目覚め 夕餉
夕食前になって冬美は目が覚めた。
「冬ちゃん、大丈夫?」
布団に寝かせられていた冬美の目の前には心配そうにのぞき込む己の兄の顔があった。
「あ……うん」
「温泉にのぼせちゃった? 結構後からくるんだよね、温泉だと」
温泉じゃなくアンタにだ、という言葉は当然飲み込む。
「ご飯、食べられそう?」
「ん、だいじょぶ」
体を起こしてみると、小腹が急に空いてきた。隣の部屋を見るとこちらを見ている母と姉三人。
「冬美ちゃん、ご飯食べられそうだったらこっちこっち。詩季君はこっちね」
「両手に花って奴か?」
「羨ましいさね」
「スポンサーだからな」
長姉の言葉に肩をすくめる次女と三女。なんだかんだ言いつつもこの二人は母が日々身を粉にして働いていることと長姉が自分たちの身の回りの世話を文句も言わずにしてくれていることを理解しているのでまず逆らわない。
「じゃ、いただきましょう! いただきます!」
長男と末妹が席に着くと一家の大黒柱である母による号令で夕餉の開始である。
「お母さん、ビールで良い?」
「ええっああ~もう最高だわぁ」
節子は「今のご時世男子社員にお酌させただけで訴えられるもんねぇ」などと言いつつ嬉しそうに詩季にコップを向け黄金色の麦酒を受け止めた。
「あ~、やっぱそういうの有るんだね」
「そうよ~、でもね、そういうのを強要したりもっと直接的なセクハラとかする女が居るのも事実だからねぇ。息子を持つ親としてはちょっと過敏な方が安心ね。詩季君も今から気をつけておきなさいね?」
節子の言葉に詩季は曖昧に頷く。前世の価値観で生きている詩季にとってはご褒美である、と。そして、三十代だった自分にとっては女性が四十代でもよっぽどでなければイケる、と。詩季にとっては節子など四十代前半ではあるが美魔女も良いところで上半身裸で麦酒を飲んでいるところを目撃したときには自家発電が非常に捗った。家族であっても詩季にとってはまだ数ヶ月の時を共に過ごしたくらいの新鮮な相手だけにそれも致し方ないことと言える。
「この鍋は待つ時間がいらいらするなぁ」
食事は小鉢・刺身・お吸い物、そして一人用鍋と言ったオーソドックスな和食である。詩季は家族の手前お酒が飲めないのは残念に思いながらも会社での営業接待でも食べたことがない豪勢な食事に風情のないことを言い出す夏紀に詩季は何となく思っていることを伝える。
「でも、こうやって皆でゆっくり話出来るよ。あ、夏紀姉さんこのアナゴの煮ごこり好き?」
「え、おう? 美味しかったぞ?」
「僕、アナゴは好きだけど煮ごこり苦手だからいらない?」
「あ、じゃあもらうー、あーん! なんちゃ」
「あ~ん」
「おおっ?」
冗談で言うも、即実行する詩季。向かい側に座っている夏紀にあーんした。そして反射的に、流れに逆らわずあーんでアナゴの煮ごこりを口でゲットした。一瞬だけ母と姉、そして妹たちの殺気が発せられる。
「ん……あ、あんがと。旨い」
「夏紀お姉ちゃんは酒飲みの才能あるのかもね? おつまみメニュー結構好きだし」
「そ、うかもな。そんときは俺にも酌してくれ」
「その時は僕も一緒に飲みたいねぇ。あ、春姫お姉ちゃん、まだ麦酒で良いの?」
「ああ、すまんな」
手酌しようとしていた春姫にビール瓶を向ける。腐っても営業、無能でも営業、元とは言え詩季も自分に好意的な家族に位気負いなく行動出来た。
「いえいえ。冬ちゃん、お母さんに麦酒注いであげて?」
「んっお母さん、どぞ」
「あー、ありがと~。極楽だわぁ~あ~もう死んでもい~」
ご満悦である。
「まだ若い。死んじゃダメ」
「まぁそうさね。母さんには私たちが大人になるまで馬車馬の如く働いて貰って尚且つコネで良いところに就職させて貰わなきゃ困るさ」
「そうだな。俺は実業団狙いだから母さんよろしく~」
会社役員の母に向かって露骨な事を言い出す秋子と夏紀。ちょっと蚊帳の外だっただけに入れそうな話題にはちゃんと首を突っ込む。
「貴女達、そんなコネなんて無くても大丈夫でしょうに」
子ども達の優秀さを知っている節子は呆れたが、詩季は有無を言わさぬ満面の笑みで宣言する。
「生まれも才能の内だよ?」
身も蓋もない物言いに全員一瞬唖然とし無言となるが、春姫だけはすぐに頷いた。
「ああ、その通りだ。乱用はいけない。が人と人の繋がり、過ごした時間や絆を軽視してはいけない」
少し酔っているのかうんうんとしきりに頷きながらグラスに口を付けていた。そして夏紀と秋子、そして冬美は口を開けぽーっとした。春姫のいつものポーカーフェイス、そして掛けられた眼鏡の向こうの瞳はかつてないほどに穏やかであった。




