ヒュー ごめんね
「カレーかぁ。お祝いにカレーって、姉貴どういうセンスしてんの? 詩季が可愛そうじゃね?」
あーあー、とでも言いそうな口調の夏紀。
「所詮は男日照りの成人女性に男子が喜ぶセンスを求める方がおかしいのさ。ほら、詩季。私がケーキを買って来たさ。食後に皆で食べよう」
いつも通り淡々とした口調ながら人を下げて己を上げる秋子。
「おい、そのケーキは俺も金出しただろ!」
「器の小さい女は嫌われるのさ」
帰宅後、真っ先に匂いの発生源であるキッチンに乗り込み長女に駄目出しをする二人は華麗にスルーする春姫。カレーだけに。
「あ、僕がカレー食べたいって言ったんだ。ごめんね」
「カレーライス、ヒュー!」
「スパイスボーイ、ヒュー」
スペースなコブラ的だが意味は解らない。最愛の弟のチョイスを貶した事を誤魔化したつもりなのだろう。この二人は割と仲が良いのだろうと苦笑いを浮かべる詩季。
「ヒュー」
そして隣で鍋をかき混ぜる春姫も妹たちの戯れ言に腹を立てることなく腰に手を当て尻を横にフリフリしながら口笛を吹く。いつも通りの無表情だが目の奥に喜色を見つけ意外とお茶目だと詩季は笑った。
「ひう。あれ、ひゅう。あぁ」
詩季も真似るが口笛を失敗。その可愛さおかしさに思わず吹き出す姉三人。前世の世界で言えば美少女が口笛を何回も失敗し恥ずかしそうにしているようなものである。詩季は恥ずかしそうに俯き、何事も無かったようにサラダの盛りつけを続ける。
「あざといヒュー!」
「あざとしヒュー」
「天然凶悪ヒュー」
「や、止めて。練習するから」
女三人で詩季をからかう。こんな光景が最近では度々起こり姉たち三人にとって至福の一時であった。
「ただ……いま」
そして、冬美が帰って来ても気付かなかった。
「何、あれ」
冬美はリビングには寄らずそのまま自室に行き、ランドセルを背負ったままベッドの上に寝転がる。
「皆、ずっこい」
何に対する不満なのか、冬美自身が整理をつけられていない感情である。
兄である詩季が強盗に襲われ生死の境をさまよったのは半年前。その間、何度か詩季本人に話しかけられ、母と春姫にも状況の説明をされた。確かに詩季の性格は変わった、どころか別人格になったと言って良い。冬美にすると、大分平和になった。
ただ、不満だった。他の姉たちとは違い自分は家に居たのに自分だけが無傷だったこと、助けられなかったことが。そして、結果論でしかないが、昔の兄、昔の詩季のまま回復したのであればきっと「役立たず! この残りカス!」と罵倒してきたであろうし、それならば罪悪感も生まれなかったと。だが今の詩季は、冬美にとって理想の兄であった。美少年で穏やかで気遣うように接してくる。
無防備な兄と一度、脱衣所で遭遇したことがある。その時は、胸部の傷がまだ痛々しく残っているのを見た。そして兄の裸体に興奮するという背徳感と一生消えないかもしれない傷に対する罪悪感を覚え、気が遠のいた。この世界の男子の胸部への傷は、詩季の前世における女子の乳房への傷と同義であり、この世界の女性としては何とも表現し難い後ろめたさが生まれるのであある。
いつまでもこの状況だと今度は自分の態度が悪いと姉達に咎められるのではないか、という危機感も有り、何とか対応を改善したいとは思っている。勿論これまでの経緯を間近で見ている姉達が冬美を責める事等無いが、あまり続くようだと何とかしたくなるだろうことは冬美以外は想像していた。
冬美は末妹として兄に虐げられてきたという過去のトラウマから面と向かうと言葉が出てこない。きっと、一言だけ「強盗に気付くのが遅くてごめんなさい」と言えれば楽になるだろう、ともどこかで考えていた。あの穏やかな兄になった要因とはいえ、あの兄にならば一言謝りたいという気持ちも芽生えてきてしまう。どちらが先でもあり得ない状況に冬美は戸惑いが続いていたのである。つまりは、詩季に惹かれて居るのだがあまりに身近な人間の大変身故に受け止めきれていないのだ。
「冬美ちゃん。お帰りなさい」
ドア越しに声を掛けてきたのは頭を悩ませていた相手、詩季だと気付き飛び起きる冬美。
「……ん。何」
ドア越しに答え、用件を尋ねた。まだ夕飯の時間には早い。
「あ、ううん。帰ってきたからお帰りって言いたくて」
この兄は何なんだ。今までは「おいお前」とか「愚図」とか「死ね」とか「邪魔」とか「暗い」とか「辛気くさい、虐められっ子だろお前」とか心抉ってきたくせに今になって優しく声を掛けてくる。本当は後遺症など無くてこれが演技だとしたらおしっこをちびりそうになる位に恐ろしい。
「………そ」
「寝てた?」
「……て、ない」
「そか。疲れたなら寝てても大丈夫だよ。あとご飯になったら呼びに来るからね」
ある日突然、見た目だけ良かった意地悪で性格最悪な兄が、見た目も良いままに優しい兄になったとしたら、妹としてどうするのが自然なのだろうか。冬美は足でベッドをばたばたと蹴って如何ともし難い感情を表現し、いつしか疲れて眠りに付くのであった。
「冬ちゃん、ごはんだよぉ」
日も暮れて夕飯の時刻になり、予告通りに迎えにきた詩季は妹の部屋から光が漏れていないのを確認し、そっとドアを開けた。カーテンも閉めず冬美はベッドにうつ伏せに寝ていた。
「ふ~ゆ~ちゃ~ん」
起こす気が有るとは思えない囁き声で近づき、冬美の枕元に腰を静かに置き、見つめる。
綺麗な子だ。線も細く、目鼻立ちはすっきりと人形のようである。普段はツインテールにしている髪の毛は絹糸のように滑らかで、今は解かれている。
「どうやったら仲良くなれるかな」
記憶を失う前の自分、と言ったら正確とは言えないが「以前の詩季」がどういった事をこの小さな少女に言い、どう扱ってきたのかを言葉を濁されながらも春姫に教えて貰った。
「冬美ちゃん、ごめんね」
自分では無い自分のしたこと。だが、詩季として生きるしかない自分にとって、それは無かった事には出来ない。こんな小さな妹に、こんな可愛い少女に、トラウマを植え付ける程。それに関して姉たちになぜもっと諫めてくれなかったのか、という責任転嫁にも似た八つ当たりの気持ちは有るが、それを言っても心が曇るだけで何も解決しない、と中身はうだつの上がらないおっさんだった詩季でも理解していた。
「今からでも、出来れば良いお兄ちゃんになりたいんだけど、どうしたもんかなぁ」
詩季は起こさないようにゆっくりと冬美の髪を撫でるように梳いていた。
「あれ、来ねぇな?」
「来ない……冬君が詩季君を押し倒してる可能性ががが」
「ちょっと混ざって来るぜ」
「私もジョイン」
「兄と妹で何が有るという。良いから座ってなさい」
春姫は今の詩季は繊細過ぎる位に人の顔色を見て過ごしていると感じていた。それは繊細というよりも詩季の新たな人格が対人関係において臆病なだけであるが、この世界における「男性らしさ」とも言えるためマイナスには映らなかった。危うさは勿論多少感じるが、冬美との関係においては詩季が下手な事はしないと春姫は確信している。及び腰だが少しずつでも歩み寄ろうとしていると。
「詩季は……本当に変わった、のか?」
詩季は本当に詩季なのだろうか。ふと、そんな想いが一瞬胸を過ぎった。