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幕間 引越し 後編

「何か足りない物とかあるかしら?」


 まだ段ボールが散らかる新たなリビングで全員でお茶の時間を取ることにした。


「事前にチェックはしていたから特には無いな」

「そうさね」

「あー、俺の部屋、前だと絨毯だったけど今度はフローリングだからダンベル用マット買わなきゃだわ。密林で通販するから明後日着位かなぁ」

「僕は特に無いかな。あ、そうだ。受付の人とかにも挨拶に行った方が良くない? 掃除の人とかもさ」


 一家で隣近所への引越の挨拶もまだだったが、特別管理局へもしていない。暦家の新居はホテルの受付のようなコンシェルジェやジムやバーといった施設の有る高級マンションである。億にギリギリ届かないがこの地域ではかなりの高級マンションと言えた。

 節子の感覚だと自分たちはお客さんという意識が強いので特別横柄な態度を取らなければ良いと思ってスルーしていたが、詩季からすると前世に住んでいたアパートの大家や管理人という認識で客という感覚が薄い。故に挨拶は必須という認識であった。


「ふむ。確かに顔を覚えて貰うのが早いに越した事はないし多少の出費で良い印象を与えるなら安い物だ。私は賛成だけど、母さんはどう思う?」

「そうねぇ……確かにお世話になるんだしその方が良いわね。外でお昼食べて、どこかでお菓子でも買って皆で持って行きましょうか」

「まぁなんでも良いけど腹減ったぁ。何食う~?」

「詩季君は何食べたいさ?」

「んー……冬ちゃんは何食べたい?」

「蕎麦」

「渋いねぇ」

「引越蕎麦」

「本来そういうもんでもないが、良いんじゃないか?」

「じゃ、蕎麦屋さんに行きましょうか」


 そうして一家は蕎麦屋に行き席に着く。


「んー……お母さんは盛り」

「私は天ぷら蕎麦で」

「ふむ……私も天ぷら蕎麦さ」

「天ざる」

「俺はカツ丼」


 夏紀の発言に詩季は思わず「蕎麦屋で?」と苦笑いするが夏紀は「そば屋のカツ丼って美味そうじゃね?」との言葉に妙に納得する。確かに出汁と揚げ物の絡みが食欲をそそりそうであった。


「そうだね。僕もカツ丼にしよ」

「お。お揃いだな」


 笑顔でサムズアップする夏紀に詩季もアハハと笑いながら同じポーズを返す。程なくして注文した物が届くと全員そろったところで頂きますをする。

 外食でここまで和気藹々と過ごせることに節子は感慨深いという想いと周囲の他の客に誇らしい気持ちでちょっと天狗になる。


「お兄ちゃん、一口頂戴。替わりに海老あげる」

「良いよ~、あ、海老じゃなくてさつま芋が良いなぁ」

「ん」

「ありがと。あ~ん」

「あーん…………ん、美味。お返し。あーん」

「あ~ん……ん~美味しいねっ」


 食べさせ合うのは行儀が悪いと言えば悪いものの妹を可愛がる兄という構図、しかもどちらも美男子に美少女、は見た者からすると眉をしかめるような光景ではない。


 大体の思春期の男子は女家族と外食は嫌がる。それは詩季の前世における異性の親と二人きりでの食事を嫌がる子供の嫌悪感を二百五十六倍に強化したような感覚である。


「うちの兄はあんなことしてくれたことない……」

「私の弟なんてお母さんが一万円おこづかいあげる時以外一緒に外食なんてしないよ」

「良いなぁ……良いなぁ……あたしの兄貴なんて私のこと奴隷としか思ってないわよ絶対」


 とひそひそ会話されているのを母と姉三人は誇らしく思いつつも聞こえていないふりをしながら食事を進める。

 

「このお店、凄い美味しいねぇ」

「ん。美味」

「しまった。カツ丼じゃなく親子丼にすりゃ詩季にあーんして貰えたのか……俺のバカ……ああ人生最悪な日だぜ」

「何をバカなこと言ってんの。ほらほら、あーん」


 苦笑いしつつ夏紀にカツ丼、ではなく付け合わせの漬け物をアーンと差し出す。


「詩季、何か欲しい物とか」

「じゃあそのグリーンピース頂戴。あーん」


 詩季はカツ丼の上に載っている賛否両論な緑の豆を所望した。


「おお、あーん」

「ん。ありがと」

「詩季は豆好きだね」

「うん、枝豆とか延々と食べちゃうよ」


 大分味覚が変わっている、と改めて春姫は思った。前は偏食の固まりのような食生活で大体が肉かお菓子で野菜など食べなかった。今はどこで覚えたのか料理までするようになりそれも栄養や彩りのバランスが良い家庭的な料理を作る。


「美味しかったぁ。御馳走様でしたぁ」


 会計時に店主である八十歳くらいだろうか、お婆さんに声を掛ける詩季。姉妹も続いて礼を言っていく。


「あらあら、有り難う。お坊ちゃんみたいな子に誉められるなんて初めてよ。嬉しいわぁ。これ、良かったらお家で使ってみて?」

「え、良いんですか?」

「ええ、煮物に使ったりしても美味しいわよ」


 お店の屋号のラベルが貼ったプラスチック容器に入っているのはこの店の出汁。レジ横に「お持ち帰り用特製出汁 八百円」と書いてある、


「売り物じゃ」

「良いのよぉ。良かったらまたいらっしゃい」


 優しい表情のお婆ちゃんに詩季は自然と笑顔の度合いが増す。出汁類は好きだが厚意でサービスされるなど前世で殆ど経験が無かっただけに純粋に嬉しかった。


「有り難うございますっまた来ます。今日はカツ丼だったけど今度はお蕎麦食べに来ますね」

「おすすめは親子丼ねぇ」

「あれ、蕎麦屋さんじゃ」

「冗談よ。私は蕎麦ばっかり食べてるからたまに食べるご飯物を贔屓しちゃうの」

「あはは、解るかも」


 盛り上がる二人に苦笑しながら待つ家族とそんな彼女たちを羨ましそうに見る客達。


 その日、蕎麦屋のデッドストックになりがちだった販売用出汁は「あの子が食べるのと同じ出汁を!」とその場に居た客達に全て購入され、実際に美味しい出汁だったが故に口コミで広がり、程なくして蕎麦屋のお婆ちゃんは一財産作ることとなる。


 蕎麦屋を出て、近くのケーキ屋で焼き菓子の小さな詰め合わせを沢山購入した一行は新たな住居のエントランスに着いた。


「お兄ちゃんが手渡すべき」

「そうさね。冬君は策士の才能が有るさ」

「あんま愛想良くしても悪い虫が付くだけじゃねぇ?」

「いや、詩季のことだからどうせ遅いか早いかの違いだろう。印象良くして気を配って貰った方が良いと思うぞ。母さんはどう思う?」

「そうねぇ……良い息子さんねぇって言われると死ぬほど鼻高々で良い気分になるわね。私が良い気分になるため詩季君に渡して貰いましょう」


 節子の台詞にガクっと崩れるも詩季は苦笑いを浮かべながら応じるのであった。


 結果的には詩季と暦家の管理会社や近所への評価はストップ高であったが同時に節子への嫉妬心はも同様となるのであるが、本人はそれが余計にご満悦の種となるのであった。


「お母さん、超ドヤ顔」

「母さんも色々溜まってたからな」

「今までのを考えるとちょっと位は仕方ないさ」

「だなぁ……別に嫌みとか言う訳じゃないしあんくらい仕方ないだろ」


 姉妹達の会話に詩季は思わず


「なんか本当にご免なさい」


 と謝ってしまうのだが、姉妹達に慌ててフォローさせるだけの結果となる。


「お母さん、ビール飲む? これ摘んでて? あとで肩揉んであげるね?」


 その日、いつも以上におもてなしの厚い息子に人生最高の日更新中と節子はビールに舌鼓を打つのであった。


 引越しして初日、概ね平和だったのである。


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