的な時間軸を越えた垂直的なものです。最近、アメリカの作家ブコウスキーの自伝小説が原作の映画を見ましたが、そこで主人公(≒ブコウスキー)はどうしようもないダメダメ人間ですが、詩を書く事だけは捨てない。一見、飲んだくれのろくでもない奴ですが、どこか一本芯が通っている。それは詩とか文学に対する垂直的な人生観、価値観、生き方というものです。

 

 これは丁度、表面的にはパーフェクトな人間でありながらも、その根底に垂直的な、現在性を打ち破るものがなにもないタレント・俳優像と反対の姿に当たるのではないかと思います。

 

 私個人は、重要なのはブコウスキーのような芯のある人間の方だと思っています。こういう人間の在り方が、水平的な現在性を打ち破って歴史的な時間を紡いでいくだろう事を私は確信しています。もちろん、強いてダメ人間である必要はないですが、こういう人としての在り方は今の世の中が求めているものとは丁度反対のものな気がします。それでも最後に勝つのは垂直的な人物だと私は勝手に確信しているという事です。

 

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[良い点] 私は難しいことはよく分かりませんが、バッシングしてる方々はさぞかし品行方正なんだろうなぁと思いました。 人に言えない秘密などなく、生まれて死ぬまで何の悪いこともしない。 そんな素晴らしい人…
[一言] 私はあの夫婦の報道を見た際、杏さんの父で俳優の「渡辺謙」の事を考えたのです。一見、よくある芸能人の不倫報道なのですが、背景は結構、複雑なのではないかと思うのです。 杏さんが俳優という仕事を…
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