過去の話⑵
もう直前まで迫ろうかという時、セネトは目を瞑っていた。落ち着く為ではなく、涙が溢れぬように、ひたすらに力を込めて、固く閉じている。
殺される覚悟を決めていた。齢8歳の少年が抱くにはあまりに過酷な覚悟。だが、それをセネトは決していた。
留めきれない涙がぽつりと伝い、零れ落ちる。近づく金属の匂いに、ゴクリと喉を鳴らした。
しかし、刹那の間を通ってセネトの耳が捉えたのは、ギィイン、という金属と金属のぶつかり合う鈍く耳障りな音だった。
突然鳴り響いた不快音に、どうして斬られていないのだという疑問に押され、瞼を上げる。誰かが目の前に立っていた。
周囲で照る真紫の炎。
不気味さを携えたその街並みは地獄と同義であったことだろう。色とりどりに咲いていた道端の花も燃え、瓦礫は砕けて砂塵と化し、亡骸は黒い炭へと変わっていく。
そんな状況の中、目の前に立っている者の姿。
それは、白かった。
「あれは、お前が殺ったのか?」
鶴の羽毛のように真っ白な外套。そして、透き通るような白い髪。骨格や声質から男性であるということはすぐにわかった。
その男が口にする言葉には明確な憎悪と怒りが込められていた。焼き切れそうなほどの滾る憎悪と今にも噴出しそうな煮える怒り。それが、周りの異様な炎の中で男の姿をより際立たせている。
「貴様は……」
「レントさんを殺したのは、お前かと聞いている」
白き装衣をまとう男は、目の前にいる鎧の男が放った全力の剣筋を槍で受け止めていた。その槍には双方に穂がついており、波紋があしらわれている。
「噂の白騎士か……!」
「俺の質問に答えろ、魔人」
競り合いを解き、鎧の男は後ろに飛んで距離を取る。一時の間を保った後、鎧の男は口を開いた。
「ああ、殺した。私が彼らを殺した、これで良いか?」
その言葉を聞き、白き装衣の男は倒れているセネトの両親の方へと視線を向ける。競り合いを解き、おろされていた槍を掴む手がより強く握り締められていく。
「何故だ」
「何だと?」
「何故殺す必要があった。あの人達には何の罪も無かったはずだッ!!」
顔は見えずとも、声を荒げるその様からは、酷く怒りを露わにしていることを感じる。
「罪はない、か。確かに、罪ではない。貴様達からすればな。だが、我々からすれば大罪だ」
「だから殺したのか? 2人だけでは飽き足らず、この子供にも、剣を振り下ろしたのか!!」
荒げることもなく、鎧の男は淡々と語る。その言葉に、白き装衣の男は唇を噛み締める。そして、軽い金属の音を振りまきながら槍の先端を鎧の男へと向けた。
「殺す……お前らだけは───必ず、殺す」
言葉に咽び泣くような辛さがこもる。
白き装衣の男の言葉に、セネトは涙をこぼしていた。どうして泣いているのか。
助けてもらったから?
悲しんでくれているから?
もはや思考は、まとまることを知らない。
その時、ポツリ、と鎧の男の肩に滴が落ちた。
「水? ───ッ!」
ふと上に向けた鎧の男の瞳に輝きが灯る。血の気が引くような鎧の男の驚愕の表情。そんな男の視線の先にあったのは、炎に照らされながらごぽごぽと量を増していく、巨大な水の塊だった。
頭上広範囲をすっぽりと覆えるほどのそれは、丸い形を保ちながら、うねうねと波打っている。
「大海……!」
そう呟いた鎧の男は目を見開いていた。首元を伝う汗、無意識に噛み締める唇に気づくこともなく、ただ、見上げていた。
「何を考えている……あんな量の水をこの街に落とせば、多くの逃げ延びた人々が犠牲になるぞ……!」
冷淡にも見えた鎧の男が狼狽えていた。つられてセネトも見上げる。まるで空に巨大な湖が浮かんでいるようなその光景に感動を覚えていた。
セネトが白き装衣の男に視線を移した時。鎧の男もまた視線を正面へと戻し、明らかな焦燥をあらわにしていた。
「だからなんだ」
鎧の男の焦燥をあしらうが如く、淡々とそう告げる。
「他の奴らは知らないが、俺はお前が殺した2人とここにいる子供を助けに来ただけだ。他がどうなろうと知ったことじゃない」
「それが皇国最強の白騎士殿の言葉とはな、心底呆れる」
「最強であることと、英雄であることは違う。誰もが憧れ、誰もが尊敬する英雄を求めているのなら、現騎士長、魔法士長を頼ることだ」
鎧の男は正面をじっと見据え、動揺を整えているかのように、ふぅ、と息を吐く。吐き終えたあとの男の顔は、ひどく引きつっていた。
「噂で聞いていた評判とは真逆の男のようだな、白騎士」
「評判を鵜呑みにしたから、そんなに苛立っているのか? 『魔人王』実弟、ウィアテイル」
しばらくの睨み合いが切って落とされた。パチパチと炎が爆ぜ。そして、周囲から様々な声音の人々の雄叫びが響き始める。
白騎士と呼ばれた男が言う『他の奴ら』。
それはおそらく、仲間なのだろうとセネトは思った。
そして苛烈に広がっていく剣戟音や地鳴りのような轟音は、彼らが戦っているという証拠のようにも思えた。
「死ね、クズが」
周りの喧騒に耳を傾けていたセネトを他所に、白騎士はそう呟く。すると、上空の塊が突如として爆ぜ、耳を塞ぎたくなるほどの爆音が響いた。
堰き止められていたダムのように勢い良く決壊した大量の水は、一種の雄叫びのような猛々しさを巻き込みながら、街の上へと降り注いでいく。
無慈悲にもそれは街の炎を打ち倒し、建物を薙ぎ倒し、その場一帯を更地に変えようと躍進する。
「───ひっ!」
その対象は建造物だけに収まらず、セネトの右隣を窪ませた。慈悲なく打ち付ける殺意の雨。
しかしそれは、無差別などではなかった。炎の核を的確に打ち砕き、鎮火させていく
「本当にやるとは……くそっ!」
空から降る水滴は鎧の男───ウィアテイルを標的に突撃していた。一瞬にして落ちてくる滴を捉えながら、ウィアテイルは体勢を変え、剣を振るい、全速をもって後ずさっていく。
落ちる水滴は建物を砕き、大地を窪ませ、ウィアテイルの武装を傷つける。天災と呼ぶに等しい滴の嵐にウィアテイルは焦燥感を滲ませていた。
「逃げるだけか、糞野郎」
白騎士はどんどん遠ざかっていくウィアテイルに視点を合わせ、セネトの前から飛び出す。踏み込んだ場所の砂埃が舞い上がり、セネトはごほごほと砂を吐き出すように咳をした。
白騎士の背中が遠ざかり、セネトの周りには焼き焦がれた瓦礫と、両親の亡骸だけが残る。
肩の力が、ふっ、と抜けたようだった。先程まで殺されかけ、そして助けられた。
味わったことのない緊張感と安堵。
その差が疲れとなり、セネトは振り子のように地面に倒れ込んだ。周りの炎に当てられて、体温が上がっていた。
おそらく火傷を負っていることだろう。だが、そんなことを叫ぶ暇すらないほどに、寂しさと苦痛が胸を締め付ける。
「父さん……母さん……」
赤黒く照らされる両親の姿を捉え、涙が溢れ出す。じわりじわりと染み込んでいく悔しさをどうにか抑え込もうと、服を握りしめる。
「ああ……ああ……」
何もできなかったことへの後悔と自分への怒り。自分の意志が、力が及ばぬところで起こる理不尽に、唸る叫びで悶えていた。
両親の亡骸から少し視線を外すと、白い煙が上がっているのが見て取れた。爆ぜて街中に降り注いだ水は炎を打ち消し、蒸気を昇らせている。
「父さん……母さん……」
地面に向かって傾く涙で視界が揺らぐ。同じようにセネトの周りの世界も、日常と呼べるものから酷く歪んでいた。
簡単に、当たり前は壊される。
それを実感した瞬間だった。