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幕間 社長と財閥

 十鬼紋女ときあやめは暦節子が役員を務める総合商社、abecobe corporationの創業者である。若干四十二歳。四半世紀にも満たない年月で一部上場を果たした異才であった。

 順風満帆に見えるがその人生は穏やかなものではなく、むしろ波乱と評するべきである。


 紋女の父はとある地方財閥の一人息子であり、紋女の母は愛人の一人であった。父と本妻との間に長らく子が産まれなかったため、紋女が跡継ぎとして十歳まで蝶よ花よと豪邸で使用人に囲まれ育てられた。紋女と本妻との仲も良好に見えた。


 だが、本妻に子が出来たときに転機が訪れる。

 本家、本妻、そして本妻の実家。様々な思惑により紋女と実母は事実上の手切れ金を持たされ追い出されたのである。

 紋女の母は最後のその時まで苦悶の日々を過ごした。紋女の母の人格も多分に問題は有ったが本妻と共に財閥の重鎮として働いてきたプライドが彼女の精神を歪ませるに至った。


「母は、気高いというよりもお高くとまった愚か者だった」


 紋女はそう思う。そう言った世界で生き恩恵を受け最後に競争に負けたのだから何を恨む事がある、と。


「我は違う」


 紋女は一人の時か身内と認定した相手の前では己のことを古風にもわれと呼ぶ。


「己以外に我の首輪の鎖を持たせたりはせず」


 だから自分で会社を興した。有能な人間を集めた。十鬼グループに恨みは無いが、衝突し良い勝負が出来るだけの地力を得たと感じたときは笑いが止まらなかった。勝利すればそれは麻薬の如く全身を迸りまさに愉快痛快であった。


「しかし……負けは、いつでもたまらんなぁ」


 とあるリゾート開発コンペにおいて、十鬼財閥と真っ向勝負し敗北したという報告を受けた時、まだ若きトップはこう答えた。


「カッカッカ! 構わん構わん! 百戦百勝ではつまらん、次は勝つぞ!」


 数千万円の調査費用等経費が飛んだ。だが、結果に対する分析レポートは提出させるものの無闇に雷は落とさない。仕事人としての器は大きかった。


「あぁ、そうは言っても百戦百勝したいものぞ……特にあの馬鹿共には負けたくない」


 彼女の本音である。自分の肝入りのコンペでもあった。故に精神的ダメージも大きい。


「飲んでも飲んでも足らん」


 彼女は勝てばどんちゃん騒ぎを好む豪快さで部下を心酔させる一方で、負けた時には部下を遠ざけ悪癖を発露させる難儀な性格でもあった。


「あっちゃ~ん、ピンドン開けて良い? ねぇ? 今月あと八十万でトップいけるんだよぉ」

「好きにせい。たかがその程度で情けない奴だ」

「流石あっちゃん! あっちゃんかっこい~! うぇ~いあざ~~っす!」


 紋女は思う。ホストは金に群がる虫だ、と。見下し餌に群がるのを笑い、時に踏み殺す遊び場だと紋女は認識している。それが職業差別だと理解はしていても納得はしない、そんな生き方をしてきた。


 そして性欲を満たすため男を買うことも厭わない。


 金は有る。だが、いくら物質的に満たしても心は満たされない。人としての欲は満たしても精神的には満たされない。むしろ物質的に満たされるほどにそれが顕著に表れる。


 解っていた。特に暦節子を見ていれば自分に何が欠けているのか理解出来る。


「もっと早く……いや、高齢出産にはなるがまだ遅くはない……ただ、好きでもない男の種で作った子供を愛せるのか?」


 母は紋女を放棄した。つまりは道具でしかなったという証左であった。


「たまらんなぁ」

「あっちゃんペース早すぎな~い? 大丈夫ぅ? また暴れたりしないでよぉ?」

「うっさいわ!」

「わわわ、一気はやめなって!」

「触るでない、このヤリチン野郎が!」




 気付くと朝焼けが瞼に差し込んでいた。重い瞼を持ち上げると視界にバナナの皮らしきものがある。どうやら路上のゴミ箱に頭から突っ込んだらしい。


「っつぅ……」


 酒がまだあまり抜けておらず酒の飲み過ぎであろう頭痛を感じ頭を抱えた。迎え酒をしたいが近くにコンビニは見えるものの財布がない。手癖の悪い何者か、心当たりはホストだが、に持っていかれたのだろう。

 家の鍵と携帯電話は首に掛け肌身離さないため無事だった。酔いつぶれ馴れしているという馬鹿げた証明でもある。

 しばらく休んで立ち上がれるようになるのを待つしかない、と諦めため息をつき、俯いた。


 ゴミまみれで無一文のまま捨ておかれる会社経営者。まさに裸の王様ではないか、と自嘲する。


 今回のような情けない気分は何回目となるのか数える気にもならない。このまま仕事に生きて死ぬしかないのだろう、と半ば己を納得させる為の儀式でもある。あった。


 その時までは。


「あの、大丈夫ですか? 意識有ります?」


 朝日を背にしたその声の主は実際に後光が差していた。


「……あ、ああ……大丈夫だ。起きてる」

「立てます?」

「いや、酒が過ぎて、まだちょっと無理なので休んでいただけだ」


 少年である。そして、その少年は紋女に待つよう言うと近くのコンビニで水とタオルを買ってきた。


「どぞ」

「む……すまない」


 この時点で両者とも気付いている。つい先日会ったばかりの母の雇い主。つい先日呼びつけたばかりの部下の息子。あの後何度かメールのやり取りを繰り返しているので自己紹介の必要など無い間柄である。


「ちょっとごめんなさい」


 詩季は紋女の頭の上に乗ったバナナを取り、水をチビチビと飲む紋女の頬の汚れを濡れタオルで優しく拭く。

 その表情は「仕方ないなぁ」と小さなこの悪戯や失敗を苦笑いで受け止めているかのような柔らかさであった。


「家、どこです?」


 詩季は酒に溺れる気持ちが解る。スケールの小さな事で酒に逃げた事がある。取引先や上司や事務員に苛められたとかそういった内容だ。本人にしてみれば大事件ではあるし心の傷は本人にしか解らない。解らないなりにも目の前に倒れ込んでいる母の上司が、初対面の時から詩季にはとても小さく、背伸びして頑張っている女の子に見えて仕方なかった。


「いや、大丈夫だ」

「いやいやいや、まさか放っておけませんよ。家、近くですか?」

「近くではあるが、しかし」


 まだ若き少年、それも部下の息子に世話をさせ部屋に連れ込む訳にいかない、と紋女は固辞する。


「じゃあ僕の母、呼びましょうか?」


 詩季なりに気を使った結果だが、それは紋女からすると最悪な選択肢であった。今回のコンペの責任者が節子だったからである。流石に雇い主がこのタイミングでこの醜態を晒したら意図していないとはいえ節子に余計な負担を強いる事になるのでそれだけは有り得なかった。


「それだけは、駄目だ」

「じゃ、家教えて下さい。じゃなきゃ母を呼びますよ?」


 笑顔で脅迫してくる詩季。天使のほほえみとも悪魔の囁きとも取れる少年の提案に紋女は一瞬呆気に取られる。稚拙だが効果的な提示であった。そこは詩季も前世で約十年営業をしていただけの事はあった。


 ただ、目の前の少年が掛け値無しに自分を心配してくれている真心を感じる。それは金で買ってきた男たちにも、他で出会った男たちにも、ましてや母親にも向けられた事がない感情だ。

 思わず情けなく声をあげ、頷いてしまいそうになるが彼女には社会で築いてきた矜持が有り、それを許さない。


「ふ、ふふ……詩季君」

「はい」

「甘い。まだまだだな」

「あらま」


 詩季を見上げる紋女の表情は先ほどまでのように酒による苦悶はない。


「改めて水とタオルの礼はする」


 己でも驚くほどに穏やかな心持ちであった。

 

「まさか部下の息子を家に連れ込む訳にはいかんのだよ」


 紋女は自分でも気付かぬ内に、笑みをうっすら浮かべていた。この一時の偶然の邂逅に紋女は穏やかで幸せな時の流れを感じた。空っぽだった心にぬくもりが生まれる。それは与えられたものではなく、己の心に生まれたものだと感じた。


 ささやかな幸せかもしれない。ただ、紋女は生まれて初めての感情に満たされ満足した。


「甘い! まだまだですねぇ」


 しかしそんな彼女に詩季は悪い笑みを向け、紋女に背を向け屈む。


「初対面では部下の息子でしたけど今はプライベートですよ? それにもう友達でしょ? 僕は友達を路上に放置しません。さ、乗った乗った、ハリアップマイフレンド!」


 男の背中に乗るなどという情けない経験は紋女には無い。


「し、しかしだな」

「これ断られたら僕、本当にショックだなぁ恰好悪いなぁ僕あぁショックだなぁ」


 あからさまなアピールに紋女は笑いがこみ上げてきた。


「フ……フフッ……友達か……なら、頼らせて貰おう」


 恐る恐る、だが最早遠慮せず詩季の背中に体を預けた。


「だが礼は別だ。期待してくれ給え」


 確か暦節子が息子とペアウォッチを自慢していた。ここは学生に人気のブランドアクセサリーでも選んで与えてこっそり自分も同じのを買うのはどうだろうか、と画策するが即座に打破される。


「水とタオル分ってことで千円以内じゃないとNGでーす」


 詩季はお小遣いを多めに貰っているがそもそも物欲が薄い。この時も役員で高給取りの母がしきりに詩季に何かを買い与えようとするのが脳裏に過ぎったため、その雇い主からの高価なお礼を貰っても扱いに困ると思っての牽制球であった。


「何だと? ……君の背中はそんなに安くはないぞ」

「友達に運賃請求とかえぐいんですけど?」

「しかしだな、こんな薄汚れた女を背負っては服だって汚れるし君に何のメリットも無くて申し訳ないにも程がある」


 普通なら年頃の男が近寄る訳がない程にボロボロの自分を見られ介抱された。

 心配され、気遣われた。そしてあろう事か背負われたどころか謝礼さえ制限された。


 極めつけに最も欲していた何かを受け取った。


「可愛い女の子背負って歩けるとか超ラッキーですけど?」



 この日、十鬼紋女は救われた。十鬼紋女にとって初めて愛する人が生まれた瞬間であった。








「詩季君詩季君詩季君詩季君! ラーメンでも行かんか!? 美味い店を見つけたのだ! 君の好きな塩だぞ!」

「あ、行きたい!」

「社長! 息子にちょっかい出すの止めて下さい!」

「何を言う、彼と我は友人だ! やましいことはない!」

「なら私も一緒に行きます!」

「我と詩季君の愛の一時を邪魔するでない!」

「ちょっと!?」

「あはは……元気だなぁ」


 こんな会話が交わされるのに半月も掛からないのであった。









三日連続の更新。

見たか!これが「読者の感想の力」だ!!!


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