馬鹿親 馬鹿
詩季の朝は早い。
五時には起きまずはシャワーを浴びて朝食とお弁当の用意をするのである。母親である節子は無理をして貰いたくないと思いつつ「自分もお弁当の方が良いし」と栄養バランスの良い弁当を作ってくれるのだから断るなど勿体ない。
詩季にすれば前世の安月給で腹一杯旨い物を食べようとしたら基本は自炊するという方向に向かい更に独り身での病気は苦しいという経験からバランスも考えるようになっていったという悲しい歴史があった。前世ではほぼ天涯孤独だった詩季にとってお弁当を作ること程度で新しい家族のためになるとなれば作らない訳がない。
それまでどうしていたのかと家族に尋ねた。
母親「時間が無いから大抵店屋物か牛丼かラーメンかしら」
長女「ホッドモッドの唐揚げ弁当が多いかな」
次女「購買部のパンと学食のラーメンだな」
三女「ポテチ」
との返答であった。そしてふと疑問に思った詩季は妹に尋ねた。
「冬ちゃん。遠足とか給食無い日とか、どうしてたの?」
そういう時くらい春姫あたりが作っていたのかと期待したが、外れた。
「朝……コン、ビニで」
詩季は膝から崩れ落ちた。小学生の遠足。詩季の脳裏に己の前世の記憶がフラッシュバックしたのである。クラスメートは親が握ったお握りやサンドイッチ、色とりどりのお弁当を広げ楽しそうに食べている。自分はプラスチック成形容器に入った大量生産のコンビニ弁当。誰も気にしていないだろうに自分は気になって仕方ない。物陰や端の方でコソコソと食べるのだ。それはとても惨めで例え好物のハンバーグでも味が感じられない。そんな弁当であった。勿論コンビニ弁当が悪いのではない。詩季は前世で家族運が悪かっただけなのである。
「駄目絶対! 今後はコンビニ弁当禁止! 絶対禁止!」
「え」
「僕が作るから!」
「ええ?」
「コンビニ弁当よりずっと美味しいの作るから! 友達からうらやましがられるようなの作る!」
「えええ?」
というやり取りがあったのである。今や朝食とお弁当及び休日の昼間は詩季が手がけ、夕飯は春姫と詩季二人で作る事が多いという状況になった。
ちなみに冬美にとってはそういう時には母親から小学生にしては多めのお小遣いを貰っていたため「好きな物を好きなだけ買える……コンビニぐっじょぶ遠足ぐっじょぶ」などと考え詩季の考えた悲壮感など全くなかった。友達ともコンビニ弁当のおかずや大量のお菓子で、おかずやお菓子をトレードしていたので他の家庭の味にはなるが味わっていたと言えた。
話は戻って詩季の朝は早い。
「今日も早いわね」
そして昨晩は深夜に帰ってきたため子供たちに会えなかった母親、節子が起きてきた。三時間程しかまだ寝ておらず眠気はまだまだ有るが愛息子との団らんのためならどうということは無い。
「あ、ごめん。五月蠅かった?」
少し慌てたように詩季が尋ねた。
「ううん、お味噌汁の良い匂いだったから思わず起きちゃった」
おどけたように答える節子に詩季は安堵する。
「お味噌汁に卵入れる?」
「具は何かしら?」
「わかめと豆腐」
「入れて入れて」
「はーい。出来るまでもうちょっと掛かるけど、寝てる?」
「今日は休みだから朝ご飯食べてから二度寝するわ」
「贅沢な休みの過ごし方だねぇ。お昼、お弁当で良い?」
「ええ、詩季ちゃんのお弁当なんて最高の贅沢よ」
過去の詩季なら絶対に好意からは作ってくれなかったであろうお弁当ほど心満たされる物は無い。もしあるとすれば同じく詩季が作ってくれる料理と詩季の笑顔に他ならない。今日はそれを肴に昼間から酒を飲むと決意し、さりげなく春姫が買い込んでいるビールが冷蔵庫に入っているのをチェックしておく。
「あはは、褒められてもお弁当しか出ないよ」
そしてそれぞれに起き出して徐々に賑やかになっていく。
「朝のお味噌汁ってなんか良いよなぁ。詩季が作ってくれるのは深みが違うぜ」
「そうさね。なんか優しい味なのさ」
朝は出来るだけ皆で食べるような流れがここしばらく出来上がっていた。主食は米が多いが、例えパンでもお味噌汁を欠かさないのが詩季のブレックファースト。具は日替わりだ。
「そうね……不思議よねぇ」
「詩季の味噌汁は最高さ。私に一生味噌汁作ると良いさ」
「あはは、ありがとう」
「朝から済まないな。私はどうも朝は苦手で」
「春姫姉さんは夜遅くまで勉強してるから仕方ないよ。僕、料理好きだし大丈夫大丈夫」
「ああ。って、こら冬美。行儀悪い」
春姫に注意された冬美はびくっと動きを止めるが後の祭りとばかりに「明日から」と開き直る。冬美はご飯に味噌汁を掛け食べ始めていたのを咎められていた。
「ねこまんま、美味しいよね? 僕も好きだよ」
「う」
詩季は冬美に笑いかけた。それをまだどこか警戒した猫のように見返しお茶碗で視線を隠す。
「家の中だけだったら良いんじゃないかな? 冬ちゃん猫舌だし僕も美味しく食べて貰うのが一番嬉しいな」
詩季の笑顔と言葉に春姫は罰が悪くなった。
「まぁ、家の中だけなら」
「そうよー美味しいわよねぇ、卵入り味噌汁のねこまんま」
「母さんまで。会社役員が全くもう」
「叩き上げの末席だもん。粗雑でなんぼよ」
「え」
「ん? どうしたの?」
「お母さんって役員なの?」
「そうよー、ちょっと偉いのよぉ?」
「へー、すごい!」
「ふふ、もっと褒めてもっと褒めて!」
「本当に凄いね! 僕なんて中小企業の主任が」
精々だった、なんて言いそうになり口を噤んだ。
「詩季はきっと母さんのこと中小企業の主任か何かだと思ってたんじゃねぇの?」
夏紀に茶化さないで、と視線を投げる。
「あらら。まぁ貴方達が私学の大学行っても大丈夫な位には稼いでるから心配しないでね? 詩季ちゃんは男の子なんだから危ない世間に飛び出さず家にずっと居ても良いんだからね?」
「詩季君、これが哺乳類霊長目ヒト科馬鹿親族の見本さ」
秋子はバスガイドのように手を上に向け節子の生態の説明を加える。
「秋子ちゃんは本当に私の扱いが酷いわぁ」
「尊敬はしてるけど目指したくはないという微妙な母親でもあるのさ」
「ああ、解る。役員とかすげぇって思うけどその性格には似たくない」
「妹達よ、気が合うな」
夏紀と春姫のしみじみとした同意に詩季は笑いを漏らす。打てば響くというか、会話のテンポが良く耳に心地よい。
「もう。貴方達、もうちょっと大黒柱を労りなさい」
節子は節子で苦笑いし引きずらず軽く流す。家庭ではお茶らけキャラだがとある総合商社の役員でネット検索をすれば数百件名前がヒットする位には有名であり、家も裕福と言える。
「あ、じゃあお母さん、一つお願いあるんだけど」
「なになになに? なんでも言って? お洋服でも欲しいの? それともアクセサリー? お化粧? お母さん何でも買ってあげる。あ、冬美ちゃんにも買ってあげるけど他の娘達は駄目よ生意気だから」
「うわ。差別だ」
「お小遣いで足りてるさ」
「特に必要なものは無いな。酒位は自分で買うし」
「ドラゴンファンタジーⅩ」
さりげなく最新RPGをリクエストする冬美。ちなみにこの世界ではゲーム人口の殆どが女性である。
「良いわよぉ。でもちゃんと勉強もするのよ?」
「だいじょぶ」
今の詩季になる前のような食事時と違って、冬美にビクビクとした様子、緊張感がすっかり消えているのが節子の目にも見て取れた。昨晩のお祝い、自分は参加出来なかったものの春姫から事のあらましを聞き改めて自分の目で確認すると溢れ出る喜びも一塩であった。
「で、詩季ちゃんは何が欲しいの?」
「昆布醤油っ!」
昆布醤油は偉大である。何故ならどんな物にも合うからだ。そして多少値段は張ると言っても丸大豆醤油と使い分けすれば安価に食卓の味わいもワンランクアップする筈だと詩季は考えていたのである。ただ、詩季が前世で好んだメーカーの商品があるのは確認したがその昆布醤油は、普通の丸大豆醤油一本百九十八円だとしたら、昆布醤油一本で三本四本買える計算になる高いと言えば高い嗜好品なのだ。
「良いわよ! え? こんぶしょうゆ?」
「良いのっ?」
「え、良いわよ? 昆布醤油でしょ? 調味料のよね?」
「うん、昆布醤油っ」
節子は混乱した。数万円、数十万円の物でさえ愛する息子にねだられれば断るつもりはなかった。以前の詩季は様々な物やお小遣いをねだろうとしていたが事あるごとに春姫が諫めて詩季を一般人としてギリギリの金銭感覚で納めていたのである。だが、今の詩季は家事も一生懸命で明るい家庭を築こうとしているかのように自分たちに気を使ってくれているし実際に子供達の表情が明るくなっている。ご褒美的に何か買い与えたくなってしまっていたのである。
だが、昆布醤油をねだられるとは思わず首を傾げたまま止まってしまう。頭が落ちてしまいそうになる位に首を傾げる。
「詩季。帰ってきたら一緒に買いに行こう」
「うん! お母さん、ありがとう!」
良いのよ良いのよ好きなの買いなさい、と答え詩季の頭を撫でながらやっと合点がいったように手を叩く節子。
「あ、解った。醸造元ごと買って欲しいって事ね?」
蔵元ピンチ。
「ほら詩季、これが馬鹿さ」
先ほどの解説から「親」が抜けた。
「こういう所が似たくないんだよなぁ」
しみじみ、本当にしみじみと吐き出される。
「詩季、母はあの通りだから何かあったら私を頼るんだよ?」
長女は長女で露骨に自陣営に弟を引き込もうとする。
「あはは」
冬美はそんなやり取りを眺め呆れつつ先ほどの詩季の発言を思い出す。冬美が猫舌だといつ知られたのだろうか。特に誰かに言った覚えもないし、自分でも自分が猫舌という意識はなく「言われてみればそうかもしれない」と思ったくらい自分でも意識してなかったこと。それをここ最近はともかくそれまではずっとすれ違っていたはずの兄が気付いたのは何故か。
その答えはご飯を食べている時によく向けられる兄からの優しい視線の中にあるのだが、冬美がそれに気付くのはまだもう少し先の事となる。