幕間 函館旅行
函館。
詩季にとって、憧れの地の一つ。彼は北の大地を前世も含め一度も踏んだことがなかった。
『あぁ。良いねぇ』
日曜日の午後二時。冬美が洗濯を手伝ったおかげで夕飯のしたくまで時間があいた詩季。
冬美と共に緑茶をすすりながら北海道特集の番組を眺めていた。
『きれいだね』
函館山の展望台。一〇〇万ドルの夜景はテレビ画面であっても美しい。
『一度は行ってみたいなぁ』
冬美は以前行った温泉旅行を思いだした。楽しかった。すごく楽しかった。兄とも一気に距離が近づいたと感じた良い思い出。
『そうだ、函館に行こう』
『京都かっ』
『え?』
『いやノリで』
JRなノリに思わずつっこむが冬美には通じない。
『行かない?』
『良いねぇ。でも、お母さんも紋女さんも忙しそうだよ』
いざ行くとなったら詩季は紋女も誘うつもりだ。だが最近二人は夜遅かったり出張で何日か留守にしたりと多忙である。
『だからこそ、りふれっしゅ』
『まぁ……一理あるね。言うだけ言ってみようか。ただ無理はさせたくないんだよねぇ』
『多分その心配は要らない』
という会話の末、たまたまその日、提案すると一瞬の間も無く可決された。
『今度、みんなで函館に旅行とか』
『今週末で良いかしら?』
『我も行って良いか? 良いよな? な!?』
『もちろん。社長一人残してったら酒と涙でおぼれ死んでそうですし』
『で、あるな!』
『このホテルでどうさ?』
『良いんじゃないかしら』
『秋、我が出すから一番良い部屋にせよ!』
『ラジャーさ』
『あら、ラッキーだわ』
『クマ食おうぜクマ!』
『普通そこは海の幸とか羊じゃないか? まぁクマも有るだろうがあれは珍味みたいなものだろ?』
『鹿も最近流行ってるらしいわよ』
『秋姉。馬、鹿、熊、ぜんぶ制覇すべき』
『狩るか!』
『どこのハンターさ』
いつも通りの暦家は当然のごとく旅行計画を進めたのであった。
「冬ちゃん、大丈夫?」
「しぬ」
痩せてるからか、北海道南部とは言え寒さで函館駅に着いた瞬間凍えそうな冬美。ガチガチと歯の根が合わず音を鳴らす。
「唇、紫になってる!」
「ぎ、ぎぶみーおんど」
そう言いつつ詩季の胸に顔を押しつけ抱きつく。当然受け止める詩季。あざとい、非常にあざとい、仕方無いこととは言え二人を見る他の家族の目はジトーっとしている。
「と、とりあえず、ホテルに行こう! タクシーで!」
「レンタカーを借りようと思ってたんだが」
「まだ死にたくない!」
即座に春姫の言葉をたたき落とす詩季。その剣幕に驚きショックを受けるが他の面子はさも当たり前のような反応であった。
「ぇえ……大丈夫だと思うんだが」
「春姫よ。雪道の運転、やったことあるのか?」
「無いですが」
「我もまだまだ死ねん」
「そうねぇ。交通事情も違うし、慣れない土地で必要に迫られてじゃないのに無理に運転する意味はないわよ」
「春姉さんと心中はごめんさ」
「姉貴ならなんとかしそうだが、スリルドライブなんざ旅行に求めてねぇよ」
雪舐めんな。
春姫以外の全員が心を一つにした瞬間である。圧雪、凍結、シャーベット等々、雪と言っても様々な状況が存在する。
ましてや冬の函館。海風と高低差でさらに難易度を上げる。関東の、それもほぼペーパードライバーがこれから生活する訳でもないのに運転して良い土地ではない。
「解った。ひとまず、タクシーでホテルに一度チェックインしよう」
妹二人に特にずたぼろに言われたが理屈としては納得したのですぐにタクシーを止めた。
「あ、また飲んでるの?」
「地ビールがな?」
「がなって」
「大丈夫じゃ、問題ない」
「水みたいなものよ~」
大人三人は小瓶のビールをいつの間にか購入しホテルの部屋に荷物を置いた瞬間一斉に栓を開けた。未成年組はさすがに呆れた。それでなくても新幹線の中で思い思いに飲んでいたのだ。
三人の酒許容量としてはまだまだなのは詩季も理解しているがこれから観光を、という状況でこれは頂けない。
「観光中止!」
「え?」
「いや、詩季、大丈夫だぞ?」
「雪舐めちゃ駄目」
家族を心配しての言葉である。雪が降った後の函館は車道はまだ良いが歩道はアイスバーン化していく。東北以南の雪道に馴れていない人間にとってはスケートリンクとなんら変わりない。
「詩季君の言うとおりさ。三人はこのままホテル内で夕飯まで飲むと良い」
「だな。万が一でも怪我したり転んで他の人間巻き込んだら洒落になんねーぞ」
未成年年長組二人の言葉に渋々従う地ビールの会。
「という訳で、詩季君。散歩行こう」
「だね」
「お兄ちゃん、連絡船の展示有る」
「お。冬ちゃん渋いとこつくねぇ」
「ここからゆっくり行って十分十五分ってところさね」
「じゃ、行くか!」
四人に残された酒愛好会はというと。
「こりゃちと失敗したのぅ」
「とは言っても新幹線のグランクラスでの飲酒は捨てがたかったのよねぇ」
「まぁ、明日も明後日も有るし、我々は乱れない程度に続行が良いんじゃないですか」
一番の若輩が買い出しに行き、会は続行されるのであった。
「これにする。折りたたみスパイク付き」
摩周丸の前に四人が訪れたのは靴屋であった。雪を舐めすぎた、と夏紀以外の三人はスニーカーで来たのを失敗と認識していたのでいの一番で訪れたのである。夏紀はなんだかんだと機動性を重視するので雪中行軍出来そうなほどに存在感のある靴を選んでいた。ちなみに冬美の防寒についてはさらに厚着をし貼るタイプの発熱体を到る所に貼り付けて対処した。関東在住の暦家の面々、特に子供達にとっては氷点下5度が未知であったのだから仕方ないといえば仕方ない。
「私も同じのにするさ」
「僕はこれにしよっと」
「なんでゴム長靴」
「安いし滑り難いし軽いし」
「なるほど」
もうちょっとお洒落に気を使っては如何だろうか、と姉二人は思うものの理屈を聞けば納得せざるを得ない。秋子がまとめて会計をしてその場で買った靴に履き替えた。部屋に戻るのも手間なので函館駅近くの丼市場という飲食施設コインロッカーに預け、船に向かうのであった。
青函連絡船は明治41年から昭和63年までの間、青森駅と函館駅とを結んでいた鉄道連絡船である。
かつての大戦でも大日本帝国をその輸送力で支え、高度経済成長期においては青函トンネルが開通するまでその存在感を失うことなく本州と北海道を繋いだ。その津軽海峡の荒波を何度も超え長期に渡って人と物資の往来を担ってきた。
時代が移り変わり役目を終えた一隻『摩周丸』が、今日もその時の流れと人々の想いの積層を教えてくれる施設となっている。ちなみに地元民はまず訪れない類の観光施設である。
「入場料、安いな」
「夏姉。ここはネズミ王国じゃない」
「あれはえげつねぇよな」
「夢をお金で買えると思えば安いもんさ」
「夢のない話だねぇ」
裕福な家庭だと全員がそれなりに理解しているものの、なんとも庶民的だと詩季は首を傾げる。
「そう言えば、みんなってお小遣いとかどうなってんの?」
ふと疑問に思い訪ねる。基本的に暦家の家計は春姫が仕切っている。
詩季の場合は家計を一部、特に食費についてほぼ全権を任されており、必要な物が有ればそこから払って構わないと春姫から言われている。それは春姫の信頼の証でもあるが詩季も特別物欲が薄いので不自由はない。
だが他三人はどうだったか記憶にない。
「僕は月に三千円」
冬美は小学六年生にしてみれば貰っている方かも、と言える常識的な範囲である。彼女に五千円一万円と与えればほぼ全額をゲームソフトに費やしていたであろうことを考えるとギリギリ妥当な金額である。ただし最近では道場の帰りなど小腹が空いた時の買い食いなどで大分足りなくなってきているのがお年玉を切り崩すなどが目下の悩みである。
「俺と秋は一万円」
「我が家は小学生は一年生が五百円、学年ごとに五百円アップ、中学は五千円、高校は一万円と一応決まってるさ。参考書とか部活とかで使うようなのは必要経費で別」
「リアルなとこだね」
「世間一般じゃ多い方じゃないか?」
「言っちゃなんだけど、うちってお金持ちと言えばお金持ちなのにそのあたり割と常識的なんだね」
詩季の言葉に一瞬姉二人が目を逸らす。今の詩季になる前まで、それこそ春姫の奮闘もあったがなんだかんだで詩季が自分たちの数倍ものお小遣いを貰っていたことを思い出したからだ。
世の親御にありがちな男児優遇のダブルスタンダードに文句を言うつもりもないが、覚えていない本人に掛ける言葉は見つからない。
「お兄ちゃん、市場にイカ釣りってあった」
「へぇ、やってみようか」
「今の時間はもうやってないさ」
「明日やればいいんじゃね」
「ん」
上手く話を逸らした妹に心の中で親指を立て、揃って摩周丸に入っていくのであった。
「うわぁ。良いねぇ」
詩季が一番気に入ったのは当時のグリーン指定席を再現した座席であった。深紅の席が並び前方に大画面液晶には運航当時の映像が映し出されている。
「新幹線のグランクラスも良かったけど、これはこれで味が有るさね」
「この真っ赤なシートは味が有るな」
「昭和れとろな動画、意外と楽しい」
四人で並んで座ってモニターに移された紹介VTRを眺める。がっつり観光というよりも本当に散歩の空気が意外と楽しくのんびり出来る。
「昔は津軽海峡の状況によっては何日も足止め食らったらしいよ」
「今や東京からでも四時間くらいだから凄いよねぇ」
「飛行機っていう手もあったんだけどね」
「俺、飛行機苦手だから新幹線が良いわ」
「僕は飛行機でも良い」
「今回は前よりさらにゆるい旅行だし、移動も違った雰囲気で良かったと思うよ。乗り換えとか待ち時間考えるとあんまり変わらない気がするし。何より地ビールの会の面子はあっと言う間に着くとそれはそれで味気ないなんじゃないかな」
苦笑しつつ詩季は評する。自分も味わいたいという気持ちは有るがさすがに我慢する。ストレスが少ないからかそこまで酒に執着が無いのも理由の一つだ。
「なかなか楽しめたなぁ」
「模型展示もあれだけ大きいと迫力あるさね」
「冬ちゃんはなにが一番良かった?」
「レッドなグリーン席」
おもろい子だと詩季は密かに悶えるが姉二人はお見通しである。
「冬君は天才さ」
「いや、天然じゃね?」
「失礼な」
「あはは」
詩季のツボは特殊過ぎて狙い打ち出来ないが、末の妹は天然で着弾率高めで多少歯がゆさがある。
「雪で滑る。危ないから手、繋ぐ」
「あ、うん。そだね」
冬美は詩季をエスコートするつもりで、詩季は冬美を守るつもりで繋がれる手と手。
「あー、やっぱあいつ天才だわ。一回目」
「新型の方が優秀なのさ」
「お前はもうちょっと姉としてプライドを持て。あ、二回目」
「ネトオクで買えるかい?」
「売ってても安そうだな」
「三回目。よく転ぶもんさね」
ホテルへの帰り道、何度も転ぶところを助けられたのが誰だったかは語るまでもない。
函館、美味しかった。




