File.1 あの手この手を愛しましょう2
餃子で艶華さんの舌を屈服させた後、僕はキングス伊瀬屋での出来事を思い出した。
「そうだ、艶華さん」
「ん、なんだい?」
僕が買い物袋から園田さんに貰ったチケットを二枚取り出し艶華さんに一枚渡す。
艶華さんは何かとまじまじと見たところで興味がなさそうにそのチケットを机の上に放り投げる。
「興味ないですか?」
「ああ、俺は生憎と芸術とやらには興味が無くてね」
「分かります」
「……それはそれで癪だな」
僕はチケットとは別にしてあった名刺を取り出した。
それを見せると、艶華さんは片眉を上げて名刺を見た。
「伊瀬屋で急に話しかけられたんですが、なんでも塑造をしている人みたいですね。僕の手をモデルにしたいのだとか」
「君の手を? どこからどう見ても平凡みたいな君をモデルに?」
「それは僕も認めるところですが、どうやらその平凡オブ平凡の僕の手をモデルにしたいみたいですね。平凡だからいいと言ってましたし。その参考に作品展に来てくれって」
正気を疑うような視線を僕越しに見た事も無い園田さんに向ける艶華さんであったが僕の言葉で無理矢理納得をしたようだ。
首を傾げつつもそのまま話を続ける。
「ふむ、それはよかったじゃないか。それで、どうしてこのチケットを俺に?」
「せっかく貰ったのですし、良い機会ですし一緒に行きませんか? 最近外に出てないでしょう?」
「嫌だ」
分かっていたことだが、艶華さんは即答で僕の誘いを断った。
艶華さんは基本的に怠惰だ。面倒なことや興味が無いことは一切やらない。
だが、ずっと部屋に籠っていては健康にも悪い。
実家のお婆ちゃんも言っていたが人間、太陽光に当たらないと健康にも良くない。
僕はお婆ちゃんっ子だから科学的根拠が無くてもお婆ちゃんの言っていたことは大体信用する。
「ずっと部屋に籠ってるよりもいいですよ。だから行きましょう」
「嫌だ」
「今週の日曜日でいいですね? 天気もいいみたいですよ」
「絶対に嫌だ」
「では日曜日、昼食は向こうで食べましょうか。調べておきますね」
「……君は俺の話を聞いてないね?」
そうして僕は艶華さんの話は一切聞かずに予定を決めたのだった。
今日は予定も無く、来客も無かったのでそのまま家に帰ることにした。
艶華さんは未練がましくブチブチと文句を言っていたが僕はそれを全て聞き流しながら艶華さんの夕食を作り、日が暮れる前にマンションを後にした。
春になると日が暮れるのも遅くなる。時刻はもうすぐ夕食時になるというのに未だ日は沈みきらず、赤い夕陽が遊び帰りの子供達の影を地面に映し出している。
僕はそんな中をかき分けて歩いていると「あっ!」と聞きなれた声が聞えて来た。パタパタと小走りで足音が近寄ってくる。
僕は振り向いて声の主を待った。
「雄介さん、今お帰りですか?」
「ええ、綾祢さんは……買い物帰りですかね?」
声の主は僕の借りているアパートの大家さんである綾祢桜子さんだ。よくおかずを差しいれてくれている人のいい女性だ。年齢的は僕より少し上だろうか?
お婆ちゃんから女性の年齢は聞いてはいけないときつく戒められているので聞いたことはないが、話した感じや声の高さ、肌の張りなどを見て察するにその程度だろう。おそらく二十代半ばになっているかなっていないかくらいだろう。
太陽のように二コリと笑う綾祢さんは近所の方々にも評判のいい女性で、ご近所付き合いの薄い現代ではかなり珍しい人だ。
「ええ、最近はお野菜が高いから少し遠くに行ってみたのよ」
そう言って綾祢さんはエコバックからチラシを出す。それは僕の住むアパートからは少し離れた場所にあるスーパーの特売チラシであった。
大根一本とキャベツ一玉がそれぞれ98円。最近では100円を切らないことも多かったので安い。
「ああ、本当だ。僕も行けばよかったな」
「安くてついつい多く買っちゃったから少しどうですか?」
「そんな、いいんですか?」
「ええ」
「ならご厚意に甘えさせていただきます。……荷物持ちますよ」
「あら、ありがとう」
僕は綾祢さんに感謝の気持ちを伝えつつ、荷物を持つことにした。
子供たちのはしゃぐ声をBGMにして僕たちは歩く。目的地は同じアパートなのでそのまま雑談をしつつ一緒に歩く。
「雄介さんは今日も家政夫のお仕事に?」
「いえ、僕は家政夫じゃないですよ?」
「そうなの?」
「ええ」
「今日はどんなお仕事をしてきたんです?」
「ええと、餃子を作って、部屋の片づけをして、夕食を作ってきました」
「……家政夫じゃないんですか?」
「ええ」
綾祢さんは首を傾げていた。艶華さんの世話はメインの仕事ではない。
それも仕事の一部ではあるけれど。まあ、そこのところを詳しく説明しても分かってはもらえないので無理に説明はしない。
「うーん、まあ小田桐さんが家政夫ではないといつも言うのでそうなんでしょう……いつ聞いても家政夫にしか聞えないですけど」
綾祢さんが納得したところで僕は今日あった出来事を話す。
そうすると、綾祢さんは「凄いですね」とまるで自分の事の様に喜んでくれた。
ここまで大げさだと僕は気恥ずかしい気持ちになってしまう。
「大げさな反応をされると照れますね」
「そうでしょうか? 人の手というのはその人の人生の略図だと私は思ってます。その手が評価されたのはその人の人生を評価された、と言う風にはとれませんか?」
「でも、平凡な手っていうのはどうなんでしょう」
僕はそう言ってくれた綾祢さんの言葉に思わず水を差すようなことを言ってしまう。
だけど、綾祢さんはそんな僕の言葉にも気を悪くした様子も、からかう様な様子もなく微笑みを浮かべて言った。
「違う人には平凡に見えても、違う人には平凡な手こそ特別な手に見えることもあるかもしれませんね?」
「そうですかね」
「そうですよ」
僕は良く分からずに首を傾げていたが、綾祢さんは「分からなくても大丈夫ですよ」と笑って言った。
その笑みはとても好意的なものだったので、僕は「そうですか」と言っておいた。分からなかったけど、別に悪いことでもなさそうだったからだ。
その後も雑談を続けている内に気がつけばアパートの前に来ていた。
綾祢荘という所有者の名前がつけられた築20年の木造アパート。だが、名前や築年数からは想像も出来ない程に清潔感があり、目だった老朽化もなくとても住みやすい。これは綾祢さんの管理が行き届いている証拠だろう。
部屋の中にはトイレも風呂もあるので不便は特に感じない。家賃はそのためそこそこだが、ネットの評価は美人の大家さんがいる、と言うことでそれなりの評判にもなっているらしい。
僕は綾祢さんに別れの挨拶をして大根やキャベツ以外にも貰った食材を受け取る。
最初はそこまでしてもらっては悪いと思い、一度断ったが綾祢さんに押し切られるようにして渡された。
好意を断り続けても失礼になると思い、諦めて受け取る。
貰った物を手に持って僕はアパートの階段を上っていく最中、背中から綾祢さんが声をかけて来る。
「雄介さん、後でおすそ分けに行きますね」
「いつもありがとうございます。今度お礼をしますね」
そう言うと、綾祢さんは「楽しみにしていますね」と悪戯っぽく笑った。
僕としてはそこまで言われるとプレッシャーを感じてしまうのだが。綾祢さんは何を渡しても笑顔で「ありがとう」とよろこんで言ってくれるだろうが、それだけに良く考えなくてはならない。
誰かに相談しようと心に決め、僕は自分の部屋である201号室へと入ったのだった。
部屋で僕はパソコンを起動すると、今週の日曜日に艶華さんと出かける為の下調べをすることにする。
チケットに書いてる展示会場の近場での検索を掛けめぼしい場所を探す。
評判なども読みこんで、老舗のハンバーグ専門店に決める。
そして、ついでに園田さんのことも調べてみる。
すると、園田さんはハンドモデル業界では有名な人の様で、その手の美しさから様々なシーンで活躍しているようだ。
見てみると、某有名なハンドクリームのコマーシャルや映画のワンシーンにも出ているようだ。
芸術家、などと名乗っているがネイルアートや手のイラスト、手のケアの仕方など化粧品業界でも名が知られており、更には自分で事務所も構えている。まさに『手』に関する事のスペシャリスト、と言うのが彼女の正体と言うことなのだろう。
そんな人に僕の手に興味を持ってもらった、となるとこれは凄いことなのではないかと思う。
僕は芸術の事はわからないけれど、想いの込められたものというのにある種の凄みを感じた。
芸術品などに心を動かされる感覚と言うのはこういうものなのだろうか。
背景を知ることで園田さんの作品展への興味が湧いたし、園田さんの手に注ぐ情熱も知ったことで僕の手を作品にしたいという思いを叶えてあげたいとも思った。
綾祢さんとの会話による後押しもあって、僕は園田さんのお願いに前向きに検討することを決めたのだった。