謀略 免許
暦家には数々のトラウマが有る。その殆どが詩季に纏わるもので軽いものから重いものまで選り取り緑といえる。
過去にも旅行は企画されてきたが詩季の「面倒。俺はパス」の一言で中止になったことなど何回もあった。事件後の豹変した詩季ならば問題なく決行されるとは思うのだが全員不安を抱いていた。それにいくら大会社の役員が大黒柱と言えど少なくない出費なのだから慎重にもなるというもの。
「温泉?」
「良い宿が有るのよ」
故に、企画に大賛成且つ例え仕事をクビになろうとも成功させる気満々の母親節子は何とか早く仕事を切り上げ夕食から参加、食後のお茶の時間に軽いジャブを放った。
「へぇ、温泉かぁ。良いねぇ」
前世では家族にも友人にも恵まれずせいぜい自主的にスーパー銭湯に入ったことがある程度で温泉はおろか旅行というものに全く縁が無かった詩季。まさに一家団欒といったイベントに心躍らないわけがなかった。
予想外の感触の良さに、母親と姉妹の五人とも動きを止める。
「ほら、この宿さ」
何とか再起動した秋子はパソコンでプリントアウトした宿の情報を詩季に見せる。
「おー。凄いっ老舗って感じだね!」
「わ、わー。ぼ、僕、いきたーい」
そして台詞をまんま棒読みの冬美。彼女は妹ラブの兄に行きたいという言葉を引き出す決死隊的重要任務を担っていた。もし本人が気が向かなくても冬美が行きたいと言えば同調するだろう、という姉たちの打算であった。
「行ってみたいねぇ。冬ちゃん、見て見て、卓球有るみたいだよ」
「う、うん、たのしそ、う」
直前までのあの緊張感は何だったのか、と肩の力が一気に抜ける節子、春姫、夏紀、秋子。
「いつ行くの?」
自分の反応次第ではなく話しを振られた時点で行くことが既定路線だと思っていた詩季は節子に問いかける。
「ら、来週末なんてどうかしら?」
あまりのスムーズさに何とかついて行こうとする節子。
「あ、僕は勿論大丈夫だよ。部活もまだ入ってないし。皆は?」
「だいじょぶ」
「ああ、俺も一日くらい部活休んだって大丈夫だ」
「万難を排して温泉を堪能する所存さ」
「当然私も参加だ。車で行けば二時間程度。私と母さんの二人で途中交代して運転すれば休まず済むからあっと言う間だ」
免許を無事取得した春姫はジャーンとばかりに免許証をお披露目する。
「あ、無事合格したんだね。おめでとう!」
「ああ、有り難う。明日から送り迎えしてやろう」
「え、そこまでしなくて大丈夫だよ。他の生徒で車で送り迎えなんて居ないし目立っちゃう」
「詩季、そこは送って貰おうぜ? 毎朝車の中で弟と優雅にお喋りしながら登校ってのは良いな」
「そうさ。朝寝れる時間が増える素敵な案さ」
「え? お前達は歩け。女なんだから。私は可愛い弟が登下校中に襲われたり電車で痴女にあったりしないか心配だから言ってるんだ。お前達なんて誰も襲わんよ」
最近では弟ラブを隠さない春姫の変化を詩季だけが気付いていない。詩季は春姫が元々そういう人だったのだろうと思っている。事件前までは詩季の我が儘や暴走の教育的ストッパーで特に詩季に煙たがれるという貧乏くじを引いていた春姫がこの調子である。生真面目過ぎて心配していた長女がかなり自然体で過ごしているのを見て、母親の節子としてはやっと心配の種が消えた想いであった。
「うわっ酷ぇ!」
「何さ、ついでに乗せてくれてもいいじゃないのさ」
「いや、お前達二人の重量加わると燃費が落ちるからエコじゃないだろ。地球に優しくない」
「地球より妹に優しくしろよ!」
「男女地球差別反対さっ」
「意味が解らん。二人より詩季可愛がるだろ、普通。お前達が私の立場だとしたら詩季と二人きりで送り迎えしたいと思わないのか?」
「そうだけどそうだよな!」
「そりゃそうさ!」
「納得してるじゃないか」
「あ、あはは」
丁々発止となった会話を半ば呆然と眺めつつ、節子は冬美に問いかける。
「冬美、いつもこんな感じ?」
「ん。にぎやか」
冬美の微かに浮かんだ笑顔に節子は安堵の上に喜びが胸に生まれたのを感じた。楽しい旅行になりそうだ。