キス キッス チッス
「本当に申し訳有りません、三十分くらいで戻りますんで」
「ああ、大丈夫ですよ。この子が見てますんで」
「ん」
柔道場。冬美の通う教室。
冬美の師匠である友田千代は近所の母親から娘を少し預かって欲しいと頼まれ引き受けたのである。
勿論、千代は千代で師範代でありまだ幼年部の指導が有るため付きっきりという訳にはいかないが、幸いにして冬美が早く到着し時間が有ったため、これ幸いと任せることにしたのである。
ちなみに頼んだ女性はこの柔道場の隣にあるアパートに棲んでいる。
そしてそのアパートは友田家の所有であるため大家と店子の関係であることから多少の便宜は仕事の内でもあると友田家では認識されているた。
「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが居ました」
冬美は絵本を持ち膝に3、4歳の女の子を乗せ、話し始めた。いつも通りの抑揚がない声で。
幸いにして大人しい子らしく、指をくわえ不思議そうに絵本を眺めている。
そして冬美は末っ子な上に友人らにも下の妹や弟が居なかったため子守などやったことがなかった。
ましてや、流れで引き受けたものの、まだほとんど会話が成立する訳がない子供相手にどう接すれば良いのか解らないので取り敢えず母親が置いていった絵本を開いたのである。
ただ読み始めると、どうにも飽きるというか、辛い。中学生の冬美にとっては膝に幼児を乗せた緊張状態で絵本を読むのは辛かった。
まだ絵本を読み続けた方が本来で有れば楽な筈だが言葉もまだ解らないであろう幼児相手にこの苦行を呈する意味が冬美としては見いだせないだけに無力感が強い。
「…………色々あって、亀が勝ったとさ。めでたしめでたし」
色々すっ飛ばして亀が勝った。おじいさんとおばあさんの立ち位置と亀との関係が気になる展開であるが間は端折られた。冬美に創作の才能は無いらしい。
「冬ちゃん、もうちょっとがんばろ?」
「ぉ」
ひょいっと顔を出してきた兄に驚いた。
詩季はたびたび冬美の稽古を眺め一緒に帰ることが有り、この日も寄ったのである。主に買い物がメインの目的だが冬美としては多少気恥ずかしい部分もあるが嬉しくない訳がない。
「その子、冬ちゃんの隠し子?」
「処女ですがなにか」
「見事なカウンターだね」
預かった幼女は詩季を不思議そうな目で眺め首を傾げる。
「可愛いねぇ。ちょっと抱っこさせて」
「僕で良ければ」
「それは夜にね」
夜と言っても艶かしい内容ではなく、食後のティータイムで詩季の膝上や隣に冬美が陣取っているだけである。はじめの頃こそ戸惑いと照れで落ち着きがなかったが、今では至福のひとときであった。
「おー。意外と重ーい。こんにちは~パパだよ~」
詩季が幼女を持ち上げ笑いかけると怯えていた幼女も数秒ですぐに満面の笑顔となった。ジョークが通じた訳では勿論無い。
「冬ちゃん、名前なんにしよう?」
「冬季?」
「男の子っぽくならない? 頭薄くなりそう」
元々自分達の子供じゃないだけに。略して元冬季。
「じゃあ詩美」
なんの染みだ、と詩季は苦笑しつつ
「せめてそこは詩美とかのが良いんじゃない?」
と提案。
「採用。出生届けの前に婚姻届け出そ」
「飛ばすねぇ。色々飛ばしてるねぇ。お付き合いどころかプロポーズもすっ飛ばしてるねぇ。
ねーこのお姉ちゃん、おもしろいね~? あはは」
キャッキャと喜ぶ幼女。
「冬さんのお兄さん、素敵」
「天使だ……」
「う」
なんという桃源郷だろうか。美男子が子供と戯れている姿は朗らかで幸せの象徴そのものにその場に居た者たちの目には映った。
詩季が登場してからずっと千代も幼年部の生徒も石像のように動きが止まって詩季を凝視したのにも無理はなかった。しかし詩季も冬美もこの手の会話は聞きたくなくてもよく耳に入るため本能でフィルタリングに引っ掛け無視する体質になっていたので全く気にしていない。
「僕に毎日味噌汁を作って」
「え、毎日作ってるよね? たまにスープだけど」
王道プロポーズというボールは家族という障害にセーブされた。
「……僕は死にませーん」
「間違ってトラックに当たると異世界転生しちゃうよ?」
この世界でも有名なドラマのワンシーンだが、世代的にはなんで冬美が知っているのかというくらいに昔のものである。主演は武田鉄子である。ちなみに余談であるが、黒柳徹男はトットちゃんの愛称で愛されている。
ただ、詩季はそこまで確認している訳ではないのでツッコミ入れずに詩季としては普通に返す。
「あなたがー好きだからー」
「僕も冬ちゃん好きだよ?」
「じゃあ結婚しよ?」
「おお。夢が叶った」
「え?」
どうせスルーされると半ば投げやりに続けた会話だったが詩季の思わぬ反応に思考が一瞬止まる。
「妹から『将来お兄ちゃんのお嫁さんになる』って言われるのに憧れてたんだよね」
それは普通、幼稚園とか小学校低学年の戯れの会話ではなかろうか、と冬美だけではなく千代らも思ったがなかなか言葉が出ない。
「じゃ、じゃあ、け、結婚、しよ」
駄目で元々、冬美は詩季に求婚する。子供なりにだが必死だ。
法律や倫理感など色々な問題はあるが、基本的に私生児の多いこの世界の日本、事実婚であってもなんら後ろめたいことはない。むしろ一夜限りの付き合いで種だけ提供、というよりも流れで妊娠・出産であったとしても人工授精ではない、という時点で母親としてはシングルマザーだとしても自慢の一つになり得るのである。
そもそも男が独身のまま、ただし血の繋がった子供が居るというのは珍しいことではない、というのが今の詩季の生きる社会の常識だ。
また、実際に、兄弟姉妹で夫婦状態となったり子供を成したりなどは少なくはなく、近親による影響で障害を持って生まれる子が少なからず起きているのだが、それは詩季の前世の世界でも割合の違いは有れど同じ事である。
冬美は詩季が特別男児保護法による養子だとは知らないが、都合の悪いことは「ミエナーイキコエナーイアーアーアー」がデフォルト状態なので血縁や倫理観などは全く気にしていない。
「でも冬ちゃんまだ中学生じゃん」
「う、高校卒業まで、待って」
「あはは」
「私とならすぐに結婚出来るよ!?」
「どこから降って湧いた」
「ボディーガードですぅ。冬美、あんた同門の先輩に対して言葉遣い悪いよ!」
友田智恵子が現れた。現れたというよりも、ただ単に詩季を道場に入れたあと、部屋に荷物などを置いて戻っただけである。
「お兄ちゃん、この人、僕のこといつも苛める」
事件後、智恵子にこってり絞られた冬美。針生を人質に脅迫して言うことを聞かせた冬美がどう考えても悪いのだが、ささやかな仕返しである。逆恨みとも言う。
「何!?」
「え、え、え!? いじめてなんかないよ!? 今のやりとり見てたじゃん!?」
「冬ちゃんを苛めるなんて酷い! 倍返しだ! えい、えい!」
そう言いつつ、抱き抱えたままだった幼女を下におろし、その幼女のほっぺたをプニプニする。
「やば!? 超ふわふわぷにぷにすべすべ! なにこれ、なにこれ!?」
あまりの感触の良さに頬ずりまで始めた。幼女もご機嫌で詩季にすりすりする。
今の詩季だから許されるが、前世の詩季ならば通報案件である。事ほど左様に見た目というのはどんな世界でも重要だということがよく解る事案と言えた。
「私もすべすべだよ!?」
野球の試合の途中でサッカーボールを蹴って寄越すような智恵子。
事件前までならば詩季も「どれどれチョンチョン」と頬をつつくところだが、事件後の詩季は少しだけ自重を辞めていた。それが惨劇の始まり。
「どれどれ」
チュッ
冬美が
千代が
幼年部生徒が
智恵子が吠えた。
そして冬美を筆頭に智恵子に襲いかかる。擬音で表現出来るような、およそ地球で発生する音とは思えない轟音が響き渡る。
智恵子は某格闘ゲームのように宙を飛ばされコンボというコンボが繋がり終わりが見えない。
「何この阿鼻叫喚……どうしよ」
智恵子の常人ならざる耐久性能を知っている詩季は助けようとは一先ずしない、というよりも生物の危険察知の本能が仕事をして止めようという選択肢すら生まれない。
「あー、詩季君。放っておいて帰らない?」
「そうだね。智恵子はともかく妹さんは問題ないだろうから」
「買い物するんでしょ? うち寄る? 一頭買いの和牛、今日捌いてるからもし良かったら来てってうちのお母さん言ってたよ」
いつの間にか道場内に入っていた針生、絵馬、肉山に促される。
「え!? 行く行く~うっしにく~。あ、この子見てなきゃ駄目だった」
普通に放置するのは常識的に有り得ない上に、戦争状態の危険区域に幼女を放置するなど人として出来る訳が無い。
「あの人がお母さんじゃない?」
丁度道場の入り口で惨劇を目にし唖然としている女性を指さす絵馬。確かに目元などが幼女と似ている気がした。
「あ、ママ! ママ!」
予想通りだったらしく、幼女は詩季の制服の下を引っ張りながら母親に近付こうとしているところにその母親も気付いた。
「あ……あ……見てて下さったんですか? すみません」
友田柔道場には商店街でも話題の天使が舞い降りると噂であり、詩季のことは遠目から見ていたその母親はどぎまぎしながら頭を下げた。
「いえいえ~。可愛いですね。じゃ、僕らはこれで。
じゃ、またね? ばいばーい」
母親に幼女を渡し、これ幸いと去ろうとするも呼び止められる。
「パパ、いったあやだぁあああ!」
子供だからと言ってあまりいい加減なことを言ってはいけない、という見本である。
「あ、この子ったら……ごめんなさいね? こんな若い子をパパとか呼んじゃって」
「あはは、いえいえ。光栄ですよ。さっき僕が冗談でそう言っちゃったからですし」
「もう責任とって結婚します」
「え?……は?」
どうやらシングルマザーの男日照りらしい、と絵馬達は察し、瞬時に詩季とその母親の間に割って入って壁となる。
「彼はまだ未成年ですから」
絵馬は詩季を背中で押して幼女の母親から離れさせた。
「あら、男の子なら十六歳から結婚はでき」
「条例違反だっつの」
呆れた肉山。お互い近所に住んでいるので素性は知っていた。この女性は自衛官だと思い出し、あらかじめ決めていたサインを他メンバーに送る。『この女、強し。防御陣構築せよ』と。
「愛に年齢は」
「失礼だがあなたに有っても彼には無いでしょうに。その思考回路じゃストーカーのそれと同じでしょ」
割とざっくり斬る針生。
「いや、でも」
しかし本人に拒絶された訳ではないその母親は何を思ったか食い下がろうとするも絵馬が釘を刺した。
「あんまりしつこくすると訴えられて前科つきますよ?」
詩季ならばよほどでなければ世の男性のように簡単に訴えたりはしないと絵馬達は知っているが、その母親の執念に危機感を持たざるを得ない三人。流石に『この人頭おかしい。まぁ……時たまには居るだろうけど』と詩季も絵馬たちの後ろで警戒を強めた。
守られるのが何が何でも嫌という訳ではないが、自分のためにまた誰かが怪我をするのは出来るだけ防ぎたかった。そこまでこの母親が末期的な状況ではなく、詩季との会話に舞い上がってしまっているだけだろうとは感じているが、目の前に居るとやはり身構えるのは仕方が無い
「お嬢ちゃん大変だねぇ~? 犯罪者の娘とか、一生終わったねぇ? お先真っ暗だよ~? 怨むならママを怨んでねぇ? あっぷっぷー! あっちょんぶりけー! お先まっくらけー! あっちょんぶりけー!」
肉山が幼女に向かって、にこやかに、そして変顔も交えて笑いかける。
「キャッキャ! あったんぷりけー! キャッキャ!」
幼女に意味が解るはずもなく泣きやみ、その肉山の百面相にキャッキャと喜んだのは不幸中の幸いである。幼女の育成状況を店番をしているときに見ていたから出来る技である。そうでなければかなりゲスと言えたが肉山も基本は善人なのでちゃんと空気と状況は読んでいた。ロジカルに考え選んだ方法ではなく直感でしかないところが肉山の悪いところではあるが。
「愛ちゃん、大人げないよ」
苦笑いしながら詩季は言うが、泣きやませた功績から肉山愛を責める言葉に力は込められてはいない。
「あ、う、す、すみません! 許して下さい! 失礼します!」
やっと頭が冷えたのか、母親は幼女を抱えて逃げていった。
「あーあ。あんまり苛めちゃ駄目だよ?」
走り去る親子の背を見ながら詩季は三人に注意する。
すると、顔を見合わせた三人の内、絵馬が詩季を指さし
「詩季君は危機感が足りない!」
どーんっ
と指摘する。
「な、なんだってー!?」
ノリの良い詩季は仰け反る。
「とりあえず、私もキスして欲しいッ」
「え、良いけど」
「え、良いの!?」
絵馬のあまりの反応に言った詩季が驚く。
「絵馬ちゃん達ならキスくらい良いよ? 時と場合によるけど、皆にはお世話になってるし、皆のこと好きだし」
これが誰かれ構わずだと収拾がつかない上に、それほど仲が良い訳ではない相手や見知らぬ相手とキスしたいと思えるほど詩季は肉食系ではないためそう答える。
「じゃ、じゃあ、今」
あまりの急展開と急発展の可能性に取り乱し、このチャンスを逃す訳にはいかないと焦った絵馬は、ンーッと唇をタコのように突きだし目を瞑る。非常に滑稽な姿である。
ギャグでやっているのか?
と詩季が顎に手を当て某探偵のように真顔で絵馬を見つめる。
「エマッチ、待て落ち着けクールになれビークールだ!」
「そうだよ、今ここでなんてやったらあれの仲間入りだよ!? あんな猛獣達に襲われたら三秒でヒデブと言いながら爆散だよ!」
その普段ならぬ詩季の様子に気付いた残り二人は逆に冷静となって絵馬を止めた。
そして詩季が本気でありその場でキスなどしたら物理的に危険が危ないと、まだ智恵子を冬美と千代がコンボで繋いでしばいているのを恐怖心の宿った目で見る。
「はっ!? そ、そうだね、えっと、ごめん」
「あはは、じゃ、まぁ後日? タイミング見計らって? って感じで」
好かれて嫌な訳が無い詩季としては智恵子にしたように頬に口づけで恩人でもある絵馬達が喜ぶなら、と約束する。
そして宣言された三人とも、その夜は色んな意味で興奮し眠りにつくことができなかったのであった。
おまけ
詩季「めでたしめでたし」
冬美「めでたくない、誰かれ構わずアレはいくないっ」
詩季「じゃあ冬ちゃんにもしちゃ駄目なんだね。残念だよ」
冬美「ちょっと何いってるかわからない。僕は別(真顔」
詩季「……冬ちゃんのそゆとこ結構好き」




