柔道 土下座ーズリターン
冬美は道路に面したガラス張りの柔道場を覗いていた。
「むぅ」
見ると自分と同い年くらいかそれ以下の子供しか居ない。受け身の練習や投げをグループに分かれて練習している。それを時たま指導者らしきポニーテールの若い女性が順繰りで指導をしていた。
「地味」
本来お稽古ごとと考えると十分活気があるのだが、冬美はもっと激しい光景を想像していたため、そう呟いてしまった。
「ねぇあなた。柔道に興味有るの?」
声を掛けられ振り向くと中で指導していたポニーテールの女性がいつの間にか立っていた。面食らったものの習いに来る可能性をもっての覗き、もとい見学であると考え冬美は声を掛けた女性を真っ直ぐ見据えた。
「あ……る」
「うちは明るく楽しく元気良くがモットーだからお勧めだよ? 保護者同伴なら体験入学もやってるし見学だけでも全然オッケー」
女性の言葉に冬美は考え込む。その界隈にはこの友田柔道場、大蛇空手道場もあり、他にはテコンドーや合気道、ボクシングジムも有る。選択肢はここだけではないが、一つだけ言える事がある。
「楽しくなくて、いい」
「え?」
冬美の前髪で隠れがちな両眼が瞬きもせず女性を射抜いた。
昨夜から冬美の脳裏に繰り返し甦るのは詩季をナンパ女から守れなかった惨めな己と詩季を守れるようになった理想の自分である。理想の自分になるため目の前の女性がその『構成要素に成り得るのか』という選別の目つきとなっていたのである。
「なんで?」
その、冬美の言葉と子供にしては非常に真剣な表情に女性は笑顔を消した。そして女性は冬美の目線に腰を落とし真っ正面から視線を交わす。
「どうせやるなら何だって楽しい方が良いよ?」
冬美はその問いかけを無視し、言葉を続けた。
「試して、みたい」
女性は冬美を睨みつけ、冬美はその視線を真っ正面から受け止めている。女性は冬美の態度に腹を立てた訳ではなく目の前の少女に対して子供だからと侮って対応する事が全く適さないと確信したからである。
「保護者と来なさい。ちゃんと見て、お話して、体験して、それから貴女が通って良いかどうかを判断するから」
女性の様子が豹変したことに驚きつつも、冬美に選択権が有るのではなく自分に選択肢が有るのだと口に出した女性の言葉に冬美は不思議と違和感を覚えなかった。彼女と冬美のその会話に道理や常識など関係がない何かがあった。
「ここの番号に前もって電話くれればじっくり時間作るから」
「あ、りがと」
「有り難うございます、でしょ」
「あ……ありがとうございます」
「よし。私はこの道場の師範代の友田千代。貴女のお名前は? 何年生?」
「冬美……暦、冬美……です」
「冬美ね」
冬美はおそらくこの道場に通うことになるだろう、と予感するのであった。そしてこれが冬美の生涯に只一人と公言する師匠との邂逅であった。
冬美が家に帰ると夏紀と秋子が家から少し離れた道の角でなにやら相談していた。
「やっぱ怒られるよな?」
「不可避さ。春姫姉さんがスルーする筈無いさ」
「だよなぁ……今回のはあらためて考えると結構やばい。何であんなことしてしまったんだっ」
「しかも詩季君に良いところ見せようと張り切った春姉さんに余計に怒られると予想するさ」
何やらやばいだの怒るだの不穏当な単語が聞こえる。ぶっちゃけ関わりたくない。
「チャス」
無視する訳にもいかず軽く挨拶して華麗に去ろうと試みる。
「あ、冬美。おかえり。丁度良かった」
「冬君お帰りさ。丁度良いところに。ちょっと中の様子を」
ダッシュ。するも身体能力では同じ高校生ですらまともに張り合える人間が一握りという超高校級レベルの姉二人から逃げられる訳も無く、即座に両脇を抱えられ足が宙に浮く。
「や、やめ」
「何で逃げるんだよ?」
「別に嫌なことさせようって訳じゃないさ?」
冬美はこの姉二人のことは嫌いではなくむしろ好きだが便利に使われる趣味はない。ましてや一緒に怒られる可能性がゼロだと断言するだけの情報が無いのだから避けて通るがクールキャラな自分らしいとさえ思う。
「な、なに?」
しかし空中では抵抗もままならないので敵の要求をまず聞こうと訪ねると背後から違う疑問が投げかけられた。
「何? 冬ちゃんに何してるの?」
「え?」
「あ」
詩季が腰に手を当て立っていたのに驚いた姉二人は思わず冬美を持ち上げた手を弛めてしまい落としてしまった。
「いっ」
「冬ちゃん!?」
突然落とされてしまい上手く着地出来ず右足首を捻ってしまった。
「冬ちゃん、動かないで」
冬美をお姫様抱っこして家に運ぶ詩季。兄とは言え男にお姫様抱っこ、この世界では王子様抱っこと呼ばれ男女逆がスタンダードである。冬美は幼い女心を大いに傷つける結果となった。強くなろうとした矢先にこれは色々と不運と言えよう。
「冬ちゃん、あ~~ん」
「ん……おかえし」
「あ~~~ん、むむ……サクサクだねぇ」
「美味」
部屋の隅で土下座ーズ再再結成の二人を完全無視してお菓子を食べさせ合う詩季と冬美。
幸いにして冬美の怪我は大したことなく明日には何の違和感も感じない程度であった。
「お前ら、何やってんだ」
春姫は呆れながら土下座ーズを見る。
「詩季、悪気は基本無い奴らなんだが」
「ダブル役満」
「ダブル役満? お前らまた何かやってたのか?」
ビクッと震える二人。春姫も怖いがせっかく仲良くなった最愛の弟、詩季に嫌われるのは何よりも怖い。
「仰るとおりです」
「申し訳もないさ」
また深々と頭を床にこすりつける二人。
「土下座ってされる方にとっては居たたまれない気持ちにさせられるだけだと思う」
「もはや……暴力」
下二人の批判に最早己の存在を消し去りたい衝動に駆られる。そして今日何が有ったのかを一から聞き出しまずは二人の後頭部に拳骨を落とす。
「でぇっ」
「ぐっ」
「全く。馬鹿もほどほどに、人様巻き込むな馬鹿者。お前ら二人とも、ちょっと部屋に行ってろ」
ため息を吐いてそう告げる。
「はい」
「お願いします」
最早いつもの語尾すら付ける余裕のない秋子の様子に驚愕しつつ、また一つため息を吐く。
冬美はともかく詩季の怒りの落としどころが春姫にも見えない。
「詩季。怒るのも解るが」
「春姫お姉ちゃん、あ~~~ん」
「あ………あ~ん。美味いな、このクッキー」
「さっき焼いたばっかりだよ」
冷凍生地にトッピングしただけだが。
「そうか。詩季はお菓子作りも美味いんだな。それでだな、あいつらが馬鹿やったのも解るがもうちょっと」
怒るべきところは怒って矯正すべきだが詩季に対する愛情故なのだからもうちょっと容赦してあげても良いのではないか、と春姫は感じていたので説得を試みる。
勿論自分が嫌われない範囲で。もし詩季が『駄目』など言ったら『だよな』で終わらせる程度の心構えである。
「美味しい? 良かったぁ。じゃもう一個、あ~~ん」
「あ~ん」
詩季のあからさまな誤魔化しに抵抗すら無かった姉を見て、こんなにチョロくて大丈夫なのだろうか、と呆れ眺める冬美。丁度目の前に居るので春姫にお願いする。
「春姉、明日柔道場に付き合って欲しい。体験入学したい」
「柔道!? 駄目だよ!」
まさかの第二の波乱が暦家を襲うのであった。




