買収 回収
ノートパソコンのディスプレイの光だけが灯る、マンションの一室。
紋女は静かに目を閉じ、椅子に深く腰掛けていた。
「常々、厄介じゃなぁ」
部屋の主であり、今や関東・東北地方を中心に様々な業界で無視されえない存在となった紋女は画面を眺め、独り愚痴を漏らす。
紋女に本気の溜息をつかせる存在は二つだけ。
片方には愛しさを、もう片方には憎しみを込め。
言わずもがな、詩季と、紋女の生家である。
今回の溜息は後者が原因であった。
元を辿れば紋女の母の生き方か、はたまた生家の幾層にも積み重ねた歴史と業か、紋女は益体もなく思索に耽る。
「一手届かず、じゃなぁ」
紋女は日本でも有数の通信会社に対し、敵対的買収を仕掛けていた。考えられる限り用意周到に。
ただ、最後の一手を指す前に、駒がこの世を去ったのである。約定を交わした大株主の一人が退場した結果、紋女に傾けられていた天秤が一転、十鬼財閥側に降りたのである。
どちらに与するが得か否か。後継者は悩むまでもなかったであろう。
何故なら、その人物はまだ二十代と若く、そして、退場した者は既にこの世に居ないのだから。40代での急性心不全。そして、その娘が全てを継いだ。十鬼財閥によって創られた首輪に繋がれることを選んだのである。
健康状態に問題など無かったであろうほどに、週に一度はゴルフを嗜んでいた者で、篭絡をしていた紋女の手の者も紋女にその不審を訴えていた。
その娘が唆され実親を手に掛けたのではないか、とさえ紋女は根拠もなく邪推してしまっていた。
「節子だけではやはり不足かのぅ。化け物染みていても、あやつは善人じゃからなぁ。幹部連中は手が回らんし、期待の暦家姉妹は春姫でさえまだ学生……毒を多く抱えるよりアウトソーシングが良いと思っておった過去の己を殴り倒したいぞ……」
一つの失敗により、紋女は一つの決断を下さざるを得なくなっていた。
それだけ、紋女にとっては万全を期した棋面で敗北を喫したのである。それもおそらくは、物理的な力によって。
「致し方あるまいが……」
毒をもって毒を制すも良し。ただ、毒の扱いには注意をしなければならない。
信用出来ない毒は害悪でしかない。毒を使いこなすだけの技量は実地で覚えられるであろうという確信が紋女にはあった。これまでは毒よりも薬となる方面でリソースを割いてきたことがここにきて弱点となっていた。
紋女のこれまでの判断は正しくもあり、紋女の歩む覇道においては十分ではなかったのである。
「あーいやじゃ。あやつはともかくあやつの雇い主が嫌じゃ。実家の次に嫌いじゃーもー」
重く感じる指先で紋女は携帯を操作し、連絡先の一つの上で停止する。
「あーもーやー」
詩季のような台詞を吐きながら、脱力任せに指を盤面に降ろす。
”皐月”
「なんか意外だわー」
「ん? 何がじゃ?」
詩季は紋女を抱えるように自立式ハンモックに身をゆだねながら夏空を眺める。
日差しは強いが、タープの影に入れば涼しいくらいに空気が乾いており心地よい。
「紋女さんがアウトドアとかって。爽やか過ぎて笑える」
「そうか? 景色が良いところで良い男を侍らせながら飲む酒は女の夢じゃぞ?」
「一気にダメダメ感が出たね~」
紋女の急な提案により、この日は急遽、とある関西と関東の境目にある高原でキャンプとなったのである。
事前準備は当然紋女が部下に用意させており、詩季の姉妹のうち夏紀と冬美、そして智恵子、肉山、針生、絵馬、宮子、香菜子が同行している。
節子は仕事、春姫は大学の外せない講義があり、秋子は紋女の指示があり関西地方に飛んでいた。
詩季の同級生ハーレムたちが何をやっているのかというと、
「これが、身分の違いかッ」
「置いてかれるよりマシだと思った方が良いよ」
「我が家は食材の発注で潤ってウハウハだから文句ないわ。私でもグラム1万3千円の松坂牛なんて食べたことないよ」
「家に持って帰ってあげたいかも」
「どうせ余るだろうから紋女さんに言えば大丈夫じゃない?」
智恵子、針生、肉山、宮子、そして絵馬は、タープを張ったりテーブルをセッティングしたりと大忙しであった。
設営組とは少し離れ、昼食の準備に取り掛かっているのは夏紀と冬美。冬美は基本的な調理補助は詩季の手伝いで習得しており、夏紀も基礎は問題なく、さらに野外料理なら大丈夫だろう、と火の番も兼ねて参戦していた。
「夏姉、メッティのだけ肉の切れ目に唐辛子をねじ込もう」
夏紀は冬美の提案に目の色を暗くし、目を細めて視線を返す。
「お前……」
いかに紋女と仲が良かろうと、いかに視界の端にどうしても入る詩季と紋女のイチャイチャが気に食わなかろうと、許されることと許されないことがある、と夏紀は知っている。
ましてや紋女は辛い物が苦手でもある。
「頭良いな!」
ちゃんと夏紀は考えていた。この位は許される、と。
「でもバレたらヤバくねぇか?」
「始めからロシアンステーキとか言っておけば大丈夫」
「どうやって食べさせるんだよ?」
「皆の心を一つにして、悪を砕いて王子を救う」
つまりは紋女と詩季以外全員グルにしてしまえ、ということであった。
「お前が味方で良かったぜ」
詩季に関してだと特に敵にしたら地味にダメージの残る攻撃をしてきそうな妹が実はちょっと怖かったりする夏紀。
「ボクらはともに危機を乗り越えた仲。エマッチらにもお零れをあげつつボクらが美味しいところを食らうべき」
サクサクと分厚い牛肉に切れ目を入れ、中に大量の唐辛子の粉をこすりつけていく冬美。表面に残った唐辛子の拭き忘れもない、まさにプロの仕業である。
悪戯好きは詩季の影響か、本来の性格か、おそらくは両方だろうと苦笑する夏紀であった。
一方そのころ。
ストーカー、須藤香菜子は近くの沼に足を向けていた。
その沼は阿故沼と呼ばれ、水深で浅いところでもおよそ5m、さらに縦6km、横9kmを歪にした広さを有している。土器や貝塚なども発見されている場である。
今居る場所は、紋女の私設護衛隊の警備範囲の外であるが、彼女はこう考えていた。
「私が王子を浚うなら、ここから船で強襲を掛ける」
対岸にもキャンプ場は有る。そして、そこには遊泳用・運搬用のボートが設置されている。
もし、十鬼財閥が動くならば夜であろう。そして、その考えは他の護衛隊員にも周知されており、紋女達の目には触れないが相応以上の戦力が投入されている。
リゾート地とは言えわざわざ敵地付近でのバカンスは
「十鬼財閥に対する挑発」
であり、買収工作に敗れたことに対する
「不退転の宣言」
その両方ではないか、と香菜子は捉えていた。
そして、それは正解であった。
護衛団は万全にして強固。
法に触れる装備さえ多数用意し、ミサイルでも撃ち込まれない限りは防衛出来る状態だと誰しもが考える状態であった。
自衛隊ならまだしも、警察組織であった場合は重火器によって一掃されかねない、そんな狂った警備状況である。
紋女としては「さぁ来るなら来い、むしろ絶対に来い、鬱憤を晴らさせろ」と手ぐすね引いて待っていたのである。
来ないなら来ないで構わないと言えば構わないが「汚い花火じゃのう? すまぬな、詩季君」と是非キメてやりたい思いがあった。
「あの人は、たまに、とてつもなく器が、小さい」
普段は詩季以外のことにあまり興味がない香菜子でも呆れるほど、費用対効果の悪い準備であった。真っ当な脳みそをしていれば、テロリストもかくや、という集団に対して襲撃は掛けない。
むしろ国家権力、警察の出番じゃないかというところであるが、ここは県境であり、十鬼財閥の影響下にある向こう岸の県警もこちら側の紋女の息が掛かった県警も干渉しにくい戦場と言えた。
護衛団の末席に居る香菜子としては、詩季さえ守れれば他はおまけという思いもあるのだが、真っ先に狙われるであろうターゲットの次が詩季である故に、手を抜くつもりがなかった。
幸いにして、護衛団の事前説明を受けた上で、紋女主催のキャンプの参加者としてカウントされているため護衛の任には就いていない。
他のメンバーならば、護衛の守備範囲外に出ようものなら直ちに回れ右させられるのだが、その点において香菜子は中途半端な位置付けであり、自由に行動出来たのである。
その、香菜子の特異なポジションと、他者には理解が困難な思考回路、そして生まれが今後の運命を大きく動かした。
「だれ」
前方の木陰に気配を感じ、支給品のテーザーガンを向けた。
おまけ
紋女「ひぃいいいい! ひぃいいいいいい痛い痛い痛い!」
詩季「あ、紋女! ちょ、水は駄目だよ! 余計辛くなる!」
他全員
冬美「はい、ヨーグルト」
詩季「あ、冬ちゃんありがとう! ほら、飲んで!」
紋女「ぅごぉおおおっ んっん、ん……み、みってぃ、たすかった、ぞ」
冬美「ゆあうぇるかむ」
詩季「もう、こんなに辛くしなくても良いじゃん!」
冬美「ちょっと悪乗りし過ぎ。ごめん止められなかった」
夏紀「おま!?」
実の姉の屍さえも悠々と乗り越えそうな修羅、冬美であった。




