終わって 始まって
今年大学二年となった春姫は完璧と言って良い才女である。男にモテない訳ではないのだが本人が鈍感なこともあり、興味も抱けないという難点は有るが。
「む。月刊弟選手権の記念号、だと? 買わねば」
人付き合いに苦手意識を持つというよりも必要最低限で言葉を厳選し誤解をさせないようにする気質の彼女はその反動からか独り言が妙に多い。自覚はしつつも友人知人の居ない講義の日など下手をすると一度も口を開かないことになりかねないため、あえて独り言の癖をそのままにしている。そうでなければ「リアル声の出し方忘れた」をやりかねないと思っているためである。
「む。むぅ。あまり欲しい本が無い」
月刊弟選手権という本命を持ちつつ、レジに持って行く時にサンドイッチする雑誌を物色するがちょうど良いものが見つからない。いつものタイミングならば同時発売で経済誌か医療専門誌があるのだが今日は運悪くめぼしい物がなかった。
「はぁ。ん? これは詩季が好きかもしれん」
春姫は目に入った付録付き服飾雑誌を手に取り、もう一つの弟の趣味であるクロスワード懸賞雑誌も取りレジに向かった。
「ただいま」
「五月蠅い」
帰宅直後にリビングで洋画のDVDを見ていた弟、詩季は長姉に開口一番そう告げる。
「詩季」
「死ね」
最愛の筈の弟は、高校受験で希望校に落ちてから荒んでいた。容姿に優れていたため蝶よ花よと育てられ更に能力も高かったが故にプライドが異様に高く育った。受験勉強などせずとも希望校に入学できると信じていた少年の生まれて初めての挫折が彼を歪ませていた。進学校の部類には入るものの滑り止め程度の認識だった詩季にとっては見下すような同級生ばかりでその態度から友人も居ないようである。
「死ねと言うのは辞めなさい。夕飯はどうする?」
無視である。春姫はため息を小さくつき、詩季の好きな生姜焼きの下拵えを始めた。
小学校までは多少傲慢ではあったがそんな乱暴な言葉遣いをする子ではなかった。思春期に入りそんな言動が目立つようになったが母も忙しいこともあり「そのうち落ち着くでしょう」と様子見であった。そもそも母は詩季に嫌われるのを極端に怖がる典型的な母親で、中学受験の時も受験勉強しろと詩季に口酸っぱく言うのは長姉である春姫だけであり、母も、詩季の姉にあたる次女夏紀も三女秋子も注意しないどころか時に庇ったりした。四女冬美は詩季にはむしろ苛められパシリにされる傾向がありあまり詩季に近付こうとしない。
「ただいま」
「冬美、お帰り」
小学生の冬美はツインテールを一瞬揺らしリビングをのぞき、己の恐れる兄が映画を見ているのを確認して即座に、ただゆっくりと音を立てないように階段を上って自室に閉じこもった。静かに鍵をかける音が耳に入り、春姫は大きくため息をつく。
「あ」
「ちっ……ジュースないのかよ?」
一段落したのであろう詩季は台所に入って冷蔵庫を物色するが好みのものがなかったらしい。母のビールと春姫用のカクテルくらいだ。
「買い置きは……無いな」
「あれ。今月のアソアソじゃん。ラッキー。おい、ファソタ買ってきて」
ラッキーじゃなくお前のために敢えて買ってきたのだ、それに姉をパシリに使うんじゃない。そう言いたくなったが一時期よりは落ち着いた弟を刺激したくない春姫は言葉を飲み込む。
「今は夕飯の準備を」
「グレープ味な」
そう言い残しソファーでファッション誌をだらしなく寝ころんで読み出す詩季に春姫はまた大きくため息をついてエプロンを外し、財布を握った。無視すれば怒り散らし次は末妹の冬美をパシリにするだろう。冬美は女の子と言えど基本は物静かな妹。春姫もあまり負担をかけたくなかった。
なんだかんだと他の妹二人が居れば何か理由を付けて弟のわがままを聞こうとするだろうが春姫の目にはそれも当然健全には見えない。
「どうしてこうなったんだろうか」
そう呟きつつ近くのコンビニに向かった。
いつも不幸は突然訪れる。しかしそれは所詮主観の問題でしかない。被害にあった本人の人格にとっては不幸であるのは疑いようがない。だが、その家族は? 友達は? それに関わることになった全くの他人は?
今回に限って言えば、本人にとってのみの不幸であった。
「声を出したら殺す」
甘やかされて育った少年は努めて冷静であろうとする経験に乏しかった。
庭からリビングに直接押し入った強盗に刃物を突きつけられた少年は非力な身で逃れようと動いてしまう。
「チッ」
詩季の暴れる足がテーブルに当たり載っていたコップが落ちて割れる。妹が気付いてくれると期待するも妹は兄のいつもの癇癪が始まったのだろうと勘違いし放置する。あまりの物音に若干の疑問を残して。
「死ね」
いつも家族に向けていた言葉の刃が実際の刃と共に己に振り下ろされる。
「兄、ちゃん?」
あと数秒、早くいつもの兄の癇癪とは違うと気づけたなら。
「ただいまぁ。あー疲れた疲れたぁ」
あと数秒、部活を早く帰っていれば。
「まず埃と花粉を払え。詩季は花粉症だぞ」
あと数秒、弟の我が儘に腹を立てず早く出かけ帰っていれば。
「姉さん達、二人とも靴くらい揃えたら良いさ」
あと数秒綿密に組んだ一日の予定を早めていれば。
ただ、彼女たちはその数秒で生まれ変わった詩季を家族として迎えることとなる。
生死をさまよった詩季の人格は、家族が驚く程に穏やかで、そしてそれまでの人生の記憶をほぼ失っていた。




